第4話 坊ちゃん、荷車の横へどうぞ
宿営地は、思っていたよりずっと近くで臭った。
遠くから見た時は、布幕が並んで、荷車が連なって、兵が行き来しているだけだった。
近づくと違う。獣の汗と糞、湿った革、煮崩れた豆の匂い、ぬるい水、火の消え残り。そこに人の声が重なる。怒鳴り声、笑い声、罵り合い、荷車のきしみ。全部がいっぺんに来て、レオンは荷車のへりに手をついた。
これは、学問の塔からいちばん遠い匂いかもしれない。
そんなことを考えている自分が、もう少し腹立たしい。
「レオン様、大丈夫ですか」
荷の後ろからテオドルスが顔を出した。道中ずっとそわそわしていたが、いまはそわそわを通り越して青い。
「僕は大丈夫です。君の方が危ない顔ですよ」
「匂いが」
「ええ。わかります」
「慣れますかね」
「慣れたくないですね」
そう言ったところで、前の荷車が止まった。列の先で誰かが怒鳴っている。受け渡しだか揉め事だか知らないが、いかにも軍らしい止まり方だった。
すぐ横を、皮鎧の男が桶を抱えて通り過ぎる。レオンと目が合うなり、荷と人を見比べて言った。
「新入りか」
「たぶん、そう見えるでしょうね」
「見える。坊ちゃん、真ん中に立つな。荷車の横へどうぞ」
言い方は雑なのに、妙に丁寧だった。丁寧に追い払われた気分になる。
レオンが一歩ずれると、その男はそのまま桶を運んでいった。怒鳴りもせず、親切でもない。ただ邪魔だったものをどけただけだ。
歓迎の形としてはだいぶ寒い。まあ、歓迎されに来たわけでもないのだが。
しばらくして、ようやく幕列の一角に通された。周りの布幕より少しだけ地味で、だから逆に目立たない。帳面と秤と木札が並んでいる。兵站監の幕だと、言われなくてもわかった。
中にはフィロンがいた。
立っているだけで忙しそうに見える人間はいるが、この男は少し違った。忙しいのに、無駄がない顔をしている。机の上の木札も羊皮紙も乱れていない。
その整い方が、かえって怖い。
レオンは推薦状を差し出した。
「タナグラ地方塔からの」
「わかっている」
フィロンは封を切り、中身に目を走らせた。読み終わるのが早い。父もそうだったが、こういう人たちは人の進路を読む時だけ妙に手際がいい。
「レオン・カルディアス」
「はい」
「計算はできる」
「一応は」
「水魔法は弱い」
「……そこまで書いてありましたか」
「書いてある」
やめてくれ。そこまで正直でなくていい。
フィロンは羊皮紙を机に置いた。
「置く」
「ありがとうございます」
「礼は働いてからでいい。役は主計補。まず荷駄在庫の控えを揃えろ」
「今からですか」
「今からだ」
早い。
いや、早くない。軍はたぶん、そういう場所なのだろう。
「ひとつ確認したいのですが」
「言え」
「僕は、将軍プロクセノスの隊付きという理解で」
「そうだ。だが帳面は隊ごとに嘘をつかない。今はそちらを覚えろ」
「……肝に銘じます」
たぶん、いま少し嫌味が混じった。フィロンは気づいたのか気づいていないのか、表情を動かさなかった。
「ダフネ」
「はい」
幕の端から女の声がした。短い返事だった。
振り向くと、若い女兵がひとり立っていた。槍は持っていないが、立ち方で十分だった。肩の力が抜けているのに、隙がない。
「この坊ちゃんを荷駄列へ連れていけ。迷わせるな。死なせるな。逃がすな」
「最後のが本音ですね」
「理解が早いのは結構だ」
それだけで話が終わる。まったく嬉しくない評価だった。
女兵がレオンの前へ来た。
「ダフネ」
「レオンです」
「知ってる。ついてきて」
それだけ言って、もう歩き出す。
早いな、と思った次の瞬間、ダフネが後ろ手にレオンの肩を押した。
「下」
慌てて見ると、さっきまで自分が立っていた場所の横を、荷車の車輪がゆっくり通り過ぎていくところだった。もう少しぼんやりしていたら、足先を持っていかれていたかもしれない。
「……どうも」
「礼はいい。踏まれると面倒」
優しくない。
優しくないが、正しい。そこが少し困る。
ダフネは歩きながら言った。
「真ん中は歩かない」
「さっきも言われました」
「言われるうちはまし。次は轢かれる」
「宿営地って、もう少し秩序があるものだと思っていました」
「あるよ」
「これで?」
「これで」
言い切られると、反論しづらい。
荷駄列は思ったより長かった。麦袋、塩肉樽、水袋、酢壺、予備の革紐、獣用の飼葉。荷が荷を呼ぶように並び、その間を人と獣がすり抜ける。
ひとつひとつはわかるのに、まとめて見ると急に別の生き物みたいだ。大きくて、鈍くて、踏むものは容赦なく踏む。
列の途中に、白髪まじりの男がしゃがんでいた。荷車の車輪を拳で叩き、耳を寄せている。
ダフネが足を止める。
「ミュロン」
「ああ?」
男は顔を上げ、レオンを見た。見ただけで、歓迎されていないのがわかる顔だった。
「新しい帳簿役」
「へえ」
へえ、の中にだいたい全部入っていた。
若造。コネ。足手まとい。紙だけ読める顔。たぶんそのへんだ。
「坊ちゃんか」
「そう呼ばれる筋合いは」
「あるだろ。見りゃわかる」
返しが早い。嫌だな、この人。
ミュロンは立ち上がり、レオンの肩から足元まで見て鼻を鳴らした。
「手は柔らかそうだな」
「見た目で判断しない方がいいですよ」
「現場は見た目で八割当てる」
「残り二割で外した時は」
「その時は直す」
言い終わる前に別の怒鳴り声が飛んだ。
「おい、車が一台足りねえぞ!」
少し離れたところで、荷駄頭らしい大柄な男が腕を振っている。背中が広い。声も広い。たぶんバウコスだろうとレオンは思った。思った通り、ダフネが小さく言った。
「バウコス」
「荷駄頭ですか」
「そう。紙が嫌い」
それは見る前からわかる。
ミュロンが面倒そうにそちらへ歩いたので、レオンたちもついていく。
荷車の前では、木札を持った従者が半泣きになっていた。車台の横板に刻印があり、車輪には赤い泥がこびりついている。
「三台来るはずが二台しかねえ」
バウコスが言う。
「帳面じゃ三台だ」
「実物は二台ですね」
とレオン。
「見りゃわかるわ!」
ごもっともだ。
木札を受け取る。荷印、受領欄、商人の印。そこに、別の記号が小さく重ねてあった。塔で見た商人帳の癖に少し似ている。
数ではなく、行き先を示す印だ。
「これ、三台ではありません」
「はあ?」
バウコスが唸る。
「二台です。三つ並んで見えますが、真ん中は台数じゃなく積み替え印です。水場を経由してから渡す荷、という意味ですね」
「何でわかる」
「下の印が違うでしょう。こっちは車輪の数え印、こっちは受け渡しの場所印です。たぶん、書き写した人が一列ずらしました」
従者が顔を上げた。
「ぼ、僕です」
「でしょうね」
「やっぱり間違えてましたか」
「やっぱりと言うなら、最初から言ってください」
言いながら、レオンはもう一枚の札を見た。赤い泥がついた車輪。
さっきの積み替え印と合う。
「あの二台、水場の方へ回っています。赤土のぬかるみを踏んでるので。荷は酢壺と水袋です。たぶん止めたのはそっちの確認じゃないですか」
「……おい」
ミュロンが従者に顎をしゃくった。
「水場見てこい」
「は、はいっ」
従者が走る。バウコスはまだ疑わしそうな顔をしていたが、少しだけ目の色が変わった。
「坊ちゃん」
「何です」
「紙は読めるらしいな」
「そこだけは、今のところ」
「そこだけか」
「今のところは」
バウコスが鼻を鳴らした。笑ったのか、呆れたのかはよくわからない。
ほどなくして、さっきの従者が戻ってきた。
「ありました! 二台とも水場の脇に寄せられてました!」
「ほら見ろ」
とミュロン。
「ほら見ろ、じゃねえ。最初から荷札と現物を揃えとけ」
バウコスが怒鳴る。
「帳面がずれると、こっちが荷車を増やしたみたいな顔になるだろうが」
その怒鳴り声の先で、レオンは少しだけ息をついた。
大手柄ではない。むしろ、塔にいた頃なら誰でも拾えた程度の書き違いだ。
でも、ここではひとまず意味があったらしい。
「主計殿」
ダフネが初めて呼び方を変えた。からかいではなく、確認するような声だった。
「読めるんだ」
「文字なら」
「荷も?」
「いまは札だけです」
「十分」
短い。
短いのに、少しだけ胸に残った。褒めたわけではない。ただ、使えるかどうかを一つ片づけただけだ。
この宿営地では、それがたぶん評価なのだろう。
ミュロンが木札をレオンの胸へ押しつけた。
「なら次だ」
「次、ですか」
「在庫確認。今夜のうちに揃えろって話だろ」
「聞いていましたか」
「そりゃな。フィロンの声は、聞きたくなくても聞こえる」
ミュロンは荷車列の奥を顎で示した。
「麦、塩肉、水袋、飼葉。帳面と現物、両方見ろ。紙だけじゃ駄目だし、現物だけでも足りねえ」
「ずいぶん丁寧ですね」
「最初だけだ、ありがたく思え」
そこへバウコスが割って入った。
「そいつ一人じゃ無理だ」
「わかってる」
ミュロンが言う。
「ダフネ、つけとけ」
「最初からそのつもり」
言い方が妙に早い。
レオンが眉をひそめると、ダフネは肩をすくめた。
「監補殿が荷車に潰されると、こっちが面倒」
「ずいぶん面倒くさがられていますね、僕」
「まだ死なれる方が面倒」
それもまた、正しいのが困る。
夕方の光が荷車の縁にかかり、積まれた袋の影が長く伸びていた。幕の向こうではまだ誰かが揉めている。獣は鼻を鳴らし、水桶が鳴り、どこかで鍋の蓋が落ちた。
レオンは胸の前の木札を見た。麦、水袋、飼葉。数だけなら読める。
だが、ここではそれだけでは足りない。匂いも、泥も、車輪の軋みも、一緒に読まないと話にならないらしい。
面倒な場所へ来てしまった。
「行くよ」
ダフネが先に立つ。
「暗くなる前に、見られる分は見た方がいい」
「ええ。それはわかります」
「なら歩く」
「もう少しだけ、心の準備を」
「無駄」
言い切られて、レオンは荷車の横へ回った。
柔らかい土が靴裏に貼りつく。遠くで角笛が短く鳴った。
帳面の上ではなく、荷車の横で数える最初の夜が始まろうとしていた。




