虹の都
1969年。春。
高校を卒業した私。西尾由紀子とたっちぃこと武田彰子は大阪を目指す集団就職列車にトランク一つと共に乗りました。
この集団就職列車は私と久さんが見合いをした1975年に廃止されました。今となっては思い出深いですね。
今を生きる皆さんにはご想像できないことかもしれませんが、次に故郷に帰ってくることはもうない覚悟でした。
少なくともあの頃の私たちは、お勤め先を首になってしまったら行くところの無くなる無力な娘たちでしたから。
「どきどきするね」
「あんたは気楽だね」
泣き出す子もいる中、私達二人はすし詰めの列車の中で同じ境遇のみんなと共に呟きます。
ほとんどは紡績工場。男の子は丁稚に旅立ちます。
金の卵に月の石。
誰が言い出したか貴重な労力。
「絶対紡績工場だと思った」
「私ら、優秀だし」
ニコリと笑いあいます。
地元の名門高校を主席で卒業した彰子と私。
住み込みのお仕事で、お給金はそこそこ。
「ねぇ。大阪にいったら女の子でも」
「しっかり勉強したら暮らしていけるぞ」
「私、がんばる」
「あたしも」
最初は無給同然でもがんばれば頑張るほど、覚えれば覚えるほど大阪ではお給金が増えるのです。
「タイプライターは覚えたいなぁ」
「かっこいいよな」
タイプライターという代物は文字を打ち込むための判子の集まりです。
和文タイプライターはいちいち文字の判子を細かく調整しなければいけない専門職で、女の子でもお給金を一杯貰えたのですよ。
「布団。もっていけって言われたけど」
「まぁかさばるもんな」
布団どころかもっと荷物を持っている子もいますし、私達のようなトランクを用意できずに風呂敷の子もいます。
「会社が用意してくれるらしいよ」
「親切だよな」
母さんはこれから旅立つ娘のために飛びっきりの綿を用意して暖かい布団を打ってくれましたけど。かさばるから断ってしまいました。
がたがたと揺れる車内。
そこらじゅうから立ち込める煙草の臭い。
「ねね。たっちぃ」
「あん? 由紀子」
満員の電車の中。
より添いあう私たちは小指を絡めあい。
「ずっと友達」
「うん」
「指きり♪ げんまん♪ うそついたら はりせんぼんのーますっ!」
指切ったッ!
私たちはお互いを抱きしめあって眠りにつきました。
おや。息子が何か小言を言っていますね。このお話は後日に。
水の都。大阪は凄いところです。
踏み切り。あれはどうやって渡ればいいのでしょう。
信じられないほど大きな踏み切りの中に島のようなスペースがあります。
そして陸の上に橋があって、そこを人が渡っています。
人、人。人人人。
ひとばかりで世界中から人が集まったようです。
何処からか音楽が流れてきます。
有線でしょうか。
私たちははぐれないように必死で歩きます。
信号機が赤いです。物凄い数の人たちがその前に止まっています。
青になりました。
一斉に人々があちこちに歩いて行きます。
凄いです。誰も何も言っていないのに。魔法みたい。
「由紀子。ぼけっとしないで早く渡らないと」
「う、うん」
私たちはいつ赤色になるか判らない信号機に恐怖しながら必死で走って渡ります。派手な格好の男の人も女の人も。私達地方から出てきた若者も。
この街はあっさり飲み込んでひとつにしていく。そんな力を感じます。
―― 『魔将よ。運命を切り開く勇気の剣を持て。お前の行く先に試練の茨あれ』『勇者よ。目覚めなさい』 ――
どきん。
すれちがったお姉さんと思しき女性に抱き着く私たちより少し年下の女性。
金の髪を持つ美しい二人の耳が心なしかとがって見えたのは幻覚でしょうか。
「いてて。お前立ち止まるなよ。久?!」
「木下。悪い……その……なんというか……」
「美人な外人さんだったからな。わかるわかる。あとでおごってやる」
「パンパンには興味ない」
「あははっ。またかよ」
どなたかの声が雑踏の中に消えていきます。
あの女のひとたち。私たちと交差際に笑っていたような気が。します。
「おい。ゆっこ」
「ま……おう……さ……ま」
親友の声が遠く聞こえます。
「赤だぞ。早く渡れ」
「……しんせ……あれ?」
どうして、私は泣いているのでしょう。
どうしてこんなにうれしいのでしょう。
どうして、こんなに暖かくて優しい気分になれるのでしょう。
どうして。どうして?
空は青く輝き、不思議な輪のような飛行機雲が伸びていきます。
どこかで見た、あの大きな大きな輪のように。
ここが大阪。水の都大阪。
私達の第二の人生が、これから始まるのです。
~ 夜明けまで恋して 第二章。由紀子と久 小さな才媛と瀬戸内の悪戯小僧
へ つづく~