第5話 食う量も数えられない連中
サルディスの外れに広がる宿営地は、朝から埃っぽかった。
夜のうちに着いた隊が増えたせいで、地面はもう踏み固められている。荷車の轍は浅く乾き、駄獣の糞と、こぼれた麦と、煮え損ねた粥の匂いが混ざっていた。まだ本格的な行軍も始まっていないのに、もう野営地は一つの町みたいになっている。しかも、ひどく機嫌の悪い町だった。
レオンは天幕の中で、膝の上に板を置き、帳面をめくっていた。
兵数を書いた控えが三枚。麦袋の受け渡しを書いた控えが二枚。駄獣用の飼葉の見積もりが一枚。どれも同じ朝のものなのに、数字が揃わない。
揃わない、どころではない。合っている顔をしながら、別々のものを数えている。
「監補殿」
横で控えを書き写していたテオドルスが、おそるおそる声をかけた。
「この百人隊は百二十人分を受け取ったことになっています。でも、名簿だと九十七人しかいません」
「なるほど…」
レオンは答えながら、別の木札を裏返した。
「こちらの半隊は五十人で出していますが、荷駄護衛が別に二十人ぶら下がっています。名簿には入っていません」
「では、どちらが正しいのでしょうか」
「どちらも、半分だけ正しいのでしょうね」
そう言った瞬間、天幕の外で怒鳴り声が上がった。
「だから先にこっちへ回せと言っているだろう。重装歩兵の隊列を空腹で潰すつもりか」
「うるせぇ、てめぇらに回した袋は昨日のうちに見たぞ。食い過ぎなんだよ」
「そりゃ、お前ら軽装の連中が食いすぎるからだ」
言い争いの一人はミュロンだ。
レオンは目を閉じたくなった。配給幕の前で顔役同士がもめる。昨日来たばかりの帳簿役にとって、これ以上分かりやすい最悪はない。
なんせ、どっちを立てても遺恨が残る。あげく、仲裁に失敗すれぼ両方から恨まれるって言う仕組みになっている。
けれど、放っておくと、もっと悪くなるのも少ない人生経験でも、なんとなくわかった。
「テオドルス、控えを持ってください。バウコスはどこです」
「さっきまで荷車の車輪を見ていました」
「呼んでください。いえ、僕が行きます」
外へ出ると、朝の光がそのまま喧嘩を照らしていた。
いやな照明だな。
配給幕の前には、革袋と麦袋と人の肩が積み上がっている。重装歩兵の百人隊長カレスが、腕を組んだまま前に立っていた。胸甲の縁まできちんと磨いてある。こういう手合いは、たいてい自分が正面を支えると思っているし、その認識自体は幾ばくか、あるいは半分くらい正しい。厄介なのは、そういう人間は大きな声で話すことだった。
その向かいに、ミュロンがいた。軽装歩兵の半隊長で、荷駄護衛頭でもある。昨日の時点でレオンを露骨に小馬鹿にしていた男だが、今はその嫌味を他人に向けているらしい。
「主計殿」
先に気づいたのはミュロンだった。
「ちょうどいいところへ来た。こいつが、先に麦を寄越せと言っている。駄獣段取りを止めてでも、自分たちの腹を満たしたいそうだ」
「駄獣の段取り、だと」
カレスが眉を吊り上げた。
「戦うのはどっちだ。荷車か。驢馬か。まずは重装歩兵だろう」
レオンは、その言い方に少しだけ腹が立った。帳面を雑に扱われるのと同じ種類の苛立ちだった。他人を尊重しない奴は、嫌いだ。特に押し出しが立派で、キラキラした人間がそうだと、イライラする。
それに物が前へ行く順番を、見栄で決められると困る。
だが、ここで腹を立てても何も進まない。けど、腹を立てた方が、いいのかな…こういうのとやり合うなら…それなりの準備がいる。
「百人隊長殿」
丁寧に呼ぶと、カレスは露骨に不満そうな顔をした。若造に敬語を使われるのが気に入らないのかもしれない。面倒な人間は、こちらが礼を尽くしても機嫌を直さない。
なるほど、これは、いいことにきづいた。若輩者らしく丁寧に礼を尽くしてやろう。
「確認したいのですが、あなたの隊は今朝、何人分で申請しましたか」
「百二十だ」
「名簿は九十七です」
「従者がいる。槍持ちだけでは動かん。常識だ」
「では、こちらは戦える人数ではなく、食べる人数で出したわけですね」
「当然だろう」
レオンは頷いた。それからミュロンに向いた。
「あなたの方は」
「五十で出した。だが荷駄護衛が二十、荷車曳きが八、獣番が六だ。そいつらは軽装歩兵の名簿にも、荷駄の名簿にも半端にしか載っていない」
「半端に、というのは」
「誰もまとめて数えていないという意味だ、坊ちゃん。
遠征中増えたり減ったりするしな」
そこで、横からバウコスが割り込んできた。古参の荷駄頭で、文字は読めないが、車輪の軋みと獣の疲れ具合で、荷物の状態まで見当をつける男だ。
「帳面の数は立派だがな、主計殿。袋は減っている。そっちが本当だ」
「それは分かっています」
「ほんとか?わかってるなら揉める前になんとかしてくれよ」
その通りだったので、レオンは言い返せなかった。
代わりに、もう一度、帳面と顔ぶれを見比べた。
重装歩兵は、戦える人数に従者と荷物持ちを足して申請している。軽装歩兵側は、戦える人数しか出していないのに、実際には荷駄護衛と獣番が別に食べる。しかも駄獣用の大麦は、兵の分とは別勘定のはずが、現場では同じ袋から崩している。
つまり、誰も盗んでいない。
誰も正しく申請してないし、そもそもちゃんと数えていないだけだ。
レオンは息を吐いた。あまり嬉しくない答えだった。盗みなら罰すればいいが、数え方が違うだけなら、全員が自分を正しいと思っている。
それが一番面倒だ。
「テオドルス」
「は、はい」
「板をもう一枚。墨も」
レオンは配給幕の柱を借りて、新しく線を引いた。
一番上に「槍を持つ者」。その下に「槍を持たないが食べる者」。さらにその下に「駄獣」。
カレスが怪訝そうに眉を寄せる。
「何を始めた」
「数え直します。いままでの帳面は、人を一種類として扱いすぎです」
「腹は一つだろう」
「ええ。ですが、持たせるものが違います。前へ出る人に優先して塩と乾パンを回すのか、荷車を曳く獣に大麦を先に食わせるのか、それだけでも明日の車列の組み方が変わります」
ミュロンが腕を組み直した。少しだけ、面白がっている顔だった。
「続けてみろ、坊ちゃん」
レオンはうなずいた。
「重装歩兵の百人隊は、戦える人数九十七、食べる人数百二十。軽装歩兵の半隊は、戦える人数五十、食べる人数八十四。こちらで合っていますか」
「だいたいはな」
「だいたいでは困ります」
思わずそう言ってしまってから、レオンは小さく咳払いした。
「困る、というのは、配給が狂うからです。誰にどこまで渡したか分からなくなります」
テオドルスが慌てて板に書きつける。周囲の兵たちも、さすがに少し静かになった。
数字が見えると、人はほんの少しだけ黙る。
それがレオンには分かった。
「では、こうします」
彼は板を指で叩いた。
「塩と乾パンは、今日の見張りと警備順に合わせて、人に出します。大麦は駄獣に先です。荷車が止まると、水も鍋も予備の槍も前へ行きません。重装歩兵の夕刻分は残しますが、朝の分を全部は切りません」
「それではこちらが減る」
カレスが言う。
「はい。ですが、そちらの従者に持たせる分は残ります。逆に荷駄列が止まれば、明日はもっと減ります」
「脅しているのか」
「計算です」
レオンは答えた。
「あなた方が前で戦うことは分かっています。ですが、前へ出る人だけで軍は動きません。これは、あなた方を軽く見ているのではなく、全員を同じ袋で数えるのをやめる、という話です」
沈黙が落ちた。
言いすぎたかもしれない、とレオンは思った。若い帳簿役が、重装歩兵の百人隊長に向かって教えるような口を利いたのだ。殴られても文句は言えない。
だが、その前にバウコスが鼻を鳴らした。
「その分け方なら、荷車は今日中に組める。駄獣も倒れにくい」
「俺も異論はねえ」
ミュロンが続けた。
「軽装歩兵の連中には、見張り順で回すと言えば収まる。どうせあいつら、自分の腹より持ち場を気にするやつが多い」
それから、少し遅れてカレスが舌打ちした。
「……夕刻分が本当に残るなら、まずはそれでいい」
勝った、とまでは言えない。
だが、場は動いた。
テオドルスが走り、袋の印を付け替え、兵たちが列を作り直す。バウコスは駄獣ごとに大麦の量を口頭で割り振り、ミュロンは荷駄護衛の持ち場を前へ押し出した。カレスも不満そうな顔のまま、自分の部下を下がらせた。
怒鳴り声が、ただの仕事の音に変わっていく。
レオンはそこで初めて、自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。
少しだけ、手応えがあった。
紙の上の数字が、現場で噛み合った…ほんの少しだけ、数字で物事が動いた気がした。
その直後だった。
「主計殿、それも載せますか」
テオドルスが指した先には、余りの麦袋が四つあった。レオンは反射的にうなずいた。
「ええ。じゃ、あの驢馬に予備として――」
「載せるな」
バウコスが即座に切った。
「一頭にそれを足したら、昼までに潰れちまう」
「ですが…荷の空きは他にないでしょう?」
「必要だ。だが、その必要を獣の背に一度に乗せるなと言っている」
レオンは言葉に詰まった。
数字の上では、まだ余裕がある。
だが、たぶん、彼の言ってるのは積載限度とか可能量とかの違いだろう。
だレオンにはまだ、荷車の車輪と獣の背を眺めても、肌感としてその余裕を見極める術を知らない。
そこまで見えていなかった自分が、ひどく腹立たしかった。
ミュロンが肩をすくめる。
「だから現場は嫌なんだろうな、坊ちゃん。紙の上で足りるものが、実地に当ててみるとまるであてにならん」
嫌味だった。
けれど、今日は昨日より少しだけ、嫌味の質が違った。
レオンは麦袋から手を離した。
「……分かりました。予備は二つに割ります。半分はここ、半分は昼の持ち替えで回しましょう」
「それならいい」
バウコスはもうそれ以上責めなかった。
責められないのも、それはそれで悔しい。
結局、自分は半分しか見えていない。数は読めても、重さをまだ身体で知らない。帳面の上で勝っても、荷車の上で負ける。
学者崩れには、じつに似合いの失敗だった。そして、なるべく早く体験しておくべき失敗だった。
それは、理解できても、やはり少し腹立たしかった。
昼が近くなるころには、配給幕の前の列は目に見えて短くなっていた。
兵たちはまだ文句を言っていたが、さっきまでのように肩で押し合ってはいない。少なくとも、誰が何をどこまで受け取るかは見えるようになった。見えるだけで、人は少し大人しくなる。そういう種類の生き物らしい。
レオンが板を抱えて天幕へ戻ろうとした時、脇から革の感触が押しつけられた。
見ると、ダフネが新しい水袋を差し出していた。
「それ、口が傷んでる」
レオンは自分の腰の水袋を見た。革紐の根元がひび割れ、じわじわ漏れている。今朝から足元が妙に冷たいと思ったら、これだったらしい。
「気づきませんでした…」
「ふつうなら分かるでしょ。あんたは帳面を見すぎ」
そう言って、ダフネは古い方の水袋を勝手に外した。
長い慰めはない。褒め言葉もない。ただ、使えるものを渡して、使えないものを取り上げる。それだけだった。
けれど、その方が助かる時もある。
レオンは新しい水袋を受け取った。
前より少し重い。中にちゃんと水が入っている。
「ありがとうございます」
「礼はいいよ」
ダフネは配給幕の方を顎で示した。
「あっち、明日にはもっと揉める。水まで足りなくなったら、今度は殴り合いでは済まない」
それは脅しではなく、ただの予告に聞こえた。
レオンは水袋の口を強く結び直した。
見上げると、サルディスの空は乾いて青かった。遠くで駄獣が鳴き、誰かが空になった桶を蹴った。明日の面倒が、もう音になっている。
水袋の数を数え直さないといけない。
今度は、最初から。




