側仕えのサリエル 第七話
その日の午後、下校時間近くに、気の毒なモンティエ大尉は十人の部下を連れて、教会通りにやって来た。
「引き受けたからにはきちんとやらねばならん…各自配置に付け。愛想は必要無いが決して無礼の無いように。言うまでも無いとは思うが」
部下にそう指示し、モンティエ自身は教会通りと戦勝記念通りの角に立つ。この辺りなら差し障りあるまいと。
暫くの間、この時間にここに立たねばならないと思うと憂鬱だ。今は普段であれば剣術や射撃の訓練をしている時間だ。今後そういった事にも支障が出てしまう。
聖ヴァランティーヌ学院の下校時刻が始まる。
そもそも、問題となったディフェンタール大将閣下の孫娘、オリヴィア嬢は毎日馬車による送迎を受けている。陸軍士官に道路の警護をさせて何の意味があるのか。
聖ヴァランティーヌ学院は名門校には珍しく寮が無い。家族は一つ屋根の下で暮らすべきというのがこの学院の創立者のモットーだったからだ。
徒歩で帰宅する生徒は、だいたい全体の三分の二程度だそうだ。残りは馬車で送迎を受けている。下校時間のピークには、教会通りから正門へ続く登り坂に馬車の行列が出来る。
そんな中。一頭の馬の近くをスズメバチが飛んでいた。馬の方もスズメバチの方も決して悪気があった訳ではない。だが不幸な事に、何かの物音を聞いて振り向いた馬の口に、たまたまスズメバチが飛び込んでしまった。
馬車の列の方で誰かが悲鳴を上げた。何かがぶつかる音が、砕ける音が続く。
二頭立ての馬車の一頭が暴れ、引き綱や金具を引き千切り、なおも暴れ狂う。同僚の馬はその馬に蹴られてパニックを起こし、暴走して馬車を引きずり、横転させ、なおも引きずって行く。
前に居た馬車も巻き込まれた。動揺した馬が跳ねあがろうとするのを御者が必死に抑える。
「下がれっ!下がれーっ!」
さすがにいち早く危機を察した、陸軍のエリート達は素早く現場に駆けつけ、まず近くに居た女生徒達を物陰に避難させる。御者達は自分の所の馬を抑えるのに必死だった。
最初に騒ぎを起こした馬は、狂ったようにもがき苦しみながら、坂の脇にある林の中へ突っ込む。
「ともかく、林から出すな!」
兵士達は声を掛けあい、林の中で暴れ回る馬が道に戻らないよう、儀仗で道を塞ぎ、威嚇する。兵士達の武器は儀仗だけで、拳銃も持たされていない。
モンティエはようやく教会通りを駆け抜け、学院に続く坂道の入り口まで来た。
「お前達も建物沿いに避けろ!真ん中に立つな!」
周囲の女生徒達は、騒ぎは坂の上の方で起こっていて、この辺りには危害は及ばないと思っていた。だから道の端に避難するよりは、道の真ん中で何が起きたか見ようとしていた。
エレーヌとジョゼも、徒歩で下校している最中だった。エレーヌは一人で帰るつもりだったのだが、ジョゼがついて来るのだ。
最初の馬が暴れ出した時、二人はそこからほんの10m程坂を下った所に居た。幸い馬が暴れて走り出して行ったのとは反対方向に居たので、様子に注意しつつ坂を下って来ていた。
しかし、林の中を駆け抜け、再び暴れ馬が道に飛び出して来たのは、ちょうどその辺りだった。
「危ない!!」
誰が叫んだか解らない。林を飛び出した馬は、ちょうどジョゼの居る方に向かって来ていた。
こんな光景を想像もした事が無かったジョゼは、その瞬間真っ白になってしまった。
暴れ馬が迫る…
次の瞬間。ジョゼの目の前に、大きな影が立ちはだかる…
ぎりぎりで間に合った大尉は、横から馬の頬を突き飛ばすように弾き、寸でのところで向きを変えさせた。
次に飛んで来たのはエレーヌだった。近くの馬車に掛けてあった、緊急用のカラビナのついたロープを取って来たのだ。
「…それを!」
モンティエが言う前にエレーヌはそれを大尉に差し出していた。モンティエはそれを受け取り、自然に…儀仗を伯爵令嬢に渡していた。
跳ね回る暴れ馬が歩道を登って行かないよう、エレーヌは儀仗を横に持ち高く掲げて防ぐ。
そして…後ろ脚を蹴り上げて暴れる馬に、モンティエは素早く近づき、その轡の金具にカラビナを掛けた。
「皆、下がれ!」
モンティエ大尉が叫ぶ。エレーヌは腰を抜かしていたジョゼを立たせ、近くで茫然としていた他の女生徒と共に退避させる。
他の馬車も退避して出来たスペースで、モンティエはロープで向きを誘導しながら馬を走らせる。真っ直ぐには逆らわず、なるべく一つ所を回らせるように。
「どう、どう…」
声を掛け、落ち着かせながら。モンティエは暴れ馬の動きを、円に収束させる。
暴れ馬は少しずつだが、落ち着きを取り戻す。他の兵士達も集まって来たが、エレーヌ同様、敢えて包囲を狭める事はせず、大尉が馬を落ち着かせるのを待つ。
「どう…どう…」
やがて大尉が馬のたてがみに触れる頃には、馬はどうにか落ち着いていた。馬の持ち主の御者は足を負傷していて近づけなかったが、他の御者が、馬の轡を取り、引き継いだ。
「ご協力に感謝する」
モンティエは途中で落としていた帽子を拾い上げながら言った。
「…貴方、どこかで御会いしましたかしら?昨日より前に」
エレーヌはモンティエに儀仗を返す。
「御会いしたという程ではないが…毎年、市の馬術大会で御見掛けしている」
「…ああ、思い出しましたわ、貴方、いつも銀メダルの方ね」
「これは手厳しい」
モンティエは苦笑する。金メダルは毎回アンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク男爵だ。モンティエにとって競技馬術は余技であり、それで銀メダルなのは十分であったのだが。
かく言うエレーヌもだいたい女子で銅メダルだ。あまり熱心にやっていない割には上手い。
「貴方が居なければ大惨事になっていたとは思いますけれど。何故貴方のような軍人さんがこんな所にいらっしゃったのでしょうね。おおよそ、これ程貴方に似つかわしくない場所も無いのではないかしら」
エレーヌは腰に手を当て、遠慮もなく言った。これもモンティエには耳の痛い話だった。皮肉屋の伯爵令嬢はこれを聞いたらどんなに嘲笑うだろうか。しかし問われたら言わねばならない。
「…この学校で二件続けて侵入者が出た。警察は忙しいので軍隊が訓練を兼ねて警戒に当たる事になった。それだけだ…」
エレーヌは…一瞬目を細めた。そして。
「そう…それは…お気の毒ね…」
エレーヌが言ったのはそれだけだった。
ほっとしたから、という訳では無かったが、モンティエは少し気になっていた事を聞いてみた。
「過日…サリエル…サリエル嬢が郵便局の前で倒れたようだが…彼女に何があったのだろう。彼女は無事なのか?」
エレーヌは瞬きをして、二秒ほど、停止していたが。
「サリエルにそんなにお友達が居たとは知りませんでしたわ…あの子も隅に置けないわねえ。こんな立派な大尉殿に心配していただけるなんて」
そう言ってエレーヌは、邪悪そうな笑みを浮かべた。
しかし、モンティエはエレーヌがいつも相手をしているような、彼女の機嫌を伺う人間では無かった。
「彼女とは杖術の兄弟弟子だ。彼女が最高の環境で修練したいと言って陸軍の伝習所に現れたのは二年前だった。女主人にそう命じられたからと聞いたが。自分を護衛するなら、最高の環境で学んで来いと」
エレーヌは自分の記憶を探る。
「最初は皆笑った。俺も笑ったかもしれん。実際最初は婦女子の手習いに過ぎない腕だった…だが彼女は本気だった。今では伝習所の誰もが彼女に敬意を払っている。彼女の努力と信念は、伝習所の誰もが手本とすべきものだ」
エレーヌはモンティエから目を逸らしていた。
「サリエルは屋敷で療養中ですわ。早く元気になって貰わないと困るのですけど」
「まあ無事ならば結構。伝習所の仲間も心配するからな…足止めして申し訳ない」
エレーヌは礼もそこそこに、すたすたと去って行く。その後をジョゼが追って行くが、一度振り向いてモンティエにペコリと頭を下げる。
「…サリエルが居ないと調子狂うわ」
エレーヌは呟く。それはジョゼにも聞かれてしまった。
「やはり…サリエルさんが居らっしゃらないのは不自由ですのね?」
「そうね…」
エレーヌは前を向いていた上、上の空でもあったので、隣でジョゼが意味深に笑った事に気付かなかった。
「私、こちらですので…エレーヌ様、ごきげんよう。また明日」
「またね」
途中でジョゼと別れ、エレーヌは徒歩で屋敷に戻った。そしてロータリーに差し掛かった時。ふと。花壇に何か置いてあるのが見えた。
『物理 四年生 エレーヌ=E=ストーンハート』
伯爵令嬢はひどく青ざめた。




