十月のエリーゼ 第十七話
サリエルは暗闇の中で目を覚ます。遠くに蝋燭が一つ立てられているのが見える。辺りは真っ暗だ…
自分が何故こんな所に居るか、全く思い出せない…思い出せないけれど。
これが明確に異常な状況である事はすぐに解った。
自分は地下室に監禁されているし、両腕には手枷をはめられ、壁に磔にされている。口にも猿轡が…そして…別の明かりを持った人物が、どこかから近づいて来ている…
サリエルはそれが誰か、自分を助けてくれる人物である事を強く願った。
――助けて下さい…お嬢様…ああ…でもお嬢様はこんな所に来てはいけない…
しかし、現れたのは、サリエルが願っていた人物ではなかった。むしろ、サリエルにとっては最悪の人物。
それは…怪人。大きな帽子の男、ナッシュだった。
「…!む、む、むぅ!」
サリエルはもがくが…この状況では何も出来ない。
これは一体どういう事なのか。何が起きているのか。
こんな人生最大の危機を前にしても、サリエルが次に考えたのは、エレーヌの事だった。
――駄目、お嬢様は来ては駄目、誰かお嬢様を守って!この怪人から…お嬢様を!
ナッシュはどんどん近づいて来る…しかも、興奮した様子で。呼吸も荒く…
そしてナッシュは、呟くように言った。
「こんな事はしたくなかった。したくなかったが…わたく…俺は…」
サリエルはナッシュから目を背ける。涙がぼろぼろとこぼれる。
ナッシュの声が狂気に震える。
「お前を誰にも渡したくない…誰かに奪われるくらいなら、いっそ一思いに…!」
気絶してしまいたい。気絶してしまいたいとサリエルは念じた。
しかしナッシュは…近づくのをやめ、背中を向けた。
壁には手枷だけでなく足枷もあるのだが、それはつけなかったので、これ以上近づくとサリエルの蹴りの間合いに入る。
「大丈夫…少しの間だから…あの女、クリスティーナが帰ったらちゃんと釈放するから。頼むから、そこで大人しくしていてくれ…」
ナッシュは少し落ち着いた様子でそう言って…立ち去って行く。
「酷い家だと思わないか。こんな部屋、何に使ってたのか、想像もしたくねェよな…ストーンハート家の先祖は変態揃いだったんだろうな…きっと」
ナッシュが去った後。サリエルは静かに怒りを燃やす。女主人の家の、そんな誹謗を、変態に言われたくない。
そしてこのような危機の最中にあっても、サリエルが考えているのはエレーヌの事だけだった。
今まで中途半端に怪人を放置して来た事。今はそれが悔やまれてならない。もしも次の機会があるならば。次の機会があるならば、絶対に息の根を止めないと。
このような狂気を露にした今、怪人はお嬢様に何をしようとするだろうか…エレーヌの身に万一の事でも起きたなら…か弱く美し過ぎるお嬢様が、あの変態の手に捉えられ、あんな事やこんな事を…
「むーっ!!むーむー!むぅむぅむぅ!!」
想像してしまった光景を打ち消し、脳裏から締め出そうと、サリエルは力の限り暴れる。しかし十分な重量のある鉄の手枷と太い鎖は断ち切る事が出来なかった。それは大きな鋲でしっかりと石積の壁に四点止めされていた。
一体今は何時なんだろう。自分は何時間眠っていたのか…全く解らない。
サリエルの瞳から涙が毀れ続ける。何という事か…明日はエレーヌの誕生日だというのに…まさかもうその誕生日も過ぎたりしていないだろうか…
お嬢様は日曜日の午後六時に来て欲しいと、オーブリー氏に言っていた。それはきっと大事な、必要な事なのだ。どんな用事があるのかは解らないが、自分の使命は、例え幽霊になってでも十月七日午後六時にエレーヌの元へ行く事だ。
サリエルはそう考えていた。
やや日も傾いた、午後のある時間。
伯爵屋敷のリビングの奥の廊下をさらに行くと、家族用の居住区の中の、エレーヌの部屋がある。五歳の頃までのエレーヌはここに暮らしていた。
窓の外にはちょうど美しい花壇がある、日当たりも風通しも良い、小さな子供が心地よく暮らせるよう配慮された小さな部屋だ。
壁には小さな頃のエレーヌが描いた落書きがそのまま残っている。うさぎとかめ、くまやきつね、ねずみ、あひる…そして春の野原。
今やその部屋の家具は、背もたれ付きの古い椅子一つだけになっていた。子供の頃のベッド、机、箪笥…クリスティーナはそれを残しておくようにと言っていたのだが、数年前にエレーヌが全て片付けさせてしまった。
その時にピアノも買い取り業者に売った。そうしたらその業者から折々にコマーシャル手紙が届くようになった。昨日も届いた…誕生日おめでとうございますというメッセージと、最新のピアノの買い取り価格が書かれた手紙が。
エレーヌは一人、背もたれ付きの椅子に深く腰掛け、目を細めていた。だらりと椅子の両側に下げられた手には、何故かそれぞれバイオリンと弓が握られている。
今の所、誕生日に届けられたメッセージカードは、ピアノ買い取り業者の物だけである。今日は配達が休みで明日は配達があるから、明日は届くかもしれない…父からのメッセージカードくらいは。
がらんどうの部屋の真ん中に置かれた椅子。西日が壁の一部を照らしている…五歳のエレーヌが描いた動物の絵が…象、ライオン、ゴリラ…
エレーヌはバイオリンを構え、力強く鋭く、生命を賛美する曲を弾き始める。
あと数時間の命となった、十六歳の自分を葬る勢いで。
クリスティーナは自ら、屋敷の方々を探し歩いていた。レアルに戻る準備も出来たので、そろそろ出発しなければいけないのだが…エレーヌがどこにも居ない。
先程まではバイオリンの音がしていたので、家族部屋に居るかと思ったのだが、行ってみると居なくなっていた。
その上、ヘルダに言ってサリエルを連れて来るように頼んだのだが…そのサリエルも居ない。
クリスティーナは今日にもサリエルを連れて行くつもりで居た。別に連れ去って二度と帰さないという訳ではない。一度本人に話をして、また実際に宮殿に行ってみて、それから考えてくれてもいいと思っていたのである。
その上でサリエル本人が嫌だと言えば伯爵屋敷に返す事も有り得る…勿論、そうならないように説得するつもりではあるが。
エレーヌのサリエルに対する執着心を甘く見ていたか。クリスティーナは密かに反省する。
両親を亡くし、六歳で屋敷に引き取られたサリエル。クリスティーナが伯爵屋敷に住んでいた最後の半年間。
オーギュストは当時から殆ど屋敷に戻らなかったが、その半年間、エレーヌは母と、すぐに大好きになったサリエルに囲まれ、毎日笑顔で暮らしていた。
サリエルもずっとエレーヌの側に居たし、クリスティーナもいつも目の前に居た。あの頃の暮らしはまるで、三人の親子のようだった。
エレーヌが六歳になるのを機に、クリスティーナは伯爵屋敷を出て、首都レアルの公爵屋敷に戻った。
それでも元々は四歳になったらという約束を二年延ばしたのだ。
エレーヌは泣いたが、当時のエレーヌは大変聞き分けのいい子で、泣きはするものの、親を酷く困らせる事は無かった。
その後もエレーヌが小さいうちは、クリスティーナもなるべく頻繁に伯爵屋敷に来るようにしていた。エレーヌはクリスティーナが来れば泣き、一緒に居る間は笑い、去ろうとすれば泣いた。サリエルも一緒になって泣いていた。
そしていつの日からだろうか。エレーヌは誰とも話をしなくなった。サリエルもメイドとして働くようになり、自分も国民議会と貴族院の仲介役を務める事が多くなり、伯爵屋敷に来ても上の空で、議会の事ばかり考えている事も増えた。
時が過ぎ、気がつけば…エレーヌは今のような高慢で我侭な娘になっていた。
エレーヌとサリエルの関係も変化していた。昔の仲睦まじさは厳然たる主従関係に変わり、ともすればクリスティーナでさえ苛烈と感じる仕打ちを課すエレーヌと、どんな仕打ちにもめげずに応えるサリエル…
ヘルダも言っていた。サリエルも良くないのだと。サリエルが何でも許してしまうから、エレーヌは子供っぽいままなのではないかと。
「…仕方無いわ。もう行かなくては」
クリスティーナは言った。傍らのヘルダが恐る恐る述べる。
「奥様…お嬢様は顔に出すのは苦手なだけで、本当はお喜びでしたのよ」
クリスティーナが帰ればエレーヌが悲しむとヘルダは言う。
伯爵夫人は苦笑いで答える。ヘルダとは二十年来の付き合いになる。
「ジェフロワと他の料理人達にも宜しくね。今回は私の負けでしたわ。文句のつけようが無かったもの。彼らが私邸の料理人なんて勿体無いわ本当に…この屋敷、そのままホテルにして開業すればいいのよ…きっと大評判になるわ」
「まあ…皆喜びますわ」
「エドモンは少し頑張り過ぎですわね。庭じゅうトピアリーだらけじゃない」
「ええ、ほんとに」
しかもエドモンが低木を刈り込んで作る動物像はクマばかりである。二人は忍び笑いを漏らす。
「それでは」
クリスティーナはそう言って、自分の鞄を自分で持ち、玄関ホールを出て行く。
彼女を古い伝統や規律に縛られた人間と言う人も居るが、実際はどうか。彼女は新世界で作られたような自分で脱ぎ着出来る服を好み、自分の鞄は自分で持ち、自ら自動車を操縦する。男社会にも堂々と切り込んで行く。
むしろもうすぐやって来る、新世紀の女性だと思う。ヘルダはその後姿を見て思った。
クリスティーナが運転する蒸気自動車が、伯爵屋敷のロータリーを迂回し、正門へと向かって行く。
エレーヌはその姿を、オーギュストの部屋から続く秘密の通路の途中にある、見張り穴から見ていた。肘で這わないと通れない通風口のような通路だが、これも有事の為の物である。




