第3話 推薦状は情けで一通
進路相談という名前は、少し親切すぎると思う。
実際にやっていることは、残す者と外へ出す者を静かに分けるだけだ。
相談と呼んでおけば角が立ちにくい。たぶんそれだけで、中身はほとんど選別だった。
レオンは講堂脇の控え廊下で、自分の順番を待っていた。窓は開いているのに風が弱い。前の学生が部屋から出てくるたび、熱気と蝋の匂いが少し濃くなる。
出てくる顔は、だいたい二つに分かれていた。
明るい顔。
明るくはないが、少なくとも行き先だけは決まった顔。
どちらでもない顔をしているのは、自分くらいだろう。
いや、そういうことを考える時点で、もうだいぶ面倒くさい。
「レオン」
名を呼ばれて、部屋へ入る。
教師は、昨日の実技を見ていたあの男だった。机の上には木札と紙が並び、何人分かの進路はもう片づいているらしい。こういう机は、人の先を紙の厚みで分けているみたいで好きになれない。
「座れ」
「はい」
腰を下ろす。椅子が固い。
固いというより、こっちが勝手に身構えているだけかもしれない。
教師は板を一枚見てから言った。
「昨日の水実技、桶一杯」
「はい」
「濁りはなし」
「それも、はい」
「論述は中の上。計算は上。弁論は弱い。魔法出力は弱い」
ずいぶん手際よく切る。
傷口としては見事すぎる。
「……聞いていて楽しい評価ではありませんね」
「楽しい必要はない」
その通りだった。
教師は板を伏せた。
「先に言う。研究室残留はない」
「でしょうね」
「言い方に棘があるぞ」
「少し暑いので」
我ながら苦しい言い訳だったが、教師は流した。
「残留はない。だが、読み書きと計算は使える。帳面も崩れない。そこは見ている」
「ありがとうございます」
「礼を言うには早い」
その言い方で、だいたい察した。
良くない話ほど、こういう前置きがつく。
「塔の中に、お前を置く席はない」
「……はい」
「塔の外ならある」
やはり来た。
教師は机の端から一通の紙を取り上げた。まだ封は打たれていない。推薦状の下書きらしい。
「これは情けで書く」
「ずいぶんはっきり言いますね」
「期待を持たせる方が残酷だ」
それも、その通りだった。
「どこ向けです」
「プロクセノス隊付きの兵站監、フィロン」
「……軍ですか」
思ったより平たい声が出た。
もっと嫌そうな顔をしたつもりだったが、たぶん先に熱で乾いた。
教師は頷いた。
「正確には、王弟が雇っている外国人部隊の実務だ。研究でも弁論でもない。記録、配分、買い上げ、人数勘定。そういう仕事になる」
「戦場の近くでは」
「近いだろうな」
「僕は槍も剣もろくに」
「振るうために呼ばれるわけじゃない」
そこで教師は少しだけ声を落とした。
「お前の家は、プロクセノス将軍と縁がある。こちらの学統も、フィロンに一枚くらいは口が利くことができる」
「なるほど」
「わかるか」
「はい。僕が欲しがられたというより、家と塔で押し込める口が、そこにちょうどあったという話ですね」
教師は少し黙った。
言いすぎたかと思ったが、引っ込めても遅い。
「半分はその通りだ」
「半分ですか」
「もう半分は、お前が文字と数を扱えるからだ。そこが駄目なら、私は書かない」
それは少しだけ意外だった。
嬉しいというほどではない。嬉しがるには話が物騒すぎる。だが、完全に空の情けではないらしい。
「王弟、というのは」
「大国の王弟だ、ペルシア王弟キュロス」
「……ですよね」
「雇い主だ。そこを取り違えるな」
教師の指が机を軽く叩いた。
「相手は大きい。だが、お前は臣下になるわけじゃないし、なれるわけでもない。契約で雇われる実務官だ」
「言い方を変えても、巻き込まれる場所はあまり変わらない気がしますが」
「その通りだ」
あっさり認めるな、と思ったが、言わなかった。
教師は紙をこちらへ寄せた。
「受けるか」
「断ったら?」
「家に戻るか、地元で文書代書の口を探すか、父親の差配に任せるかだろう」
父親の差配。
それがいちばん、選択肢の顔をしていない。
レオンはしばらく黙った。
研究室には残れない。
せいぜい夢を見るなら、中央学都アテナイアの書庫の席くらいまでは考えていた。
だが、それも今の自分には遠い。
文字と数で食える口がある。
それが軍の近くで、汗と泥と怒鳴り声のそばだとしても、ないよりはましなのだろう。
自然な流れだ。
自然であることと、納得できることは別だが。
「受けます」
「そうか」
「受けないと、もっと面倒になりそうなので」
「そこまで見えているなら、まだ使えるな」
褒められているようには聞こえなかった。
たぶん褒めていないのだろう。そういう人だ。
教師は封泥をコネ始めた。赤茶の泥がやわらかくなり、紙と封緘の紐におしつけられ、指輪を押し付けられている。その匂いが妙に乾いた感じがして、少し気分が悪い。
粘土、随分念入りだな…とどうでもいいことを思った。
たしかもともとはミケーネあたりの習慣だった筈。
「ひとつだけ言っておく」
「はい」
「実務は、学問の敗者が行く場所だと思うな」
「……そう見える時はあります」
「見えるだろうな。だが現場は、見下した人間から殺しにかかる」
その言い方は、少しだけ講義に近かった。
「覚えておけ。数字がずれれば、人が飢える。水が腐れば、隊列が止まり、集団が崩壊する。バラけた個人は一人づつ片付けられる。そういう場所だ」
「わかりました」
一瞬、教師がこちらを見た。
少し間を置いてから、かれは言った。
「本当にわかったかは、向こうへ行けばわかる」
封に印が押された。
それで終わりだった。
部屋を出ると、廊下はさっきより静かだった。順番待ちの学生が減ったせいだろう。窓から入る光が白くて、少し目に痛い。
アンドロクレスが壁にもたれて待っていた。
「どうだった」
「静かに外へ出されました」
「言い方が暗いな」
「明るい話ではないでしょう」
「それはそうだ」
彼は封を見て、眉を上げた。
「推薦、出たのか」
「一通だけ。情けで」
「言う方も言う方だけど、そのまま言うお前もお前だな」
「飾っても封の中身は増えませんから」
アンドロクレスは少し笑った。
「どこ向け」
「傭兵隊の実務です」
「……遠いな」
「僕もそう思います」
「嫌か」
「嫌ですね」
「でも受ける」
「受けないと、たぶんもっと面倒です」
自分で言って、少しだけ嫌になった。
選んだというより、ましな穴へ落ちた感じしかしない。
アンドロクレスは封を指さした。
「それ、落とすなよ」
「落としませんよ」
「いや、今のお前、ちょっと魂が抜けた顔してるから」
「そんな顔ですか」
「してる」
しているのだろう。言い返すほどの元気もない。
「戻ったら、家は何て言うかな」
「だいたい想像はついています」
「優しくはなさそうだ」
「そこは期待していません」
アンドロクレスは少しだけ真面目な顔になった。
「レオン」
「何です」
「情けでも何でも、紙になったなら使える」
「励ましてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「今のお前に長い慰めは効かなさそうだからだ」
それは、まあ、その通りだった。
家に戻ると、父は封を見る前に内容を半分知っている顔をした。
「外向けの口が出たか」
「話が早いですね」
「遅いよりましだ」
父は封を確かめ、差出人の印を見て、それから中身を読んだ。読み終えるまでに大した時間はかからない。人の進路というのは、決まる時は本当に紙一枚だ。
「兵站監フィロンか」
「ご存じで」
「学統もある。プロクセノス将軍にも繋がる」
やはりそうか。
教師の話ときれいに重なる。こういう時だけ、大人たちは話が早い。
「軍務ではなく、実務だそうです」
「なお良い」
「良い、ですか」
「お前に槍を持たせる話ではない。帳面と記録だ。文字と数で食えるなら十分だろう」
父らしい答えだった。冷たいが、ぶれない。
「王弟の遠征だそうです」
「普通の国の王族とは違うぞ、簡単に捉えるのではない」
「教師にも言われました」
「なら覚えやすい。忠誠ではなく契約だ。給金の分だけ働け」
そこまで言うと、異国の王弟という話も急に働き口の話になる。
軍だの遠征だの言っているのに、家を通すと、土地の貸し借りみたいな響きになるのは何なんだろう。
「危なくないとは言いませんよね」
「言わん」
「ですよね」
「だが、家にいてもお前の席は増えない」
それはまっすぐすぎて、少し息が詰まった。
父は推薦状を卓に置いた。
「行け」
「……はい」
「嫌そうだな」
「嫌ですから」
「嫌でも役に立てるなら、それでいい」
それでいい。
そう言い切れるのは、たぶん送り出す側の特権だ。
翌朝、荷づくりはすぐ終わった。
書物は多く持っていけない。衣服も、いらないものを削れば大した量にはならない。結局、残ったのは筆記具と小さな蝋板、それに二冊だけ選んだ書物だった。
二冊しか持てない時、人は何を捨てるのかを知る。
知りたくもない知識だった。
門前には、サルディス方面へ向かう商荷の荷車が止まっていた。便乗の口を取ってあるらしい。父はそこまで済ませていた。抜かりがない。ありがたいと言うべきなのだろうが、先回りがきれいすぎて少し腹が立つ。
テオドルスが荷の端を抱えて立っていた。実家から付けられる若い従者で、まだ顔つきがだいぶ頼りない。
「レオン坊ちゃん」
「その呼び方、向こうではやめた方がいいですよ」
「え」
「せめてレオン様、くらいで」
「馴染みませんね…」
「でしょうね」
少しだけ笑うと、テオドルスは困った顔のまま頷いた。
門の外は明るい。
明るすぎて、これから行く先が軍の近くだという実感がまだ薄い。
レオンは懐の推薦状を押さえた。紙の角が服の上からわかる。情けで一通。それでも紙は紙だ。紙一枚で、人は塔の中から外へ押し出される。
荷車の木枠に手をかける。ざらついた感触が掌に残った。
書庫ではなかった。
研究室でもない。
中央学都アテナイアの石の匂いからは、ずいぶん遠い場所へ行く。
荷車がきしんだ。
その音が、学問の塔からいちばん遠い音に聞こえた。




