プロローグ1『最後の仕事』
日中に照り付けたアスファルトから熱気が冷めて夜の闇が一番深まる深夜。僕は町はずれにある廃倉庫が並ぶ港を疾走する。何の目的もなくこんなところを走っている訳ではない。視線と進路はスーツ姿の小太りの男の後ろ姿に固定されていた。
「これ以上は逃げても無駄ですよっ!」
この港はすでに応援が駆け付け脱出路は封されつつある。そんな状況下で逃げ回っても無駄だろうに彼は止まろうともしない。往生際が悪い人だ。ろくに運動もしていない還暦前の中年が、身体訓練を積んだ現役高校生から逃げれるはずもないのに。
20メートル――15メートル――10メートル――……あと少しだ。ジリジリと距離を詰めていき男の背中がどんどんと大きくなっていく。あと少しだな、距離5メートル直後に加速して接近戦を挑んで制圧する……!
「く、くそっ――このクソガキがっ!!」
「――ッ……!」
その考えは黒い鉄の塊にかき消された。男はこちらに振り向き黒光りしたそれを向け威嚇する。手に握られているオートマチックのハンドガン。底知れぬ黒い小さな銃口が死に誘うかのように覗かせ、目を赤く充血させ滝のように汗を大量に流した男の顔には必勝という企みが見えていた。
――勝ちを確信しているようだけどこの程度で怯むものか。銃と対峙したのは今が初めてなわけじゃない。冷静に銃口の向きを予測し、足腰に力を込めて体を捻る。最小限の動きで減速しないように、そして確実に男との距離を縮める。
「――ッ……!」
――……来るっ……! パンッ! と、乾いた音が港に響く。漆黒の闇の中に刹那に閃光をまき散らすマズルフラッシュ。ちっぽけな指の力で命を刈り取る凶弾――しかし、その弾丸は僕の胸を貫くことはなかった。コンクリートの地面を抉り取り火花を散らし明後日の方向に跳弾していく――だけども僕は足を止めない。
「外した……っ! くっ……!」
男は再び引き金を引こうと銃口を向けてくる。呼吸も乱れてるし手も震えてる。これでは命中することはないだろうがこれ以上の銃声は騒ぎになる可能性がある。悪いけど速攻で終わらせてもらうね――身をかがめて足に力を込めて男の正面、下半身に潜り込むようにして突撃する。
「――なあっ⁉」
急な加速に反応できずに男の視線と照準は全く追いつけずに空に停止する……0メートル――無防備な懐に入り込むと息を吸いグッと握り拳を作る。右腕を後ろに引いて走った勢いとありったけな力を込め、溜めに溜めた力を爆発させるかのようにして前方に繰り出す。鉄拳はみぞおちにめり込み男の脂肪と筋肉を押し潰した。
「――ガハッ⁉」
鈍い感触とともに男の口から大量の唾液と体液が無様に吐き出される。多額の金を手にし全能感に浸った顔はすっかりと青ざめて醜く汗を浮かし、涎を垂らして嘔吐を我慢するかのような絶望感が張り付いていた。
痛そうで惨いけどこれは天罰だと思う。彼がやって来た違法薬の売買――何人もの人生を壊して亡くなっていった彼らの無念はどれほどのものだったか。自然と力が湧き上がり拳をさらに押し込む。男の顔はさらにぐにゃりと歪んで悶絶し、遅れてきた痛みに腹を抱えてうずくまると、崩れるように地面に両膝を着いた。
「――ここまでです。これ以上の抵抗は無駄ですよ」
「ゲホッ……ガハッ……ウグッ……は、はぁ……はぁ……こ、ここまでだと……?」
「はい、ここまでです」
情を捨て私情を隠してはっきりと言い放つ。四つん這いになりこれからの処遇に絶望しているのか、自分がどうなってしまうのかと不安に思っているのかは知らない。僕がやるのはこの男の処分――殺すこと。このままこの人を殺すこと。哀れで震える背中を見つめながらジャケットの内ポケットに手を入れる。
――殺す。この男を……それが今回の任務だけど。無抵抗の人を無常に処理するのは……うん、また怒られるかな。でも、なるべく殺しはしたくない。汗で濡れた手はナイフの柄――ではなく手錠の輪に触れた時だった。
「く……くっ、くはは……はははっ」
「何がおかしいのですか?」
絶望のあまり狂ったのか? あるいは彼もクスリを……? 突然笑い出したことに不気味に思いながらポケットから手錠を取り出した瞬間、男はガッとロケットのように立ち上がり大振りの右腕を振るう。崩れた醜悪な笑みと執念と憎悪――手には何やらガラスの筒のようなものが握られている。うつ伏せになっていたのはこれを隠すためかッ!!
「くっ――っ!? ッ! うぐっ―ッ!!」
「ギャハハッ! いい気になるからだクソガキがぁ!」
完全に隙を突かれた僕はすぐに後ろに下がったが回避しきれずに左腕にグサッとした痛みが走る。男はチャンスだと言わんばかりに笑い、つかさずプランジャーを押し込み中にあるどろりとした禍々しいピンクの液体を注入した。
得体の知れない恐ろしいモノが容赦なく撃ち込まれ血管に乗り全身を駆け巡る。裏社会で生産された凶悪で禍々しいそれは全身に張り巡らされた管を通り細胞一つ一つに容赦なくばら撒かれる――気持ち悪い。いったい何の薬を僕に……ッ!
「あぐっ――何をしたんですかッ――!!」
「く、くく……さあな、知らねーな。毒かもしれないし気持ちよくなれる薬かもな? まあ、そのままラリって死んでくれや」
刺されたところがじんわりと熱を持っているのに、体は冷凍庫に入れられたように鳥肌が立って気持ち悪い。男の経歴から猛毒や幻覚の類か? でも、ろくでもないものを入れられたはずなのに特に症状もないのも不気味だ。遅効性? ――いや、今はこの人を制圧するのが先だ。
「……はぁ……はぁ……ふっ……」
この一撃で決める――ッ……脱力し目を閉じて呼吸を整える。死ぬかもしれないという恐怖心を捨てる。当たり前のように当然のように超能力は発動した。周囲の空気が反転し蜃気楼のように空間が歪み――足が、手が、体が、顔が、陽炎の中に溶け込むように、周囲と同化しスッと僕の姿は虚空へと消え去っていく。
――……『ステルス能力』……これが僕が暗殺者として組織に組み込まれている最大の理由だ。
「なっ!? き、貴様! の、能力者かっ!! くそぉ! どこだぁッ?!」
瞬く間に姿を消したことに驚愕する男。空間転移か幻惑かきっとどんな能力を使ったのか分からず混乱することしかできないだろう。裏の世界とは言え能力を使える人間は一握り、そんな都市伝説級の存在が自分の目の前に現れ、始末しようと襲い掛かって来るは気が気でないだろう。
とにかくすぐに終わらせる……この力を使うときに余計なことを考えると精度が下がったり、うまく発現しない可能性がある。全身をステルス状態にするのは消耗も大きい上に連発もできないからこの一撃で決める。
音を立てずに悟られることもなく最小限の動きで背中に回り込む。男は怒鳴りながら腕を振るうが虚空を切る。首を振って僕のことを探しているが素人に見つけれる訳もなく。ましてや夜間の能力使用中に見つけれるわけもない。回り込むときにちらりと見た男の顔には恐怖が張り付いており、暴力的な行動は威嚇とその恐怖心を誤魔化すためなのかもしれない。
ポケットから今度は躊躇なくナイフを取り出す。黒い柄と磨かれた銀色の刀身は闇夜に溶け姿を消していた。グッと力を込めて刃先を哀れな背中に向ける。このまま首を掻っ切れば終わり――……正確に、ブレずに確実に……!
「――あがっ!?」
ガツンと柄頭が正確無比に男の後頭部を押しつぶした。完璧なみねうちが決まり男は気を失う。ドサッと崩れ落ちる巨漢、頭を打たないように上半身を抱えてそのままそっと地面に回復姿勢の形で横たえた。男のそばでしゃがみ込むと能力を解除する。他人からみたら突然現れたかのように姿を現す。
「はぁ……はぁ……」
やはり全身を消すと消耗が激しいな。荒くなった呼吸を整え、ナイフを仕舞い、伸びている男に素早く手錠をかける。脈や呼吸が安定していることを確認してからそっと自分の着ていた上着をかけてあげた。
「大きな損傷はなさそうですね……もうすぐで回収が来ます。しっかりと生きて罪を償ってください」
――ミッションコンプリート……ポケットからイヤホンとマイク。インカムを取り出して装着する。タイミングを見計らったかのように通信が入る。陽気でどこか少し眠たげな女性の声だ。
『お疲れ様~。あんたまた無効化にしたの? 処分してもよかった対象だったのに優しいねぇ』
「不要な殺生はしない主義です。彼には生きて法の裁きと専門の判断の下、罪の償いをしてもらわないと」
『どうせ極刑よ? 司法に任せたとしてもあんたが処分しても彼の結末は変わらないと思うけど?』
「そういう問題ではありません」
『ふ〜ん、まあいいわ。それよりもそっちに回収車送るからちょっと待っててね〜、あ、警戒態勢は解いてリラックスしてもらってもいいわよ。ここから一帯はもう安全地帯だから』
さっきまで殺し合いが起きていたとは思えない軽快な声とともにカタカタとキーボードが叩く音が聞こえてくる。その直後にブーンとプロペラ音がし、見上げるとすぐ頭上を飛んでいく夜間偵察用のドローン。これが僕たちにとっての日常、むしろ死人が出てないだけかなり平和な部類にも入る。
『そういえばさ、こないだ言ってた女装して潜入する件あったけど引き受けてくれる」
「嫌ですよ。バカバカしい」
『えぇ~透なら絶対にいけるって』
「バカ言わないでください。僕は男ですよっ! 他の女性エージェントに頼んでください」
『だって、能力使いうちに透しかいないし――……って、ねぇ、風邪でもひいた?』
「ん? 風邪ですか? 引いてませんけど?」
『んー、能力使用を限界に引き上げたとか? なんかあんたのバイタルの発熱反応と心拍数やら異常な数値でてるんだけど?』
「へっ? そうなんですかっ?」
そう指摘されおでこに手を当てるとお風呂に手を付けたみたいに手のひらに熱が伝わってきた。確かにちょっと呼吸し辛いし倦怠感もある。本当に風邪を引いたのか、あるいはさっきの……
「そういえばさっき注射器を打た――」
『はぁあっ!? あんたなにそれを早く言わないのっ?!』
先ほどの軽い空気感は彼女の大声によってかき消されてしまい、再び緊張感と重圧が肩にのしかかる。
『あぁーもう! 遅効性の猛毒だったらどうすんのよ! とにかく! メディカルチームを乗せた緊急車も手配するからあんたはそこでジッとしてなさい!』
「わ、分かりました! す、すいません……」
プツッと通信が切れて静寂が戻る。冷たい夜風が火照った体を冷やしていき頭が冴え、今更になって恐怖心が遅れてやって来た。
「僕、どうなるんだろう……?」
空を見上げると黒い雲が半月を隠していた。どこからともなく風に乗って車のエンジン音が響いてくる。刺されたところの患部を手で抑え握りしめてこれからの運命を憂いるのだった。




