第1話 水をくれた少年
コーラ飲みてえ……。
レイジが最初に思ったのは、それだった。
いや、レイジではない。
久我怜司。
それが、目覚める前の自分の名前だった。
名前だけが、喉の奥に残っている。
レイジ。
この身体の名前だ。
首には鉄の輪が嵌まっていた。
喉が焼けていた。
舌が上あごに張りつき、息を吸うだけで喉の奥が裂ける。頬は冷たい石の床に押しつけられていた。指を動かすと、爪の下に砂のようなものが噛んだ。
薄暗い部屋だった。
窓は高く、小さい。外の光は届かない。
起き上がろうとして、首の輪が重く揺れた。
指で触れた瞬間、首筋に針を刺されたような痛みが走った。
「……っ」
声を出そうとしただけで、輪が締まる。
逆らうな、と言われているようだった。
なんだ、これは。
そう思った瞬間、知らない記憶が頭の奥で揺れた。
雨の街道。空腹。兵士。屋敷。男爵。契約書。震える手。
久我怜司の記憶ではない。
この身体の持ち主だった男の記憶だ。
考えをまとめる前に、木の扉が細く開いた。
「起きた?」
小さな声だった。
入ってきたのは、十歳くらいの少年だった。痩せている。頬はこけ、服は泥と煤で汚れていた。両手で欠けた木椀を抱えている。
少年はレイジのそばまで来ると、まず廊下を見た。
それから、部屋の隅に吊られた鈴を見た。
「音、立てないで。見つかると、ぼくも怒られる」
椀の中には水が入っていた。
レイジの喉が鳴った。
みっともない音だった。
少年は少し迷い、それから椀を差し出した。
「全部はだめ。あとでぼくも飲むから」
レイジは椀に口をつけた。
ぬるい。少し泥の匂いがする。
それでも、命の味がした。
一口。二口。
もっと飲みたかった。奪うように飲み干したかった。
だが少年の手が椀を離さない。細い指が、必死に縁を押さえていた。
レイジは口を離した。
少年はほっとしたように息を吐き、残りの水を自分で少しだけ飲んだ。飲み終えたあとも、椀の底を未練がましく見ている。
腹が減っている。
喉も乾いている。
それでも、少年は服の内側に手を入れた。
「パンもある」
出てきたのは、固い黒パンのかけらだった。
少年はそれを半分に割る。大きい方をこちらへ寄こしたあと、自分の手元を見て、少しだけ眉を寄せた。
「食べなよ。最初の日は、みんな動けないから」
「……お前は」
レイジの声はかすれていた。
「ノア」
少年は名乗って、すぐに扉の方を見た。
「レイジ」
そう返すと、ノアは小さく頷いた。名前を聞いたから、人間として扱った。それだけの仕草だった。
言葉は分かる。
理屈は分からない。
だが、首輪よりはずっと親切な奇跡だった。
レイジはパンを噛んだ。
石のように固い。唾が出ない。飲み込むのに時間がかかった。
「ここは?」
「バルガス男爵さまの屋敷。こっちは、奴隷の部屋」
ノアは当たり前のように言った。
レイジは首輪に触れた。
また、痛みが走る。
ノアがびくっと肩を震わせた。
「触らない方がいいよ。それ、契約の首輪だから。命令に逆らうと、すごく痛い」
「契約……」
「うん」
ノアは自分の首元を少しだけ見せた。
服の襟の下に、同じ鉄の輪があった。
廊下の向こうで、男の声がした。
「薬代のガキはいるか。明日、帳簿確認だ。足りなきゃ次は鉱山候補に回す」
ノアの肩が固まった。
薬代。
鉱山。
レイジは、言葉の意味を理解した。
理解してしまった。
水をくれた少年もまた、この床の側にいた。
しかも、この床の次に待つ場所まで、もう決められかけていた。




