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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
十月のエリーゼ

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十月のエリーゼ 第十五話

 十月六日の朝が来る。


――バサバサバサ!ギャア、ギャア!ガアッ、ガアッ!バサバサバサ…


 伯爵屋敷の木立の上で数羽のカラスが一斉に騒いだ。


 屋敷の古いガレージの近くに、古い石板が横たわっている場所がある。

 今では屋敷の誰もがその謂れを忘れてしまっていた。ある者は言う…恐らく、使用人の誰かの墓だったのだろうと。

 他の者と同じ場所に葬ってもらえず、死後も隔離されているという事は、何か不名誉な行いをしたか、厄介な奇病を患って亡くなったか…そんな者の墓なのだと。



 その石板が今。ゆっくりと…滑るように動いていた。

 石板の下には空洞があるようだった。その闇の中から…小さな手が飛び出す…




 学院は今日は休みである。エレーヌは珍しく朝早くから一人で身支度をして何処かへ行ってしまった。

 見れば厩舎の老いぼれ馬が一頭居ない。


 普段通りに起きて来たサリエルは、方々で使用人に女主人の行方を尋ねていた。


「ああ、朝早く厨房に来て…何か用意しましょうかと言ったら、構わないとおっしゃって。昨夜の賄いのサンドイッチを少し持って行ったな」


 料理長のジェフロワはそう教えてくれた。


「乗馬クラブかしら…どうしましょう…」


 弁当を持って行ったという事は、少し遠出するという事だろう。

 ここでサリエルは昨夜の事に思い当たる。あの扮装でエレーヌに会えないか?



 黒いインバネスコートに黒の山高帽、分厚い黒縁眼鏡に大きなハンドルバー髭。怪しげな紳士が、カトラスブルグ郊外の道を馬で行く。

 この馬は伯爵屋敷のメイドのサリエルが、面識のある近所の農家から借りた。


 乗馬の心得もある紳士は、危なげなく馬を走らせて行く。



 果たして。クラブハウスの厩舎にはエレーヌが乗って行ったと思われる老いた馬が居る。紳士は馬を降りる。

 よく考えたら、自分はここの会員ではない。しかしまあ、紳士でさえあればつまみ出されるという事はあるまい。紳士は静かに馬を柵に繋ぐ。



 今は朝という事もあり、馬術場はがらんとしていた。もう少し日が高くなれば客も増えるだろう。今日は休日だ。


 紳士は溜息をつく。エレーヌは居た。しかし衣装箪笥には乗蘭も燕尾服もあったろうに、何故軍服を着て来たのか。お母様に見つかったら大目玉だ。

 しかも優雅に馬を乗りこなす馬場馬術をしているものと思いきや、棒など振り回して人型を叩いて回る、騎乗剣術のような事をやっている。

 かなりの手並みではあるものの、伯爵令嬢が今の世の中でその技術を何に使おうというのか。いつまでも子供のよう…クリスティーナが嘆くのも無理は無い。


 エレーヌはクラブに預けてある馬に乗っていた。八歳の元気な馬でエレーヌとの呼吸も合っている。他には誰も居ない…と思っていたら、別の騎馬が馬場に現れた。


 それは紳士も知っている人物だった。陸軍大尉のリシャール・モンティエである。普段、軍でもさんざん馬に乗っているだろうに、休日にも乗るのか。


 見ればエレーヌとモンティエは軽い挨拶を交わし、二、三、会話を交わしている…内容は紳士には聞き取れなかった。また何か悪態をついたのでなければ良いが。


 そして二人は離れた。モンティエの方は軍ではあまりやらない、競技用の馬場馬術の練習をやるようだ。エレーヌは棒を片付けている…エレーヌも馬場馬術にするのか。


 粗忽者の紳士は、ここに来た目的も忘れ、心の中で二人に声援を送っていた。

 エレーヌに誕生日の事を話せと。モンティエに一緒の練習に誘えと。


 しかし。エレーヌは棒を片付けただけでなく、そのまま馬場を離れ馬からも降りてしまった。粗忽者の紳士は密かに落胆した。


 エレーヌは馬を厩務員に預けると、そのまま…どうも、観覧席の方、つまり紳士の居る方へやって来るようだった。


 紳士は、居住いを正して待った。



「貴方がサリエルがおっしゃっていた殿方かしら。昨日私の屋敷の門前で…怪人を追い払って下さったという」


 エレーヌの顔には何の感情も浮かんでいなかった。


「ああ、いえ、たいした事では」

「御名前をお伺いして宜しいかしら」

「ええ、オーバン・オーブリーと申します、レアルで大学講師をしております」

「そう…」


 紳士は不意に寒気を感じた。エレーヌが「そう…」という時には大概、次に悪い事が起こると、経験的に知っていたのだ。


「あの…エレーヌ嬢…」

「貴方には御礼を差し上げなくてはなりませんわね」


 エレーヌは氷の表情で歩み寄る。紳士は殺気を感じ後づさりする。


「い、いえ御礼をいただけるような事は何もしておりませんので…」

「貴方は私の唇が欲しいとおっしゃっていたそうね…私の唇を奪えたならば死んでもいいと、むしろ死ぬと」

「そ、それはその、ええ、はい、そのくらい私はお嬢様に恋焦がれて、その」


 エレーヌはどんどん近づき、紳士はどんどん後づさりする。

 得物を追い詰めた狼犬のように目を光らせるエレーヌ。


「ならば貴方にとびきりの口づけを差し上げますわ。覚悟は宜しくて?」


 牙を剥くエレーヌ。壁際まで追い詰められ青ざめる紳士。近づく顔と顔。エレーヌの牙が紳士の唇に突き立てられようかという、まさにその寸前で。


「でもそれはそれは明日にしておきましょう…そうね…夜六時頃にでも、屋敷に来て下さるかしら?」

「は…はい…」


 エレーヌはさっさと身を翻して立ち去って行く。紳士はしばらく立ち上がる事も出来ず、呆然としていた。



「明日は…私の誕生日ですのよ!」


 エレーヌは最後に、大きな声でそう言った。

 馬場に居たモンティエも、一瞬エレーヌに視線を向けたが、すぐに前に向き直る。モンティエは思った。では観覧席でおかしな格好をしていたサリエルは、何かの余興でもするつもりなのだろうかと。




――ギャア、ギャア!バサバサバサ!ガアッ、ガアッ!ギャア、ギャア…


 伯爵屋敷の木立の上で数羽のカラスが一斉に騒ぐ。


 屋敷の古いガレージの近くに、古い石板が横たわっている場所がある。

 石板は今、元々あった場所からは少しずれていた…そこは墓ではなく、何かの入り口になっていた。


 そこへ。一人の小柄な人影が近づいて行く。辺りを伺いながら。真っ黒なローブに大きな鍔付きの三角帽…数百年前であれば、そんな格好をしているだけで火炙りにされたような…魔女のような姿。


 魔女は辺りを伺いながら、石板の下にあった隠し通路へと消えて行く…

 最後に、石板がずるずると動いて行き、元通りに戻る。

 辺りは再び静かになった。

粗忽:軽率で不注意なこと。そそっかしいこと。それによるあやまち。粗相。

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