第6話 水の味が違う
翌朝、宿営地はまだ明けきらないうちから、水のことでうるさかった。
サルディスの城壁の外では、荷車より先に水袋が動く。朝のうちに満たしておかなければ、炊事も見張りも駄獣の口も止まる。町の井戸を使えるのは、こうして壁のそばにいる今のうちだけだ。いずれ軍が本格的に動けば、浅い流れや溜まり水まで数に入れなければならなくなる。その前に、水袋の数と中身の両方を整えておきたい。
そう思って天幕を出た時点で、もう嫌な予感はしていた。
主計幕の前には、空の皮袋を抱えた兵と従者が列を作り、回収係の少年がその間を走っている。書記補が二人、板に印を付けては戻し、伝令役が井戸側と給水幕のあいだを行き来していた。三千人規模の隊を本当に一人と従者一人で回せるわけがない。回るように見える時は、たいてい見えないところで誰かが走っているだけだ。そこを見落とすと、帳面合って現物足らずになる。
そして今日は、その「誰か」が朝からひどく忙しそうだった。
レオンは、昨日ダフネに渡された新しい水袋を手で押した。革はまだ硬い。口紐も新しい。あの女は、慰めの言葉の代わりに、こういう物を寄越す。こちらが気づいていない綻びまで勝手に直してくる。ありがたいが、少しだけしゃくだった。
「監補殿」
テオドルスが板と控えを抱えて駆けてきた。後ろには、まだ顔に眠気の残る書記補の青年が二人ついている。
「給水の列が二つに分かれています。町の井戸へ回す列と、南の溝へ回す列です。空き袋が多すぎて、戻りの確認が追いついていません」
「誰が南へ回しました」
「バウコス殿が、井戸だけでは遅いからと。見張り分と炊事分だけでも先に確保したいそうです。ミュロン殿は、荷駄護衛の分を先に寄越せと」
「重装歩兵は」
「当然、文句を言っています」
だろうな、とレオンは思った。朝から機嫌の良い重装歩兵というのは、たぶん神話の生き物だ。
「行きましょう」
レオンが重い腰を上げると、テオドルスは妙にきびきびと頷いた。この助手は、揉め事の現場へ行くのを、一種の学術調査だと思っている節がある。勘弁してほしい。こちらにとっては、胃の内側を少しずつ削られる作業だ。
給水幕の前では、すでに怒鳴り声が飛び交っていた。
「ぬるいんだよ、この水は」
「井戸の方へ回せと言っただろう」
「この配給の列はおかしい。なんぜ軽装歩兵の方ばかり先に進むんだ」
「いいからはやく水袋を戻してください。水袋も樽も全然足りてないんですから」
書記補の一人が泣きそうな顔で板を守っている。その前では、革袋が山になり、どれが満ちていてどれが空か、ぱっと見ではもう分からない。こうなると帳面が死ぬ。誰に何をどこまで渡したのかが曖昧になり、あとで必ず揉める。
バウコスが、給水幕の脇で水袋の口を締めながら言った。
「主計殿、ちょうどいい。味が変だとうるせえ」
差し出された皮袋を受け取り、レオンは口を近づけた。
一口だけ含む。ぬるい。それは朝の水なら珍しくない。だが、そのあとに舌の奥へ残る感じが妙だった。泥臭いのとも、革臭いのとも違う。薄く甘いような、何かが張りつくような味がある。
もう一つ、別の袋を開ける。こちらは普通だった。井戸水らしい硬さがあって、余計な後味がない。
「どこです」
「南のほうにある通り脇の側溝だ」
バウコスは短く答えた。
「町の井戸だけじゃ遅い。だから浅い流れからも汲ませた。見た目は澄んでいたんだがな」
見た目は、という言い方が、すでに怪しい。
レオンは最初の水を少しだけ手のひらへ垂らした。指先でそっと触れ、微弱な水魔法を流す。桶一杯を満たすような力はないが、表面を震わせる程度ならできる。
水の薄い膜が細かく揺れた。
すると、朝の光の加減で、表面にわずかな筋が浮いた。油とも脂とも言い切れないが、少なくとも飲みたくなる類のものではない。
「止めてください」
レオンは即座に言った。
「全部ですか」
テオドルスが目を丸くする。
「南の溝から来た分は、いったん全部止めます。混ぜないでください。印を付けて分けてください」
「たかが水だろう」
列の向こうで誰かが吐き捨てた。
レオンはそちらを向いた。
「たかが水で腹を壊します。
腹を壊した軽装歩兵は荷駄列を止めますし、重装歩兵が見張り中に吐けば、そのまま全体が危うくなります」
丁寧な口調のまま言ったが、少し硬くなったのは自分でも分かった。帳面も見ず、味だけで話を終わらせようとされるのは腹が立つ。
そこへ、ダフネがいつの間にか背後に立っていた。
「南の溝、上で駄獣を入れていたわ。荷車曳きの連中が、脂の付いた樽まで放り込んで洗ってる」
音もなく戻ってくるのは、本当に心臓に悪い。
ただ、彼女の報告は、レオンの予測をその場で確定事項に変えた。理屈ではなく、泥の跳ね具合と匂いと足跡で答えを掴んでくる。こういう時、学問の塔で覚えた言葉より、現場の女が一瞥して持ち帰る一言の方がずっと強い。
「それで十分です」
レオンは言った。
「テオドルス、書記補二人に伝えてください。
南の水は別の塊にして印を付ける。
井戸水と絶対に混ぜない。
回収係は空き袋を井戸側へ回す。
伝令役は、給水順を見張り、荷駄護衛、炊事の順に変える。
以上です。
現場へ走ってください」
「はい」
テオドルスはすぐに動いた。
テオドルスから指示を聞いた書記補の二人も、あわてて板の印を書き換え始める。言い終わるより早く、回収係の少年が空袋の束を抱えて走り出した。
ようやく、自分の手足がある形になった。
なんとか自分の範囲だけでも、指示が通るようになった…
オイコノミア...人が動けば、数字も動く。逆に、人が動かなければ、どれだけ正しい判断でもただの独り言だ。
これは、学問的な探求の対象になりえるだろうか?
「待て」
カレスが列の前から出てきた。胸甲の縁まで磨かれた重装歩兵の百人隊長で、朝から機嫌が悪いことを少しも隠していない。
「なぜ止める。こちらはもう列を作っている」
「水が汚れています」
「味が悪いだけだろう」
「だったらいいですけどね、昼過ぎには味の悪い水じゃなくて、体に悪い水になってそうですよ」
「曖昧だな」
「はい。だから今のうちに止めます。今は危険を冒す必要がない」
カレスの顔が険しくなる。曖昧な危険のために、自分たちの列を崩されたと思っているのだろう。実際、その理解は半分くらい正しい。そして半分だけ正しい人間は、だいたい大声が出る...まあ、これはぼくの持論だ。
「こちらは朝の見張り前だ。止めるなら、そちらが責任を取れ」
「責任ある行動をとってるから、今列をとめてるんでしょう?
なんなら、このまま昼を迎えて、お腹を抱えた重装歩兵を100人単位で生み出したいですか?」
口から先に出た。
やってしまったというやつだ。
言った直後に、寒気がした。
だいたいこういう言い合いでは、現場が管理側に理不尽を持ってくる。
「ではその分の追加作業もお前が背負え」とか「おれはもう手伝わん」とか。
だいたい拗ねた幼児みたいなことを言い出す。
案の定だった。
「なら、足りなくなった水袋の戻りも、井戸側の列の整理も、主計幕で全部見ろ。遅れが出たら、そちらの帳面に勝手に書き加えるぞ」
面倒が増えた。
「計算ができるならどうぞ」
思わず言い返す。
「帳面が狂ったら差額は全部重装歩兵に請求しますね」
ついつい、言わなくていいことを言ってしまった。
正しいことを言ったせいで、仕事が増える。現場というのは本当に性格が悪い。
ダフネが僕の横に張り付いた。
そして、ミュロンが横から割って入った。
「百人隊長殿、その顔で言われると、お前さんが勝ったみたいで腹が立つな」
「軽装の都合で止めたんだろう、お前らがつるんでるのはわかってんだ」
「違う。重たい鎧を着てる連中に腹を壊されると、誰も運べねぇからだ」
それから、ミュロンはレオンを見た。
「坊ちゃん、給水順を変えるなら、ダフネは南へ行かせるな。戻りの袋を見させろ。あいつは袋の傷みを見る方が早い」
「わかった、坊ちゃんについてる」
ダフネが即座に返した。
「おう頼むが、ついてる必要はない」
「ええと…どういう話です?」とぼく。
「ダフネは主計幕の横にいろ。そこが一番情報が集まる」
やけに細かい。
レオンは、また小さく引っかかった。ミュロンはいつも現場配置にうるさいが、ダフネの位置にだけは一段神経が細かい。なんだか危ない場所からは妙に外したがってる気がする。若い女の子に気を使ってるのか知らないが、今一番、殺される可能性があるのはぼくじゃないのか?
喉元まで出かかった、「何だその過保護は、」を飲み込んだ。いま大事なのはそこではない。
「ダフネは戻りの袋を見てください。ミュロン殿は列を整理してください。僕はひとっぱしり南を見に行きます」
「おい、ぼっちゃんが居ねぇのはまずいだろう」
「確認しないと、また誰かが勝手に汲ませます。その方がよほどまずい」
そう言うと、ミュロンは不満そうに舌を鳴らしたが、反対まではしなかった。
だから最初からダフネを南にやればよかったんだよ…まあ、あまり人気がないから、あぶないっちゃ危ないけど、ぼくより何倍もダフネのほうが強いし、無事に帰ってこれると思うけどな。
南の溝へ向かったのは、レオン、テオドルス、伝令役の若者一人だった。
城壁から少し離れた浅い流れで、石積みの井戸のような頼もしさはない。水面だけ見れば澄んでいる。だが近づくと、岸辺は泥が細かく踏み荒らされ、獣の蹄跡がいくつも重なっていた。少し上には、樽を洗ったらしいむくろじの泡と脂の膜が、草の根に引っかかっている。
「これを飲ませる気だったんですね……」
テオドルスが青い顔で言った。
「流れはあるし、浅いの川なので見た目だけなら綺麗ですよね…井戸まで行くのがめんどくさかっただけでしょうけど」
レオンはしゃがみ込んだ。
塔で、水路と停滞水の違いを扱った講義を聞いたことがある。流れているように見えても、下が動かない水はすぐ傷む。まして、獣と脂が入ればなおさらだ。
そして多分、こういう浅いところは、鳥獣が水浴びをしたり、排せつ物が混入してたりする。
多分、沸かしても飲めるかどうか怪しいものだと思う。
けれど、そういう説明をここで長々しても仕方がない。
「これで十分です。戻りましょう」
帰る途中、レオンはすでに頭の中で増えた作業を数えていた。
南水の隔離。井戸側への再配分。戻り袋の確認。駄獣用の水の取り置き。書記補の控えの書き直し。列のもめ事の記録。あと、たぶん苦情も増える。
つまり、水の汚れ一つで、朝の仕事が丸ごと倍になる。
正論とは、ずいぶん高くつくものだ。
ただ、腹痛を起こした兵がたくさん発生するよりは、小さいうちに面倒ごとが刈り取れたに違いない(と思うことにする)。
給水幕の前まで戻ると、騒ぎはさらに大きくなっていた。
井戸へ回した列が長すぎる。町の水汲み女たちは露骨に嫌な顔をしている。重装歩兵は順番に文句を言い、軽装歩兵は空袋の戻りで揉め、荷駄番は駄獣に飲ませる分を別にしろと叫ぶ。書記補の一人は声が裏返り、回収係の少年はもう半泣きだった。
そして、その真ん中にフィロンがいた。
「南の水は使うな」
低く、よく通る声だった。
「井戸待ちを三つに分けろ。見張り、荷駄護衛、炊事の順に回せ。水袋の戻りは主計幕で一括確認する。混ぜた者は記録に残す」
レオンは足を止めた。
フィロンと僕のこの違いはんだろう?
言っていることは、さっき自分が出した指示とほとんど同じだ。違うのは、声の重さと、誰が言ったかだけだった。
貫目が足りないとかっていう奴かな…昔のスクロール(ようひし)や紙束でよく書いてあったな。その時は、なんだよ貫目って…としか思わなかったけど。
兵たちは「フィロン殿が止めた」と言いながら動き始める。書記補も伝令役も、いまの声でようやく迷いなく走り出した。たしかに、こういう規模になると、正しい判断だけでは足りない。押し通す肩書きと声が要る。
理屈では分かる。
そらそうだよね、塔をクビになった若い学者のなりそこないと、実務で財布を預かるベテラン。
違うだろうし、他人からどう見られているかも分かる。が、腹は立つ。
帳面を抱える手に、少し力が入った。
テオドルスが小さく言った。
「あの、監補殿、フィロン殿に聞かれたので――」
「問題ないです」
レオンは遮るように短く返した。
「秩序が崩れないなら、効率よく回せるなら、それが一番です。誰の命令で止まっても結果は同じです」
半分は本当だ。
けれど残り半分は、あの場で僕を疑った連中に向かって、いまのフィロンの声をそのまま叩きつけてやりたい、という、ずいぶん子供っぽい感情だった。学問の塔にいた頃の自分なら、こういう下品な復讐心はもう少し上手に隠した気がする。現場は人を育てるのではなく、少しずつ性格を悪くするのかもしれない。
いや、本当はもともと性格が悪かったのかな。
しかも、そこで終わりではなかった。
フィロンがこちらへ目を向ける。
「レオン」
「はい」
「南水の隔離と、戻り袋の照合を今日中に終えろ。井戸側の水袋数も帳面で揃え直せ。次からは給水順を主計幕で先に切る」
「……承知しました」
つまり、手柄は上へ吸われ、仕事だけがこちらへ増える。
見事なくらい筋の通った失敗だった。
ダフネが戻ってきて、無言で洗った木杯を差し出した。さっき味見に使った杯が、まだ泥臭いままだと見ていたのだろう。
「これを使ってください」
「ありがとうございます」
「南の袋、二十七。うち三つは縫い目が傷んでる」
「そんなに」
「南へ回した連中、袋を地面に放ってる。戻りが雑です」
やはり面倒は増えている。
レオンが眉を寄せると、ダフネはわずかに肩をすくめた。
「正しいことを言うと、仕事は増えます」
「慰めになっていません」
「慰めていません」
その通りだった。
横をミュロンが通り過ぎる。列の整理を終えたばかりらしく、肩にはまだ埃が乗っていた。
「坊ちゃん」
「何ですか」
「役には立った」
そこで一度切ってから、ミュロンは給水幕の方を顎で示した。
「そのせいで、明日から水袋の戻りも、お前のところへもっと飛んでくる。よかったな」
嫌味なのか評価なのか分からない。
たぶん、両方だ。
「まったく、よくありません」
「だろうな」
それだけ言って、口をゆがめたあと、ミュロンは去りかけたが、二歩目でふと止まった。
ダフネが、傷んだ水袋をまとめて持ち上げようとしたのを見たからだろう。
「おい、それは一人で持つな」
「持てます」
「持てる持てねえの話じゃねえ。縫い目が抜けたら、中身が全部無駄になる。半分ずつ運べ」
言い方は現場そのものだった。誰が聞いても、それらしい理屈に聞こえる。
けれど、ダフネは一瞬だけ、返事をする間が半拍遅れた。
「……分かりました」
そのわずかな間だけが、妙に耳に残った。
二人とも、そこから先は何も言わない。いつも通りの顔に戻って、いつも通りの距離で散っていく。なのに、何かだけが引っかかる。説明はできないが、ただの上官と部下にしては、妙に線の引き方が細かい。
レオンは木杯の中の水を見た。こちらには、もう嫌な膜は浮いていない。
少なくとも、今日この場で腹を壊す兵はかなり減らせた。それは確かだった。自分の知識が、人を守る形で働いた。その手応えもある。
ただ、その手応えと一緒に、別の感触も残っていた。
正しいと分かったから止めた。止めたせいで列は荒れ、仕事は増え、最後に場を収めた顔として残るのは上官の声だ。現場を一つ守っても、自分の立場は少しも軽くならない。むしろ厄介な帳簿役として覚えられただけかもしれない。
それでも、もう知らなかった頃には戻れない。
知らなければ見逃せた水の膜を、今日は見てしまった。
「監補殿」
書記補の一人が、おそるおそる板を差し出した。
「井戸側の戻り、最初の照合が終わりました。ですが、炊事分の水袋がまだ六つ足りません」
ほら来た。
レオンは木杯を置いた。
「では、炊事幕と見張り列を回ります。テオドルス、控えを。ダフネ、傷んだ袋の仕分けを続けてください。伝令役には、南の水を捨てる場所を城壁の外れに取らせます。井戸の近くには絶対に流さないでください」
誰かがまた走り出す。革袋がぶつかる音がする。遠くで桶が鳴る。
朝の騒ぎは、まだ終わらない。
そしてたぶん、これが終わった頃には、干し肉か塩か、別の何かでもまた呼ばれる。役に立つと知られるのは、だいたいそういうことだ。胸を張るには、ずいぶん割に合わない。
レオンは帳面を抱え直して、給水幕の雑踏へ戻った。




