側仕えのサリエル 第三話
サリエルが過労で倒れた翌朝。伯爵は首都レアルより電報で呼び出され、急ぎ出掛けて行った。
伯爵令嬢は、屋敷の前のロータリーに佇んでいた。
普段乗っている屋敷の四頭立ての馬車は父オーギュスト伯爵を乗せ大急ぎで出掛けてしまい、戻って来る様子が無い。
他の馬車を用立てようにも、伯爵屋敷はカトラスブルグの郊外にあり、急に借り出そうと言ったって無理だ。まさか伯爵令嬢が近所の、藁束を満載したロバ車に乗って出掛ける訳にもいかない。
だから歩いて行くしかないのだが…普段鞄を持ってくれるサリエルが居ない。さすがに絶対安静と言われ控え室で寝ている。
学校は4km先だ。急げば30分か。
エレーヌはようやく、自分の鞄を持って歩き出す。
「…」
屋敷の門を出て30m。100m。150m…エレーヌは立ち止まって振り返り、数秒の間佇んだ。勿論誰もついて来ない。
小一時間かけて学校に着いたエレーヌは、鞄の中から物理の宿題を取り出そうとする。それは、四年生の時に残してしまったエレーヌの為の追試の宿題だった。
本来、そういう物があると進級は不可になるものなのだが…絶対に新学期の一回目の授業で提出すると(サリエルが)固く約束をして、特別に見逃してもらった。
そして約束をしたのはサリエルなのだからサリエルがやるべきという理屈で、答案の作成はサリエルに任せていたのだが…当然の事ながら答案はサリエルの鞄の中にある。
つまり、今日絶対に提出しなくてはならない宿題…
それが、エレーヌの鞄に入っていなかったのである。
「私、少々眩暈が致しますので…保健室に行って参りますわ」
エレーヌは近くの生徒にそう告げ、教室を出て行った。そして廊下を、優雅に、静かに歩いて行く。階段も。ホールも。
そして建物の玄関を出て、中庭を抜け、ロータリーへ、門を出て…次第に早足になって行くエレーヌ。
学院の前の教会通りを小走りに駆け抜け、市役所通りまで出た所から…エレーヌは全力疾走を始めた…
ところが。その市役所通りを、向こうから…パジャマ姿のサリエルが走って来る。
エレーヌも全力で走る。サリエルは駆け通して来たらしい。二人は市役所通りの郵便局のちょうど前で出会った。
「…お嬢様…これを…」
サリエルは荒い呼吸を整えながら、ノートを差し出す。エレーヌが忘れて行った物理の宿題だ。
「何故私の鞄の時間割を揃えておかなかったの!おかげで私、生きた心地が致しませんでしたわ!馬鹿ッ!怠け者ッ!役立たず!」
エレーヌは容赦無くサリエルに罵倒を浴びせる。
「申し訳ありません…お嬢様…」
サリエルは地面に座り込む。
「サリエル?こんな所で座るんじゃないわよ!」
「お許しください…少しだけ…休んだら…帰りますから…」
「少しだけじゃないわよ!そんな格好で、こっちが恥ずかしいじゃないの!サリエル!怒るわよ!?サリエル!?」
そうエレーヌが言う間にも。サリエルはそのまま昏睡してしまった。
「…」
エレーヌは周囲を見渡す。平日の午前早く…人通りは多いし、人目を引く容姿の二人でもある。たくさんの視線が集まっている…主に、男性の。老いも若きも…
エレーヌは、サリエルの体をしっかりと抱き寄せる。
「お嬢さん、どうしました?」
「手を貸しますよ!お嬢さん!」
周りに男達が集まって来る…中には親切で言っている者も居るのだろうが、下心で集まっている者はより多い。
エレーヌは目に力を込め、辺りを威圧する。男達が、エレーヌのただならぬ気迫に押され、たじろぐ。
その時。一台の馬車が止まった。
「サルヴェールさん!?」
一頭引きの二輪馬車に乗っていた若者が、席から降りて来る。背丈はエレーヌ達より10cm高く、スマートで知的な顔立ちの、眼鏡をかけたスーツ姿の若者だった。
「医師のマティアス・マナドゥと申します。何故こんな所で彼女が…」
「お下がりあそばせ」
エレーヌはぴしゃりと言い放つ。
「御名前や御職業をおっしゃる所は他の殿方より立派ですわね。ですが私の大事な親友ですの。軽々しく見知らぬ殿方にお預けする訳には参りませんわ」
エレーヌはそう言って、サリエルを背中に背負おうとする。
「お待ち下さい。彼女は何故昏睡しているのですか?大事な御友人なら尚の事、短慮を起こすべきではありません。私が信用出来ないならそれは結構。ですがせめて私の馬車をお使い下さい。そして貴女が信頼する医師の所へ彼女をお連れ下さい」
繊細な容貌を持つ、明るい金髪の若者はそう言った。
「騒ぎはここか。野次馬は散れ!自分達の仕事に戻れ!」
背後で誰かが叫んだ。
エレーヌとサリエルを二重三重に取り囲む、下心丸出しの男達を追い払いながら。喧噪の中、軍服の詰襟をきちんと留め軍帽をきちんと被った、長身痩躯の男が現れる。
「大の男共が寄ってたかって…!?サリエル…!」
前髪を目元にまとわりつかせた、これもまた野性味も華もある黒髪の美丈夫が。野次馬の只中に居たのが彼女だと気付き、その名を呟く。
「…呼び捨ては失礼ですわね。私の家の家人ですのよ?」
「…失礼。近くで男共が倒れた美女に群がっていると聞いて…私は陸軍大尉リシャール・モンティエ…貴女は伯爵令嬢のエレーヌ様とお見受けする…そちらの紳士は?」
「お医者さんのマナドゥさんだそうですわ。たまたま御通りになられたとか」
「そうか…では私も野次馬に過ぎないようだな…失礼した。その馬車で運ぶのなら、道くらい開けさせよう…さあお前達、そこを開けるのだ!」
結局エレーヌはマナドゥの馬車を借りた。
二人乗りの馬車にはサリエルとエレーヌが乗り、マナドゥは馬を引いて歩いた。
「お医者様は必要ありませんの。昨日ダニエル先生が診療なさいましたわ」
「ダニエル先生…ですか…先生は何と?」
「それは彼女のプライバシーに関わる事柄ですから、申し上げられませんわ」
「そうですか…」
マナドゥは心中憂慮していた。ダニエルは知人でもあり、格安で診療を請け負うという意味では良い医師だが、する事と言えば検温と診脈だけで問診すらろくにせず、すぐに強壮剤の処方箋を出してしまうのだ。
「…馬車に乗せて下さった事は、御礼申し上げます」
エレーヌの態度は良いとは言えなかったが、マナドゥは気にした様子を見せなかった。
屋敷に着くとエレーヌはメイド達を呼び、サリエルを運ばせた。
「貴女も聖ヴァランティーヌ学院の学生のようですが…学院に戻られるなら御送り致しましょうか?」
「…結構ですわ。当家にも馬車がございますの」
マナドゥも馬車に乗って去って行く。エレーヌは暫く物理のノートを眺めていたが、やがてそれをその辺りに置くと、サリエルの控え室に行く。
控え室では新入りのメイド、10歳のポーラが、簡素なベッドで眠っているサリエルの見守りをしていた。
ポーラはミリーナの代わりに新たに雇い入れた、やはり孤児の少女らしい。
「昼までは私が看るわ。貴女はディミトリかヘルダに聞いて別の仕事を貰って」
「は、はい!」
ヘルダから、お嬢様には逆らうなときつく言い含められているポーラは、慌てて扉を出て行く。部屋にはエレーヌと、眠っているサリエルが残された。
「…」
エレーヌは早速、このサリエルの私室の文机の引き出し、本棚、サイドチェストなどを漁り始める。屑篭の中や、ベッドの下、衣装ダンスの中なども念入りに。
お目当ての物は概ね手紙らしい。七月以前に届いていた手紙は…どこかに隠したのか全て処分したのかは解らないが、一通も見当たらない。
一方サリエルの文机の上には、八月中に届けられた手紙が未開封で積まれている。
八月一日に屋敷を離れ、一昨日の夜に長旅から戻り、昨日は朝から学校に行き、夕方に倒れたサリエルには、八月分の手紙に目を通す時間は無かったのだ。
エレーヌは封筒に鋏を入れかけたが、さすがにそれはやめたようだった。代わりに手紙を天井にかざしたり、目を近づけたり、振ってみたりする。
それから、窓辺にも持って行ってみる。明るい窓にかざすと、封筒や便箋の材質にもよるが、中身の文字が少し見えるようだ。
エレーヌが知りたいのは手紙の送り主らしい。封筒の宛名の字体からも推測出来るが…差出人は最大で五、六人か。一通だけの者もいれば十通に及ぶ者も。
「…」
そして、マナドゥとかモンティエとかいう差出人は居ないように見えた…あのクールな青年医師や若くして大尉の美丈夫は手紙の中にも居ないようだった。
エレーヌは…微かな寝息を立てるサリエルを見下ろし、拳を握り、振り上げた。
そしてその姿のまま、暫くは佇んでいたが、やがて拳を緩め…椅子に逆から座り背もたれに顎を乗せるという、伯爵令嬢としては他人には見せられない格好で、見守りを再開した。




