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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
側仕えのサリエル

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側仕えのサリエル 第六話

 学校に着く頃、いや、教会通りの曲がり角を曲がる頃には、エレーヌはすっかり元の伯爵令嬢に戻っていた。


「こちらで結構ですわ。こんな馬車で校門まで行って、変な噂を流されたくありませんから」


「明日の朝も参ります」


 マナドゥはそれだけ言って、馬車を走らせ去って行った。



 伯爵令嬢は学院の門前に立った。既に登校時間は過ぎているので、門は閉まっている。エレーヌは鞄から一枚の書類を取り出す。マナドゥが気を利かせて書いてくれた、遅刻の言い訳だ。


 通用門は彼女の為に開いた。今日の分はこれでいい。問題は昨日の分だ…

 一度登校した事は誰かが知っているだろう。そして結果的に無断下校してしまった事は間違い無い。これをどうするか。



「おはようございます。遅れまして申し訳ありませんわ」


 エレーヌは努めて冷静に、堂々と教室に入った。勿論授業は行われている。

 さらにエレーヌは堂々と着席し、堂々と授業の準備をする。二年くらい前にそれでそのまま許された生徒を見た事がある。

 もっとも、その生徒も後で職員室に呼ばれたようだが。


 しかしその授業は、何事も無く終わった。



 休み時間。エレーヌは機先を制し職員室へ向かう。昨日の事をどう言い訳するか。


「失礼致します。五年生のエレーヌ・ストーンハートですわ」


「話は聞いたよ。大変だったようだな。それでどうだね?サルヴェール君は」


 クラス担任の教師、ブノワに機先を制されたエレーヌは、少し戸惑う。


「ええ…今朝も良くならないので、改めて別の先生に見ていただいたのです」

「ほう…マナドゥ先生か。評判の若者じゃないか」


 ブノワはエレーヌから受け取ったマナドゥの診察証明書を見て言った。これで今日の言い訳は必要無くなった。


「昨日の事なのですが…」


「うん、シャルダン君から聞いた。通学路でサルヴェール君が倒れていて、君が屋敷に連れて帰ったと。あまり無理な事をするもんじゃない」


 エレーヌは一瞬複雑な表情を見せた。

 あのジョゼ・シャルダンが気を利かせて、前後を入れ替えて誤魔化しておいてくれたというのか。

 これで昨日の言い訳も必要なくなったようだが…借りを作られてしまったのは落ち度と言える。


「ところで、物理のボンドン先生の宿題は、もう提出したのかね?」


「ボンドン先生の?四年生の時の課題ですの?それは夏季休暇の直前にお出しさせていただきましたが」


「そうなのか…?サルヴェール君に随分頼まれて、私からもボンドン君に御願いをしたものだったのだが…」


「申し訳ありませんブノワ先生、サリエルはそそっかしい所のある子ですので、私が宿題を既に提出していたのを忘れていたのでしょうね」


「そういう事なら…後でボンドン君にも話しておこう」


 エレーヌは満足げな顔で教員室を出た。



 そして昼休み。


 授業終了と共に、エレーヌは疾風のように廊下に飛び出した。

 廊下の各所には、ここを走らぬよう注意書きが貼られている。エレーヌも普段はそれを守っているが、今日はやむを得ぬ事情がある。


 事故防止の為角を大きめに曲がりながらエレーヌは走る。他の教室からも数人のライバル達が飛び出して来る。目指すは一階の購買部である。



 数分後。エレーヌは小さな紙袋を手に、静々と教室に戻って来た。


「ジョゼさん」


 エレーヌは、一人でコッペパンと水筒を取り出して昼食にしようとしていたジョゼの元に歩み寄り、声を掛けた。


「一日限定五食の満月サンドですわ」


 エレーヌはたっぷりの生クリームとフルーツを挟んだ、丸いカステラサンドの包みをジョゼの机に置いた。


「あ…あの…」

「これで貸し借り無しですわよ」

「ありがとうございます!」



 昼休みの噂は、昨夜出たという痴漢の噂で持ちきりだった。


「窓から一階の教室を覗いてたんですって」

「誰も居ないのにですの?」

「捕まった時…ズボンを履いてなかったらしいわよ!」


 エレーヌは一度教室を出てから戻って来ていた。サリエルが居ないので、当然サリエルが普段持って来るランチボックスもティーセットもおやつも無い。

 しかしそう悟られるのは恥と思っているのか。エレーヌは食べてもいないランチが済んだかのように、ハンカチで口元を軽く拭う。


 それからエレーヌは席に戻る。


 教室のカーテンが風で揺れている。九月という事もあり、まだまだ外は暑い。


 サリエルが休んだだけで、昼休みにやる事が揺れるカーテンを眺める事くらいしか無くなった伯爵令嬢は、黙ってそうしていた。

 一昨日の今頃は、やはり暇だったのでサリエルに変顔をさせて退屈を紛らわせていた。その時はサリエルも笑っていた。

 エレーヌは急に苛立って来たかのように、拳で机をトントンと叩く。


「エレーヌさん」


 不意に声を掛けられ、エレーヌは小さく震えた。ジョゼだ。


「先ほどはありがとうございました、満月サンド、初めて食べられましたわ」


 ジョゼはにっこりと笑う。エレーヌはしばらくきょとんとしていたが、やがて口を開く。


「一人一つですもの。五位以内で購買に走ればいいだけよ」

「でも私、間に合った事無いんです」

「…まあ、運もあるわね」


 昼休みはまだあったが、エレーヌは鞄から次の時間の教科書とノートを取り出す。これ以上お喋りをする気は無い、と示すように。

 だけどジョゼは引き下がらなかった。


「あの、次の時間…語学ですよね?昨日の続きになりますので、宜しければ私のノートを見ませんか?」


「…あら…飛び級をする子ともなると、出来が違いますわねえ…」


 エレーヌは意地悪そうにそう言い、唇を歪める。しかし。ジョゼはそこで怯むどころか、さらに前に出て来た。


「はい!私頑張ったんです!エレーヌ様…エレーヌさんと同じクラスになりたくて!」



 満面の笑みでそう言い放つジョゼ。

 エレーヌは思わぬ展開に腰を引いた。


「やっと同じクラスになれて、私すごく嬉しかったのに、昨日はエレーヌさん、お休みでしたから…寂しかったけれど。サリエルさんの為では仕方ないです」


「貴女…どうして私の事を御存知なの?」


 ようやくエレーヌは口を開いた。まさかの劣勢というか。


「学院に知らない者はおりませんわ。サリエルさんとの名コンビぶりも。私、本当にサリエルさんが羨ましいんですの」


 その時。午後の始業の五分前を知らせる鐘が鳴った。


「まあ…すみません、エレーヌさんのお昼休みのお邪魔をしてしまいましたわ」


 ジョゼはそう言って、ようやく自分の席に戻って行った。

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