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第8話 討伐遠征にしては多すぎる

 その夜の主計幕では、灯りが一つ増えていた。


 昼のうちに書き溜めた控えを広げると、机代わりの板がすぐ埋まってしまったからだ。

 水袋。替え紐。革当て。車輪の楔。軸木。針。縫い糸。駄獣の背に敷く粗布。

 気になっていた予備物資を、レオンは一つずつ数え直していた。


 外ではサルディスの夜番が歩いている。

 城壁も、井戸も、市場も、まだ近い。


 けれど、主計幕の中へ並べた数字だけは、もう町の外を向いている気がした。


「監補殿」


 テオドルスが控え板を抱えて寄ってきた。

 今日はさすがに、目の下に隈が出ていた。


「予備の水袋が、昨日より十二増えています。革紐は二束ではなく三束でした。書き間違いかと思って、さっき現物も見てきましたが、数は合っています」


「現物確認までしてくれて助かります」


「助かるのはいいんですが、あまり嬉しくない増え方ですね」


「ええ。まったくです」


 レオンは帳面の端を指で押さえた。

 レオンは帳簿自体が少し気に食わない。

 増減はわかるが、いつどうやって増えたかがわからない、いやわかりにくいのだ。

 レオン達が気づけたのも、常に、減りを気にしていたからだ。

 とはいえ、在庫帳面の記録だけにそんなに書字版を積むわけにはいかないし、正直かさばるだけで食べれるわけでもないものを積むことにみんないい顔をしないだろう。

 レオンだって、自分が帳面を預かっている立場(フィロンの補佐ではあっても、数字が合わない実務上の責任は、レオンに降りかかってくる)でなければ、書字版を馬車一つ分持っていくと言えば正気を疑うだろうし、帳面の増減の記録のためだけにパピルスを大量に使うのが許されるとも思えなかった。

 契約用と報告用に締め上げ結果を書く程度では持ってきているが......


---

 水袋が増えるのは、町の井戸に頼れない時間が長くなるからだ。

 替え紐や革当てが多いのは、途中で袋が擦り切れ、繕いながら進むつもりだからだ。

 車輪の楔や軸木まで増えるとなると、これは短い遠征の荷ではない。


 討伐の名目は、みな知っている。


 王弟キュロスが、南の山にいるピシディア人どもを懲らしめに行く。

 サルディスへ兵が集まり始めた時から、その話自体は主計幕にも何度も流れてきた。プロクセノス隊だけでも、重装歩兵千五百に軽装兵五百だ。討伐にしてはずいぶん大きい、と口にする者はいなくても、同じような顔をして黙る者は何人もいた。


 ピシディアへ向かうなら、サルディスから内陸へ入る。

 塔で見た地図では、リュディアの豊かな土地を抜け、フリュギアを越え、その先で山が険しくなる。楽な道ではない。だが、それでも普通の討伐なら、もっと軽い荷で動くはずだった。速く入って、荒らして、帰る。その方が荷車を長く引き回すよりはましだからだ。


 なのに、いま主計幕へ集まっているのは、長く進み、途中で傷み、直しながら使う前提の物ばかりだった。


「監補殿、こちらも」


 書記補の一人が、別の板を差し出した。


「今日、隻眼のシラクサ殿が押さえた分です。油壺四つ、粗塩一樽、針二十、替えの革袋八、獣脂が二瓶――」


 レオンはそこで目を止めた。


「獣脂が二瓶ですか」


「はい。荷車用です」


「多いですね」


 書記補の青年は、少し困った顔をした。


「やはり、そう見えますか」


「見えます」


 車輪に塗る獣脂は贅沢品ではない。

 けれど、短い遠征ならここまで積まない。町をいくつか越え、途中で削れた車輪を手当てしながら進む時の量だ。


 レオンは手を伸ばした。


「前の月の控えをください。ミレトス周辺で動いていた頃の分です」


「前の月、ですか」


「はい。今より小さな行動の時、どこまで予備を持っていたか見ます」


 テオドルスが板の束を探り、奥から控えを引き抜いた。

 こういう時、主計幕に人手が増えたのはありがたかった。以前なら、自分で探しながら自分で比べて、その途中で外から誰かが怒鳴り込んできていた。


 比べると、差ははっきりしていた。


 前の小さな行動では、替え紐も水袋も「いくつか傷むだろう」という程度だった。

 今回は違う。最初から壊れることを織り込んだ量になっている。


「監補殿」


 テオドルスが板を覗き込みながら言った。


「討伐にしては、多くありませんか」


 レオンは、すぐには答えなかった。


 その言葉はさっきから頭の中にあった。

 けれど、自分で口にすると、少しだけ現実味が増す。


「……多いです」


 ようやくそう言うと、主計幕の入口で声がした。


「やっと言ったか、主計殿」


 隻眼のシラクサだった。


 肩には市場の埃、足元には泥がついている。朝から晩まで値段とにらみ合ってきた顔だ。こちらが帳面の上で嫌な気分になっている時に、だいたい同じ嫌な気分を引き連れて現れる男だった。


「あなたは、もっと前から思っていたのでしょう」


「俺は数字じゃなく、金の使い方と市場の値段で考える…商人たちは欲望に正直だ」


 隻眼のシラクサは布袋を板の横へ置いた。


「今日の市は変だった。酒や干し肉が先に動くなら、兵が浮かれてるだけだ。だが、先に減ったのは針、替え紐、獣脂、粗塩、袋革だ。上等な靴より、靴底を縫い足す針の方が先に値を上げた」


「つまり」


「すぐ戻る買い方じゃない」


 それは、レオンが帳面から読んだことと同じだった。


 市場でも同じ形が出ているなら、これはプロクセノス隊だけの考えではない。

 ほかの隊も、王弟側全体も、同じ方向を向いている。


 それが気に入らなかった。


 一隊だけの気まぐれならまだいい。

 全体で動いているなら、もう誰かが先を見ているということになる。


「大麦はどうです」


「大麦はまだ分かりにくい。量が多すぎるから、一日で値が跳ねるほどじゃない」


 隻眼のシラクサは片目を細めた。


「だが、駄獣用の飼葉袋は減りが早い、そして値段も上がりだしてる。あれは嫌な動きだ」


 レオンも同じことを思っていた。


 駄獣用の飼葉袋は、町の近くを回るだけなら後回しでも何とかなる。道ばたの草を食わせて済む時もある。

 だが、それを先に押さえるということは、途中の草だけでは足りない場所を見ているということだ。


 帳面の数字も、市場の値動きも、どちらも町を長く離れる前提で揃っている。


 そこへ、今度はバウコスが幕をくぐった。


 荷駄頭はいつも通り、車輪の埃と獣の匂いを連れてくる。帳面には似合わない男だが、こういう時に一番頼りになるのもこの手合いだった。


「主計殿。後ろ二十台の荷車、明日の朝までに軸木を差し替える」


「二十台もですか」


「二十台だ」


「多すぎます」


「今日はその言葉ばかり聞くな」


 バウコスは鼻を鳴らした。


「だが、本当に多い。しかも、割れたやつだけじゃねえ。まだ保つやつまで、先に替えろと言ってきた」


「誰がです」


「フィロンだ。さっき伝令が来た」


 それで、レオンは少し黙った。


 フィロンは、理由を省いて先に動かす時ほど嫌な男になる。

 こちらに全部は渡さず、必要な分だけ動かす。そのやり方自体は正しい。正しいのだが、知らされない側はたまったものではない。


「バウコス」


「何だ」


「まだ割れていない軸木まで先に替えるのは、どういう時ですか」


「荷車を途中で止めたくない時だ」


「もう少し詳しく」


「町の近くを回るなら、壊れてからでも何とかなる。大工もいるし、材も探せる。だが、しばらく止まりたくねえ時は、痛み始めたやつを先に替える。街道の真ん中で一台止まると、後ろ全部が詰まるからな」


「つまり、長い列を長く動かすつもりだと」


「俺ならそう考えるな」


 荷車は嘘をつかない。


 兵は見栄を張るし、将軍は名目を飾る。

 けれど、車輪の楔と革紐と水袋は、必要な時にしか増えない。


 その正直さが、今夜は少しもありがたくなかった。


「監補殿」


 テオドルスが声を潜めた。


「本当に、ただの討伐ではないのでは」


 レオンは答える前に、幕の外へ目をやった。


 サルディスの夜はまだ町の匂いがある。井戸の水も、市場の灯りも、城壁の影も近い。だが、帳面の数字だけは、その先の乾いた街道を先に歩いているように見えた。


「疑うには十分です」


 レオンは言った。


「ただ、これだけでは言い切れません。荷が多い、修繕材が多い、市場の動きが変だ。それだけでは、まだ推測です」


 それが一番腹立たしかった。


 数字はもうかなりはっきりしている。

 なのに、誰かに向かって「では行き先を知っているのか」と問われたら、答えられない。ピシディア討伐の名目を崩せるほどの材料には、まだ届かないのだ。


 その時、幕の外で足音が止まった。


 ダフネだった。


 彼女は中を見回し、板の山と油臭い布袋と、顔色の良くない男たちを順に見た。


「まだやってたの」


「ええ。数が合わないので」


「合ってるから困ってる顔でしょう」


「……そうとも言います」


 ダフネは、それ以上はからかわなかった。

 代わりに水袋を一本置いた。たぶん、いま主計幕の中で一番必要としているのが誰か、考えるまでもなく分かったのだろう。


「市場の外れで、重装歩兵が替え紐をまとめて買ってた。自分の分だけじゃない。従者にも持たせてる」


「溜め込んでいるだけでしょうか」


「半分はそう。半分は、本当に足りなくなると思ってる顔だった」


 それもまた、同じ答えだった。


 兵の勘は、帳面ほどきれいではない。

 だが、長く生き残ってきた連中ほど、先に足りなくなる物を知っている。


「ありがとう」


「礼より先に、決めることがあるでしょう」


 その通りだった。


 レオンは水袋を受け取り、一口だけ飲んだ。


「隻眼のシラクサ」


「何だ」


「明日の朝一番で、針、縫い糸、替え紐、獣脂、革当て、粗塩を押さえてください。干し肉や酒は後で構いません。町を離れてから困るのは、壊れた物を直す道具の方です」


「金は」


「僕がフィロンから取ります」


 隻眼のシラクサが、少しだけ笑った。


「言い切ったな」


「こういう時に曖昧だと、たいてい遅れます」


 今夜ひとつ成果があるとすれば、それはそこだった。


 まだ何も証明できていない。

 けれど、長く進むつもりの買い方だと読んだ。だから、長く進むなら先に足りなくなる物を押さえる。その判断だけは、今のうちに現場へ流せる。


「バウコス」


「おう」


「後ろ二十台のうち、痛みの早い車輪から軸木を替えてください。ただし、全部をいっぺんに止めないでください。明日また命令が増えた時に、荷車の列まで止まるのは困ります」


「そこは分かってる」


「分かっている人がいるのは助かります」


「紙の将校に言われると腹が立つがな」


 それでも、バウコスは反対しなかった。


 フィロンの天幕を訪ねたのは、その少し後だった。


 灯りはついていた。

 あの男は、必要な時だけ眠るらしい。人間味がないというより、仕事の場では人間味を表に出さないのだろう。


「何だ」


「レオンです。買い付けの優先について、確認を」


「入れ」


 天幕の中で、フィロンは帳面と簡単な地図を前にしていた。


 レオンは必要なことだけを短く告げた。

 予備水袋が多いこと。替え紐と革当てが増えていること。車輪の修繕材が短い討伐には不釣り合いなこと。市場でも耐久物資が先に値を上げていること。


 フィロンは最後まで遮らなかった。


 その沈黙が、妙に気に障った。


「結論を言え」


「……ピシディア人の討伐にしては、多すぎます」


 フィロンは少しだけ間を置いた。


 長くはない。

 けれど、確かに間があった。


「だからどうする」


 否定しないのか、とレオンは思った。

 思ったが、顔には出さない。


「町を離れてから手に入りにくくなる物を先に押さえます。針、縫い糸、替え紐、獣脂、革当て、粗塩。干し肉や酒は後回しで構いません」


「そうしろ」


「……理由は、お聞きしても」


「聞くな」


 やはりそう来た。


 フィロンは板の上に印を置いた。


「貴様は物を数えろ。私は全体が崩れないようにする。役目を混ぜるな」


 いつも通りの言い方だった。

 けれど、今日は一つだけ違う。否定がない。「余計な推測をするな」とも言わない。


 それが何より気味が悪かった。


「承知しました」


 レオンは頭を下げ、印付きの板を受け取った。


 出る直前、フィロンがもう一度だけ言った。


「買い付けを急げ。明日には、また値が上がる」


 その言い方で十分だった。


 つまり、上も同じものを見ている。


 主計幕へ戻ると、隻眼のシラクサはもう動き始めていた。

 書記補が印付きの板を受け取り、伝令役が走る。バウコスは車輪番を起こし、テオドルスは新しい買い付け控えの欄を作っていた。


 ダフネは幕の外で、水袋の口紐を一本ずつ確かめていた。


「それ、今やることですか」


 レオンが聞くと、ダフネは手を止めなかった。


「長く行くなら、こういうところが先にだめになる」


「……そうですね」


「あと、ミュロンが言ってた。明日から荷駄護衛の組み方を変えるって」


「どう変えるんです」


「前後を厚くする。列が長くなるつもりでしょうね」


 それもまた、同じ答えだった。


 予備物資も、修繕材も、市場の動きも、護衛の組み方も、全部が少しずつ同じ方向を向いている。


 そこまで揃えば、気のせいでは済まない。


 ただし、まだ分からないこともある。どこまで行くのか。誰と戦うのか。本当にピシディア人だけなのか。


 帳面は、行き先の長さまでは教えてくれても、地名までは書いてくれない。


 夜が深くなった頃、新しい荷車の音がした。


 一台ではない。二台、三台、もっとだ。木の軋みと獣の鼻息が、土の上を長く引いていく。伝令役が幕をめくって顔を出した。


「監補殿。西門側から追加の荷が来ています。空樽と袋革、それに――」


 彼は息を整えてから言った。


「新しい駄獣が八頭です」


 レオンは思わず外を見た。


 夜のサルディスは暗い。

 けれど、荷の列がまた伸びたことくらいは分かる。町の灯りを背にして、荷車の影だけがじわじわ増えていた。


 ピシディア人を討つだけの遠征にしては、多すぎる。


 そしていちばん嫌なのは、その数がまだ増えていることだった。

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