側仕えのサリエル 第二話
エレーヌ達が馬車で帰ると、伯爵屋敷のロータリーに、オーギュスト・ストーンハート伯爵その人が居た。
「お父様!お戻りになられたのね!」
エレーヌは鞄を手に、馬車から駆け下りて父の元へ走る。オーギュスト伯は自ら箒を手に、ロータリーを掃き清めていた。
「おおエレーヌ、私の宝よ…足の方はすっかり良くなったのだね。本当に良かった」
「もう、お父様、お戻りいただけるなら知らせて下されば良かったのに!…まあ大変、私もお手伝い致しますわ!」
エレーヌは塵取りを手に、伯爵の足元に屈みこむ。
「いやいや、お前は学校から帰ったばかりで疲れているだろう、私の気まぐれに付き合う前に一休みしてはどうだね」
「私、馬車に乗せていただいていただけですのよ、それでは過保護ですわお父様…あの」
エレーヌは辺りを見回す。父に顔を向けていない時はいつものエレーヌの目で。その視線を浴びたメイドの一人は、慌てて小さく首を横に振る…
「もしや、お掃除が…行き届いておりませんでしたかしら?」
「いや、そんな事は無い、誤解しないでおくれ。私はただじっとしているのが苦手でね、無理を言って代わって貰ったのだよ、この仕事をね。はは、は…」
「まあ、お父様ったら…宮廷での御仕事も大変ですのに、まだ働かれますの?」
「ははは。クリスティーナにも、よくそう言われるよ」
クリスティーナはエレーヌの母でオーギュストの妻である。クリスティーナは結婚以降も公爵家で暮らしており、ここにはオーギュスト以上に滅多に来ない。
オーギュストはエレーヌにそうするように、月に一、二度はクリスティーナに会いに公爵家へ赴く。
それがストーンハート家の家族の姿だった。
サリエルは少し離れた所から、その光景を見ていた。
お父様と過ごされている時のお嬢様は、昔と変わらぬ天使のようだ。お父様の視界の外では時々いつもの顔に戻るものの…基本的には明るく優しく、飾らない素敵なお嬢様になる。
これが本来のお嬢様なのですわ。サリエルはそう思った。では普段のエレーヌはどうしてああなってしまうのだろう…サリエルは…遠いどこかへと想いを馳せた…
―――ドサッ…
「…サリエル?サリエル!どうなさいましたの!?」
最初に動いたのはエレーヌだった。心配そうにそう呼びかけながら…突然倒れたサリエルの元に駆け寄る。
「いけない。医者を呼ばなくては。ディミトリ君!来てくれ給え!」
伯爵も屋敷の方に声を掛ける。周りのメイドもサリエルの元に集まる。
「ディミトリ君!すぐ医者を呼びに行かせ給え、サリエル嬢が倒れたのだ」
「何と…申し訳ありません。旦那様とお嬢様はどうかお部屋にお戻りください、後は私共が対応します故」
「お父様…私、サリエルについていても構いませんか?とても心配ですの…」
エレーヌは瞳を潤ませ、心から心配そうにそう言った。
「そうだな…だが、皆の邪魔にはならぬようにな。私も自室に居るから、何かあったら遠慮なく言いなさい」
伯爵は深く頷き、そう告げると、屋敷の中へ戻って行った。
「…」
エレーヌは父の後姿を見送っていたが、それが見えなくなると、支えていたサリエルの肩を別のメイドにポイッと預け、黙って自分の部屋へ帰って行った。
サリエルは霧の中を歩いていた。或いは霧の上を歩いていると言うべきか。自分の靴も見えないような、深い霧がかかっていた。
遠くに小さな家が見えて来る。良く覚えている。あれは私の家だ。
平屋建てで、小さいが庭もあり、よく手入れされた薔薇が咲いている。
庭の木の枝にぶらさげられた小さなブランコはお気に入りだった。今となってはもう乗れないだろう。
―――私、久しぶりに家に帰って来たんだ。
サリエルが玄関へと近づいて行くと、その扉が開いた。ちょうど、母マエリスが、父セザールが出て来る所だった。
「お父様!お母様!」
サリエルは笑顔で手を振る。
「サリエル…」
両親は一瞬笑顔になったが…すぐに顔色を変えた。
「どうなさったの?私、帰って来ましたわ!」
サリエルは笑顔で駆け寄るが、両親も慌てて駆け寄って来る。
「私、お腹が空きましたわ!久しぶりにお母様の料理が食べたい!」
「サリエル、だめだ!」
「だめよサリエル!家に入ってはだめ!」
両親の信じられない言葉に、サリエルも顔色を変える。
「どうしてですの…私ですわ?サリエルです、貴方達の娘です!どうして…」
「お前はまだここに入るべきではないんだ!だめだサリエル!」
「御願い!ここに入らないで!まだなのサリエル!!」
両親は必死にサリエルを押し留めようとするが、今のサリエルは色々訳もあり、華奢でたおやかな見た目からは想像もつかないような怪力を身につけていた。
「嫌ですわ!!私もう、ここでお父様やお母様と一緒に暮らしますの!!」
「頼むから!頼むからやめてくれサリエル、ていうかどういう怪力なんだお前!」
「苦労したのね!解るわよ、解るわよサリエル、でも早いの!貴女には早いの!」
両親を押し込みながら家の玄関まで辿りついたサリエル。その手がドアノブに伸びる…
「サ、サリエル!あれを見なさい!」
セザールはサリエルの背後を指差した。
―――えっ…
振り返ったサリエルが見たのは…五歳のエレーヌだった。
「まってー!ねこちゃんまってー!」
「追い掛けるのよサリエル!お嬢様が迷子になったらどうするの!」
「早く追うんだ!お嬢様の足は五歳でも速いぞ!」
―――そんな…
サリエルは…我が家と両親、そして走り去って行くエレーヌを何度も見比べる。
「私やっぱりおうちが!お父様とお母様が!」
「馬鹿ものっ!お前のお嬢様への気持ちはそんなものかッ!!」
「何の為にここまで頑張って来たのッ!!目を覚ますのよサリエル!!」
―――…
サリエルは…両親を押してまで、家の中に入ろうとするのをやめた。
「ごめんなさい、お父様…お母様…」
「…解ってくれたか…またそのうち会えるから。慌てる事は無いからな」
「そうよサリエル、せめて曾孫くらい出来てから帰ってらっしゃい」
「はい…お父様、お母様…ご機嫌よう!」
サリエルはぼろぼろと涙を零しながらそう言って、身を翻し、走り出した。
「お嬢様!お待ち下さい、お嬢様!お庭を走ると危のうございます!」
サリエルは途中で一度だけ振り返った。遠ざかって行く我が家の前で、両親は微笑んで手を振っていた。
「ねこちゃんまってー!ねこちゃんー」
「お嬢様、ねこちゃんは追い掛けてはいけませんよ」
五歳でもエレーヌの足は速く、サリエルもかなり遠くまで追い掛けなくてはならなかった。
エレーヌは足を止め、ようやく追いついたサリエルを見上げ、首を傾げる。
「どうして?」
「ねこちゃんは追い掛けられると、とっても怖がるんです。ねこちゃんと仲良くなりたい時は、ねこちゃんの方から来てくれるように、そっと近づいて…一緒にお昼寝に誘うんですよ」
エレーヌはしばらくサリエルを見上げ、瞬きをしていたが…
「サリエル…だっこして!」
サリエルに向かってにっこりと笑い、手を伸ばした。
「もちろんですわ。では、失礼します」
サリエルはそっと身を屈め、エレーヌを優しく抱き上げる。
エレーヌはキャッキャと笑い、サリエルの首に手を回す。
「サリエルー」
「はい!」
「サリエルだいしゅき!!」
エレーヌはそう言って、サリエルの頬に何度もキスをする。
「きゃあああ!!鼻血よ!!」
過労で倒れたサリエルの看護の手伝いに借り出されていた、ベテランメイドのヘルダが悲鳴を上げた。
「いかん、出血場所によっては命の危険もあるぞ!」
「先生…恐ろしい事を言わないで下さい、サリエルはまだ若いんです!」
「気休めを言っても始まらん!」
サリエルは気付いた。自分を見下ろしているのは同僚のヘルダと…近所では腕は下の中と評判の医師、ダニエル先生だ。往診料が格安なので人気はある。
「今…お父様とお母様に会いました…」
「サリエル!!しっかりしなさいサリエル!!」
サリエルの呟きに、ヘルダは青い顔をして答えた。
サリエルの両親は既にこの世にありません。




