第7話 役には立つ、腹は立つ
翌朝の主計幕は、昨日までとは違う騒がしさに包まれていた。
怒鳴り声の大きさ自体は、正直そう変わらない。軍営なんてものは、静かな日でもどこかしらうるさい。
違ったのは、怒鳴られる向きだ。
昨日までは、「帳面が遅い」「水が足りない」と苦情が飛んできた。 今日は違う。
「主計殿、この干し肉、表が白いんですが」 「監補殿、この革紐まだ使えますか」 「坊ちゃん、こっちの大麦、駄獣に回していいか見てくれ」
朝から三人、いや四人。……いや、数えるのはやめた。
人というのは、こちらが目を逸らした隙に増える。
主計幕の前では、書記補が二人、板に印をつけていた。回収係の少年が空の皮袋を抱えて走り、テオドルスがその合間を縫って控えを書き足している。ようやく主計幕らしい人数になってきた。三千人規模の傭兵団を、一人と従者一人で回せるはずがない。回っているように見えていたなら、その裏で誰かが走り回っていただけのことだ。
「監補殿」
テオドルスが、魂の半分くらい抜けきった顔で寄ってきた。
「見てほしい物が多すぎます。昨日の水の件で、主計幕へ持っていけばなんとかしてもらえる、と思われたみたいで」
「『なんとかしてもらえる』じゃなくて、『なんとかさせられてる』だけですね」
「そんなに違います?」
「僕の機嫌に関しては、致命的に違います」
テオドルスは、疲れた顔のまま少しだけ笑った。こういう場面で笑えるようになったあたり、この助手もだいぶ現場に染まってきている。
そこへ、別の声が割り込んだ。
「機嫌の話なら割り込んでも大丈夫か?主計殿」
隻眼のシラクサだった。
片目に斜めの傷を走らせた調達役で、市場の匂いを嗅がせたら帳面より頼りになる。ただ、頼りになることと付き合いやすいことは別の話だ。あと、信用はできるが、全幅の信頼はおけない。商人というかあの手の男は、人を便利な道具……そうたぶん秤くらいにしか見ていない時がある。
「市場に来い。安い大麦が出た」
「安い、と聞いた時点で嫌な予感しかしないんですが」
「だから呼びに来た。俺ひとりで決めると、あとで主計幕のせいにされる」
誠実な理由だった。性格が悪いのに筋は通すから始末が悪い。
行かないと、たぶんあとの面倒がこちらへ回ってくる。
「テオドルス、ここは書記補二人に任せてください。戻りの皮袋と、傷んだ革紐は分けておいて。あと、干し肉は白い部分を削れば済むものと、駄目なものとを選り分けておいてください」
「はい。ダフネ殿には――」
「そうならないように来たわ」
いつの間にか、ダフネがいた。
本当に、この女は音もなく人の背後を取る。護衛としては申し分ない。心臓には悪い。
「行くなら、表通りは避けて。重装歩兵の買い出しとぶつかるから」
「ありがとうございます。そういう大事なことは、あと一拍早く言ってもらえると」
「一拍早く言ったら、理由着けてさっと逃げちゃうでしょう?」
「それはそうですね」
ダフネは短く頷いた。言い返す隙がないのが悔しい。
サルディスの外れの市は、軍勢が集まってから目に見えて様子が変わっていた。
革、油、大麦、干し肉、干し魚、替え紐、針、車輪の楔。町の商人に、従軍商人に、どこから嗅ぎつけてきたのか分からない流れ者まで混じっている。兵が増えれば物も金も動くが、良い品ばかりが集まるわけはない。むしろ数が増えるほど、悪い品が紛れ込む隙ができる。
サルディスの家並みはまだ近く、町の井戸も壁もある。けれど、街道はもう白く外へ伸びていた。町の手が届くうちに買い足しておきたい——その焦りを、商人は見逃さない。
隻眼のシラクサが、大麦袋の積まれた一角で足を止めた。
「これだ。見た目は悪くない。値は少し安い。いいもんなら買いたいが……ちょっとばかり気に食わない」
「勘ですか?」
「勘だな、こういうときに飛びつくと痛い目にあうと相場が決まってる」
「分かりやすくて助かります」
袋の口を開く。
表の粒はたしかに悪くなかった。色も揃っているし、虫も見えない。袋の口だけ見せられたら、そのまま買う者もいるだろう。
けれど、手を深く入れた途端、指先の感触が変わった。
下の方が、妙に重い。
レオンは一掴み取って、掌の上で転がした。ほんのわずか、水魔法の感覚を指先に通す。水を呼ぶほどの力ではない。湿り気の違いを感じ取りやすくする、ただそれだけの小さな補助だ。
……吸いつきすぎる。
乾いた大麦なら、指の腹で押せばもっと抵抗があるし、強く押せば軽く砕ける。これは表皮だけ張って、中身が鈍い。しかも下の粒ほど水気を含んでいる。
「駄目です」
レオンは言った。
「底に近いほど湿りが溜まっています。乾いた粒を上に並べて見せているだけです。このまま積んだら、数日で熱を持って傷みます」
売り手の男が、すかさず顔をしかめた。
「朝露を吸っただけだろう」
「朝露なら、外側から湿ります」
レオンはもう一度、袋の底に手を入れた。
「これは下が重い。濡れた場所に置いたか、水を吸わせたか。どちらにしても、駄獣に回す荷としてもよくありません」
「食えないわけじゃねえだろう」
「食えることと、日持ちしないことは別です。
あ、そうだ、今日食べる分だけならいけるかもしれないですね。
半値なら引き取ってもいいですよ、シラクサ」
「だ、そうだ、どうする?」
できるだけ穏やかに返したが、シラクサがかぶせた声に少し角が立った。
でもここで曖昧にすると、必ず押し込まれる。
売り手が一歩前に出た瞬間、ダフネが横から滑り込むように間に入った。
何も言わない。ただ、レオンと売り手のあいだに半歩、立っただけだ。
それで十分だった。
隻眼のシラクサが、面白そうに鼻を鳴らした。
「聞いたろう。主計殿が駄目だと言ってる」
「主計殿、ねえ」
売り手は舌打ちを隠しもしなかった。
「こんな下っ端貴族の若造が」
「あ、わたし貴族じゃないですよ?若造はあってますけど。
それと大麦が傷みかけているか、もしかしたら傷んでしまっていることは変わりません」
レオンは言った。
「こちらは目先の安値で、明日腐るものを買うわけにはいかないんです。兵も駄獣も、腹を壊してからでは取り返しがつきません」
売り手はまだ何か言いたげだったが、ダフネが黙ったまま視線を寄越すと、そこで口をつぐんだ。長々と脅し文句を並べるより、ああいう静かな立ち方のほうがよほど利く。
結局、その場で大麦三山、油壺六つ、塩漬け肉の樽二つまで見る羽目になった。
油のうち二つは底に水が混ぜてあった。塩漬け肉の片方は、表の層だけ塩を強くして匂いを誤魔化していた。全部が駄目というわけではない。まともな品もあった。だから余計に厄介だった。全部悪ければ突き返して終わりだが、半分使えて半分駄目な荷が一番判断に困る。
「監補殿、こっちの革は」 「主計殿、この油、まだ混ぜてない方ですか」 「坊ちゃん、車輪の軸木に使えるか見てくれ」
結果、市場で商人たちに嫌われたり、好かれたりした。
そう、まっとうな商人たちからすると、「ぼったくりだ」と言いがかりをつけられるよりは、「物は良いんだけどねぇ…」とまもとな値段交渉の範囲におさまるやり取りであれば、歓迎なのだ。
特に、日ごろ商売の仕方が違って気に食わない商売敵たちが、一目で退けられているのは、どうにも胸がすっとするものだった…らしい。
話好きの商人から、取引が終わった後に、そういわれた。
でも、もしかしたらおべっかなのかもしれない。
百戦錬磨の商人たちだ、ぼくみたいな若造の手をひねるなんて簡単だろう。
役に立つこと自体は嫌いじゃない。ただ、人としてではなく便利な道具として呼ばれるのは、やはり気に食わない。名前より先に用途が来る。研究塔にいた頃と似ている。あちらでは「実技の足りない半端者」、こちらでは「腐り物を見分ける帳簿役」。肩書きが変わっただけで、扱いの芯は大して変わっていない。
昼近くに主計幕へ戻ると、フィロンが来ていた。
嫌な予感しかしない。
「レオン」
「はい」
「市場で三つの荷を却下したそうだな」
噂の回りが早い。こういう時ばかり早い。
「大麦、油、塩漬け肉です。大麦は底が湿っていて、油は底に水が――」
「詳しい報告はいい」
フィロンは、いつも通り表情のない顔で言った。
「今日から、調達役が持ち込む怪しい荷は、先に主計幕で検めろ。お前の確認がない物は、隊の勘定では買わん」
レオンは一拍だけ黙った。
やはりそう来たか。
「……承知しました」
「書記補を一人つける。だが、権限を勘違いするなよ。最終的に決めるのは私だ。お前は見るだけでいい」
——見るだけ。
権限は増えない。責任だけが増える。何とも分かりやすい話だった。
フィロンが去ると、テオドルスが気の毒そうな顔で寄ってきた。
「監補殿、増えましたね」
「ええ。仕事が」
「信頼も、じゃないですか」
「違いますよ。便利だと思われただけです」
そこへ、ダフネが水袋を一本、置いた。
昨日の新しい水袋ではない。ちゃんと中身が入った、いま飲めるほうだ。
「でも、使えない人には仕事は増えないよ」
それだけ言って、彼女は傷んだ革紐の山のほうへ歩いていった。慰めるような顔はしない。褒めもしない。ただ、こちらが倒れない位置に水を置いて、必要なことだけ口にする。
あれはずるい。下手に長く励まされるより、ぐっと来てしまった。
レオンは水袋を手に取って、一口だけ飲んだ。ぬるかったが、ちゃんと飲める水だった。
その夜、主計幕の灯りはいつもより遅くまで灯っていた。
書記補が増えた分だけ紙の枚数も増えるのだから、世の中というのはうまくできていない。テオドルスが控えを書き写し、回収係が今日の戻り袋の数を報告し、隻眼のシラクサが市場値を板に書き殴る。レオンはその真ん中で、買い入れ予定の物資に目を通していた。
大麦。干し肉。油。替え紐。車輪の楔。予備の革袋。荷車補修用の軸木。駄獣用の飼葉袋。針。布。塩。
そこまではいい。
ただ——予備の水袋の数と、荷車補修材の数、替え紐の束数が、少し引っかかった。
多い。
まだ断言はできない。遠征に出るなら予備はあって当然だ。だが、当然で済ませるには帳面の数字がどこかおかしい。
なんだろう?
ひと月程度の簡単な遠征じゃなさそうな…数の上だけでは、行き先が遠くなっているような感じがする。
「監補殿」
テオドルスが小声で言った。
「この予備革袋、本当に全部要りますか」
レオンはすぐには答えなかった。
帳面をめくる手が、少しだけ止まる。
「……明日、もう一度数え直しましょう」
「はい」
「今は、まだそれでいいです」
そう言ったが、本当はよくなかった。
主計幕の外で、夜番の足音が土を踏んでいる。遠くで駄獣が一声鳴いた。灯りの下で、帳面の数字だけが静かに並んでいる。
嫌な予感というのは、怒鳴り声より先に、こういう帳面の隅で育つものだ。




