第25話 神の鍋が空になる
聖白教会の炊き出し場には、朝から列ができていた。
石畳の上に、老人が座る。
子供が母親の服を握る。
仕事を失った荷運び人が、帽子を手に持って並ぶ。
白い壁。
高い鐘楼。
門の上には、神の慈悲を示す聖印。
その下に、大鍋があった。
マルタは列の端で、それを見ていた。
「薄いね」
短い言葉だった。
ノアが鍋を覗こうとして、背伸びする。
「前より?」
「前より」
マルタはすぐに答えた。
「豆が少ない。麦も少ない。湯だけが多い」
彼女は鍋を見れば分かる。
奴隷屋敷の厨房で、薄いスープを見てきた。
残り物を分けてきた。
水を足して薄くした鍋が、どう見えるか知っている。
リーゼも列を見ていた。
教会の司祭が、前に立つ。
「王国が安定すれば、民も守られます」
声はよく通った。
「借りたものを返すことは、神の教えです。今、王国は一時の困難にあります。信徒の寄付を守り、さらに広げるため、教会は王国支援証書を受け入れます」
受け入れる。
買う、とは言わない。
レイジは少し離れた場所で、教会の購入記録を見ていた。
グラント商会の販売台帳から取った写しだった。
聖白教会王都本院は、王国支援証書を二十口、200万ルク分買っていた。
二十口。
10万ルクの紙が、二十枚分。
ノアが横から覗き込んだ。
「二十枚で、200万ルク?」
「ああ」
「その銀貨、どこから出たの?」
レイジは紙の下を指した。
炊き出し用穀物購入、一部延期。
予定より小さな文字だった。
だが、そこにあった。
「鍋の方からだ」
ノアは炊き出し場を見た。
購入予定ではない。
購入済み。
紙の上では、一行だった。
現場では、鍋が薄くなる。
配膳が始まった。
木椀にスープが注がれる。
湯気は立つ。
だが、豆は少ない。
パンは、半分に切られていた。
子供が受け取って、手の中のパンを見る。
「今日は小さい」
母親が首を振る。
「いただけるだけ、ありがたいと思いなさい」
そう言う声にも力がない。
列の後ろでは、まだ人が並んでいる。
鍋の底が見え始めた。
教会の若い助祭が、慌てて水を足す。
マルタの顔が変わった。
「今、足したね」
「見ました」
リーゼが答える。
「薄くなる」
「もう薄いよ」
マルタは低く言った。
前の方では、司祭が話を続けている。
「今日の食事は慎ましいものです。しかし、祈りは減りません。王国を支える皆様の善意は、必ず未来の救済につながります」
未来。
便利な言葉だった。
目の前の鍋が薄い時ほど、遠くの話は綺麗になる。
列の後ろで、老人が言った。
「今日は、もうないのか」
助祭が困った顔をする。
「明日は、もう少し整えます。今日は祈りを」
「祈りはもらった」
老人は椀を見た。
空だった。
「食べる方は?」
助祭は答えられなかった。
ノアがその空の椀を見ていた。
水を持っていない手が、落ち着かないように動く。
レイジは教会の購入記録を閉じた。
「二十口か」
リーゼが振り返る。
「いくらですか」
「200万ルク」
リーゼの顔が硬くなった。
「そのお金があれば、何日分の鍋が作れますか」
マルタが答えた。
「作り方によるね。でも、今日の鍋を薄くしなくて済んだことだけは確かだよ」
司祭の声が聞こえる。
「教会は、信徒の財産を守る責任があります。王国支援証書は、寄付金を眠らせるものではありません。将来の救済を広げるための備えです」
別の司祭が続ける。
「半年後に八分増えて戻るなら、来年は鍋を増やせます」
理屈はある。
王国が安定すれば、民も助かる。
寄付金が増えれば、救済も増やせる。
王家の印があれば、安全に見える。
だが、列の後ろの子供は、今日食べるものがない。
リーゼはしばらく黙っていた。
怒鳴らなかった。
司祭に詰め寄らなかった。
彼女は列を見た。
鍋を見た。
半分のパンを見た。
水を足されたスープを見た。
それから、レイジを見た。
「場所が要ります」
「ある」
「原資は」
レイジは短く答えた。
「小口契約の返済分。珍花で残した分。銀貨増やしの会の運営手数料。大金ではないが、数日の鍋を薄くしないくらいにはなる」
「鍋が要ります」
「ある」
「豆と麦、パンも」
「買える」
「人手は」
レイジはノアとマルタを見た。
ノアは驚いた顔をした。
マルタは、もう分かっていたように息を吐いた。
「火の番なら、やるよ」
マルタが言った。
「薄い鍋を見るくらいなら、自分で混ぜる方がましだ」
レイジは教会の鍋を見た。
「炊き出しは、善行じゃない」
リーゼが顔を上げる。
「列の人間が飢えれば、店は荒れ、仕事場は止まる。そうなれば、紙を読ませる相手もいなくなる」
「それでも、鍋は残ります」
「明日の鍋を残すために金を出す」
リーゼは頷いた。
「明日から、こちらで炊き出しをします」
声は静かだった。
だが、決定だった。
守られる家の娘ではない。
並んだ人たちに、鍋を出す側の声だった。




