側仕えのサリエル 第八話
通学鞄を開き他のノートを確認する伯爵令嬢。五年生の物理のノートが無い。
エレーヌは辺りを見回す。そして意味もなくロータリーの周りを歩き回る。その顔色はさすがに悪かった。
門の方には庭師見習いが一人立っていたが、彼は常日頃からあまり伯爵令嬢の方を見ないようにしていた。
エレーヌはノートを鞄にしっかりしまい込むと、屋敷の中に入って行く。
伯爵令嬢はサリエルが眠る部屋に現れた。見守り役のポーラは驚いて立ち上がる。
「私が代わるから。もういいわ」
「は、はい、お嬢様」
慌しくポーラが出て行くと、エレーヌはまず深い溜息をついた。そして、サリエルに近づく。
サリエルはやはり、ただ眠っているように見える…衰弱して昏睡しているというよりは、ただ眠っているかのように。その顔色は決して悪くないし寝息も今はしっかりしている。
エレーヌはサリエルの頬の辺りを、指で突く。
「…」
反応は無い。
次にエレーヌは布団の外に出されているサリエルの、怪力に似合わぬ細い手首を掴み、揺さぶる。
「…」
それでも反応は無い。
エレーヌは…今はサリエルより顔色の悪いエレーヌは、今度はサリエルの両肩を掴み、結構な勢いで揺さぶる。必死の形相で。
「…」
サリエルは起きない。
次にエレーヌは壁際へ行き、そこに並べられている箒やはたき等の中から一つ…重さ2kgの特製モップを持ち上げる。
「…」
鬼の形相でモップを振り上げるエレーヌ。その眼下には…すやすやと寝息を立てるサリエル。
どさり、と。モップを床に落とし…伯爵令嬢はぺたんと床に座り込んだ。
そしてエレーヌは、だだっ子のように床を転げ周り、顔を伏せ、拳を振り回す。そして、足をばたつかせる…無言で。
静止するエレーヌ。
5分…10分…無駄に時は過ぎて行く。
ようやくエレーヌは立ち上がり、モップを元に戻す。
部屋を出る前に一度だけエレーヌは振り返る。恨めしそうに。
サリエルは何も知らず、すやすやと眠っていた。
結局ポーラは呼び戻された。エレーヌは気まぐれに夕食を断り、部屋に篭ってしまった。明日の朝まで何人たりとも入るなとの札を添えて。
翌朝。
部屋から出て来た伯爵令嬢は、一晩休んだ後のはずなのに、やつれ果てたような顔をしていた。
「お嬢様、朝食はお取りになりますか…」
「当たり前ですわ!どうして食べないと思いますの!」
エレーヌはディミトリの問いに苛立って答える。
サリエルが居ないので、朝食も屋敷のダイニングに行かないと食べられない。別のメイドに手配させればいつも通り自室で食べる事も出来るのだが、エレーヌはそうした手配をしていなかった。
マナドゥはもう来て、サリエルの診察をしていた。輸液療法に加え今日は注射も試したようである。
「不整脈は出なくなりましたし顔色は悪くないです。もう命の危険という状態ではないとは思いますが」
「…それでは何故、起きませんの!?まさか原因不明なんておっしゃられないでしょうね?それではダニエル先生と一緒ですわ!」
「過労による障害なんて何が出ても何が出なくてもおかしくないんですよ。過労から感染症を発症する患者も居る。過労で寝込んだまま植物状態になった患者も居る。申し訳ありませんが医師に出来る事は、現れた症状に対応する事だけです」
「…こんな事ならダニエル先生で良かったのよ!ふん。今日は遅刻の無いように送って下さらないかしら?」
などと。エレーヌは屋敷の中ではさんざん悪態をついたかと思えば。
「先生…サリエルが植物状態になるかもしれないなんて、本当ですの!?どうしたらサリエルを助けられますの!?御願いします!サリエルを助けて!」
また、長屋通りを過ぎる辺りで泣き出して、すがるような目で見る。
「私もつい感情的になってしまい…申し訳ありません、そういう極端な症例も無い訳ではないだけで、サリエルさんの場合はそんな事にはなりませんから」
そして、戦勝記念通りまで来ると、高慢な伯爵令嬢に戻る。
「この馬車はそろそろ買い替えられた方がよろしくないかしら?乗り心地が悪くて背中に響きますわ」
教会通りとの角で降りて、歩いて学院に向かうエレーヌの背中を、マナドゥは苦笑いで見送った。
教会通りから先の陸軍兵士は昨日の倍ぐらいに増えていた。
周囲を歩いている女生徒達が、噂話をしていた。
「聞いた?昨日も出たんですって…不審者…それも一度や二度じゃないそうよ」
「本当に!?こんなに兵隊さん達が警備してるのに!?」
教会通りの掃除をしているシスター達も。
「不審者が何度も学院に忍び込もうとしたそうよ」
「その度に大尉さん達が見つけて…侵入を防いだんですって」
エレーヌは噂話の合間を静々と歩いて行く。
教会通りから学院への坂道の辺りまで来ると、後ろからジョゼが駆けて来た。
「エレーヌ様!おはようございます!」
「…おはようございます」
今ひとつ元気の無いエレーヌは、ごく普通の挨拶を返す。
モンティエは暴れ馬事件の反省から、自分の持ち場をこの坂道の入り口に移していた。あの時は一番遠くに居たせいで初動が送れてしまった。
引き受けた仕事は全力でやると誓ったのは自分だというのに。とは言えこの状況は不本意極まりない…モンティエは学院の女生徒達に囲まれていた。
「不審者はどんな男だったのですか?またズボンを履いてなかったのですか!?」
「恐ろしいですわ!大尉は学校の中は警護して下さらないのですか?」
「いつまで私達を守って下さるの?犯人が見つかるまでですの?」
「大尉はまだ結婚されてないのですか?心に決めた方はいらっしゃるの?」
絶対に無礼の無いようにと固く言われている兵士に出来る事と言えば、何も見えない、聞こえないふりをして立ち尽くす事ぐらいだった。
エレーヌは歩調を速めて歩み寄る。
「騒ぎはここですの!野次馬はおやめなさい!早く登校なさい!」
エレーヌはモンティエを二重三重に取り囲む、好奇心丸出しの小娘達を追い払う。
「うら若き娘が寄ってたかって…!借りはお返ししましてよ」
エレーヌはそのまま立ち止まらずに歩いて行く。ジョゼがそれを小走りに追い掛けながら、途中で振り向いて一礼し、また追い掛けて行く。
「今のは、私の真似か」
生真面目なモンティエも、思わず含み笑いを漏らした。
彼は昨夜の捕り物に思いを馳せる。念の為夜まで残っていて良かった。不審者は明け方まで、用心深くすばしっこく、五回も侵入を試みて来た。
痴漢でなければ一廉の奴だっただろうに。モンティエは思った。
懲りずに変装してノートをすり替えに行ったエレーヌ。
その目論見はモンティエ大尉達に阻まれたようです。




