Ga-Raku-Ta<side-B>
『まえがき』と題されたページを読み終えて、俺は本を閉じた。ハードカバーで刊行されたその本を改めて見つめる。表紙の上に『我楽多』というタイトルが不器用な字体で並ぶ。カバー絵は表紙から裏表紙に渡って一枚の絵になっていて、それぞれに髪の長い女と、制服姿の少年が描かれていた。ちょうど背表紙にまたがって、やわらかく照る太陽と澄んだ川が上下に並び、二人はそれを挟んで向かい合っている。
タイトルの右下に、身を強張らせて緊張しているかのように、著者名が遠慮がちに記されていた。
――相澤ちえ。
初めて俺は、その女の名を知った。
……きっと迷子になってるだろうから……
あれは、今となっては謙遜にしか聞こえない。書店の会計カウンターの前に堂々と『相澤ちえコーナー』を構え、平積みされた本を手に取る人がたくさんいる。こうして立ち読みしていた間にも、俺の脇から本を取り、買っていく人を何人見た事か。
刊行され、メディアに紹介されるのを待つ事なく口コミだけで高売上げを達成した、無名の作家。彼女はそれでもなお、迷子と言うだろうか。
「――お、珍しい。ハルが活字を手にしてる」
やおら俺の左腕に寄りかかり、カノが手元を覗き込んだ。
「相澤ちえかぁ。これ、かなり有名だよね。詩とか写真とか日記みたいなものまで、とにかく相澤ちえの粋を結集した、みたいな本でしょ? ちょっと読んだ事あるけど、面白いよ」
へぇ――世の流行というものにまったくと言っていいほど疎い俺は、今さらながらに驚いた。
よもや、盲腸の時にそんな才能に出会うとは。
「今度、映画にもなるらしいよ? どんなのになるかまでは知らないけど」
「ふぅん」
「あれ? 興味あるんじゃないの?」
「ないわけじゃあない」
「どっちよ?」
「どっちも」
なおも食い下がろうとするカノをかわして、俺は『我楽多』片手に会計カウンターに向かった。
会計を済ませ、書店名入りのカバーをかけられた本をカバンに押し込みながらコーナーに戻ると、カノが『我楽多』に読みふけっていた。
「帰るぞ」
その後ろ頭を小突くと、
「何だか、かわいそうだなぁ」
何やらぼやき始めた。
「だってさ、こんな才能持ってて、短い人生を過ごしたんだよ? もっと生きていれば、きっとすごい作家になったかもしれないのに」
相澤ちえの運命を惜しんでいるのか、そんな短い命を与えた神への文句か、俺には判断しかねた。
「でもきっと、彼女は満足できたんじゃねーの?」
「私だったら不満だらけだけど」
おまえじゃ、な――喉元まで競り上がった言葉を、危ういところで押し止める。何を言い返されるか知れない。
「ハルが読み終えたら見して。一冊限りの才能ってのを見たいし」
手にしていた本をコーナーに戻し、カノは振り向いた。
「ん」
二人並んで書店を出ようと出入り口の自動ドアを抜けて――
――ありがとう――
――俺は振り返った。
相澤ちえコーナーに山積みされた本たち。その前に。
色素の薄い髪を肩まで伸ばした、細身の女が立っていた。スウェットを着た、まともにメイクもしていない女。
彼女ははにかむように微笑んで俺を見ている。
ふいに立ち止まった俺の脇で、カノが何事かと俺を見た。
滑らかに自動ドアが閉じる――
何かを言いたかった。礼なんか言われるような事は何もしていないし、本が出来たのは彼女に才能があったからで、俺が買ったのはそれが形になったから。なのに、ありがとう、だなんて。
「…………」
自動ドアのガラス越しからでは、彼女の姿は見えなくなった。閉じるに連れ、彼女が消えてゆく。
「……あの時、17だったんだよ」
呟いて、微笑を見届けた――
「――は?」
見れば、カノがあんぐりと口を開けている。
「あん時ってどん時?」
訝りながら、閉じきったドア越しに店内を覗き込む。
「やめろ。バカに見られる」
「ねー。どん時? んで、誰に話してたの?」
「独り言」
――そう。独り言。
「ねー、ねー」
「帰るぞ」
うるさく鳴くカノの手を強引に引っ張った。
俺は、幽霊なんて存在を信じていない。
それはきっと、そこに取り残された『過去』が形になったものだと思うんだ。
じゃあ、書店の彼女はなんだったんだろう?
もしかしたら、あそこに平積みにされていた『本』たちに込められた、相澤ちえ自身だったのかもしれない。
『過去』というものはどこにだって残る。時間の流れから置き去りにされた、人が創り出す、止まった瞬間。
もうこの世から去ってしまった相澤ちえは、本を書く事で彼女の『過去』を残す事ができた。
俺は――
俺は。俺の周りで流れ続けるこの時間に、自分の『過去』を乗せる事ができるんだろうか?
こんな事を言うと、またカノに笑われるから黙っておくけど。
俺は、とてもとても、ちっぽけな人間なんだと思うんだよ。




