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第2話 半日かけて桶一杯

 翌朝の裏庭は、朝からもう暑かった。


 石床の上に木桶がずらりと並んでいる。縁に白い印が引かれ、実技魔法の担当ごとに場所が分けられていた。水、火、乾燥補助。

 レオンの前にあるのは、もちろん水の桶だ。


 昨日見た時より、ずっと嫌な景色だった。

 夜にはただ並んでいただけの木桶が、朝になると試験になる。そういうのは本当にやめてほしい。


「顔、死んでるぞ」


 横からアンドロクレスが言った。今日は火の列だ。こっちは気楽そうに見える。実際はそうでもないのだろうが、水の桶の前に立つ身としては、だいぶましに見える。


「生きてますよ」

「言い方がもう死んでる」

「朝から元気な人の方が珍しいでしょう」

「珍しいけど、今日は少しくらい見栄を張っとけ。試験だぞ」


 見栄。

 痛いところを突いてくる。


 実際、まるで期待していないわけではなかった。理屈はわかる。流れの寄せ方も、集中の置き方も、塔で散々やった。出力が弱いのは自覚しているが、制御まで下手とは思っていない。

 量で負けても、雑には見せたくなかった。


 教師が杖の先で石床を鳴らした。


「始めるぞ。正午の鐘までだ。水は清さと量の両方を見る。濁りは減点、無理な引き上げで倒れても減点だ。派手さはいらん。桶に入れろ」


 最後の一言がいちばん現実的だった。桶に入れろ。

 そう。理論も見栄も、結局はそこだ。


 周囲の学生がそれぞれの持ち場につく。誰かが息を整え、誰かが指を鳴らし、誰かがもう術式を頭の中でなぞっている。

 レオンも桶の前にしゃがみ、縁に手を置いた。


 木は朝からもう温い。

 せめて冷たければ、少しは気分も引き締まるのに。


「……始め」


 教師の声で、庭の空気が一斉に変わった。


 最初に音を立てたのは、二つ隣の学生だった。桶の上に細い水の筋が立ち、すぐに太くなる。勢いはあるが、端で跳ねてこぼれた。

 その向こうでは、別の学生がもっと小さく、だが安定して水を落としている。

 量を出す者。

 無駄を減らす者。

 たぶん、どっちも正しい。


 レオンは目を閉じた。

 空気の中の湿りを探る。井戸から運ばれた水気、石床の冷え残り、桶の内側にまだわずかに残っている昨夜の湿り。

 水の流れそのものは、見えない。だが、手を伸ばせばある場所はわかる。


 細く、細く。

 散らすな。

 寄せて、落とす。


 桶の底に、ぽつ、と音がした。


 よし、と少し思った。

 少しだけだ。ここで喜ぶのは早い。ぽつ、で終わる人間は試験にいない。


 もう一度、流れを寄せる。

 今度は二滴。三滴。

 やがて、糸みたいに細い水が、桶の真ん中へまっすぐ落ち始めた。


 悪くない。

 少なくとも、こぼれてはいない。


「お、きれいだな」


 隣から誰かが小さく言った。名は知らない。水の列で何度か顔を見た程度の男だ。


「量はともかく、ってやつですね」

「先に自分で言うなよ」


 笑われた。

 その笑い方に悪意はなかった。だから余計にやりにくい。


 水の筋は続いた。だが、本当に細い。

 桶の底にたまる音が、きれいすぎて腹が立つ。


 時間がたつほど、差は見えてくる。

 勢いのある者の桶は、もう底を隠していた。慎重な者も、ゆっくりだが確実に水位を上げている。

 レオンの桶も増えてはいる。増えてはいるが、朝日が少し傾くたびに、自分の遅さだけがはっきりした。


 頭の奥が重くなる。

 まだ早いだろう、と自分で思う。だが体は正直だ。出せる量が少ないぶん、集中で無理に支えるしかない。その分だけ先に疲れる。


「無理するな」


 教師が一度だけ前を通って言った。


「無理してません」

「そう見える時は、だいたい無理してる」


 返しようがない。

 教師はそれ以上何も言わず、次の桶へ歩いていった。


 正午の鐘まで、まだある。

 まだあるのに、もう長い。


 レオンは流れを切らさないよう、ひたすら細く落とし続けた。勢いを出そうとすると散る。散ればこぼれる。こぼせばもっと情けない。

 だから細く、まっすぐ。

 それしかなかった。


 途中で二度、視界がぶれた。

 一度目は息を整えてやり過ごせた。

 二度目は、桶の縁に手をつかないと少し危なかった。


「おい、大丈夫か」


 さっきの男がまた声をかけてきた。


「大丈夫です」

「顔色は大丈夫じゃない」

「顔色まで採点に入るなら、最初から負けですね」

「そこまで言えるなら平気か」


 また笑われた。

 悪くない笑い方だった。


 鐘が鳴ったのは、ちょうどレオンの桶の水面が白線に触れた時だった。


 からん、と乾いた音が庭に広がる。終わりの合図だ。


 レオンはそこでようやく手を離した。

 指先が冷えている。頭も痛い。背中の内側が変にだるい。

 なのに、桶の中には、たしかに水がある。


 一杯。

 きっちり、一杯。


 教師が順に見て回る。量を見て、濁りを見て、何人かには短く講評を落とす。

 二つ隣の学生は二杯半。隣の列の優等生は三杯近い。火の列では、アンドロクレスが湿った麻紐にしつこく火を移していて、あれはあれで面倒そうだった。


 教師はレオンの桶の前で止まった。水面をのぞき込み、手を入れ、少しだけ指先を見た。


「濁りはない」

「ありがとうございます」

「礼を言うところではない」


 そう言いながらも、教師の声はいつもより少し低かった。


「制御は悪くない」

「……はい」

「だが、量が足りん」


 わかっていた。

 わかっていたが、人に言われると別の重さになる。


「半日で桶一杯では、研究室に置きにくい。実地魔術師としても弱い」

「ええ」


 そこで反論すると、もっと惨めになる。

 理論なら。清さなら。効率なら。そう言い出したらきりがない。桶はもう目の前にあるのだから。


 教師は少しだけ間を置いた。


「ただ、使い道がないわけではない」

「使い道、ですか」

「傷を洗う。薬を薄める。飲み水に足す。腐った水を見分ける。そういう場では、きれいに一杯出せるのは便利だ」


 慰めではない。

 言い方があまりに実務で、逆に少しだけ救われそうになる。困る。


「でも、それでは塔に残れませんよね」

「残りにくいな」


 きっぱりしていた。そこはありがたい。

 曖昧に濁されるより、よほどましだ。


 教師は次の桶へ行きかけて、ふと足を止めた。


「相談があるなら来い」

「何のです」

「残留以外の話だ」


 それだけ言って、本当に行ってしまった。


 残留以外。

 ずいぶん便利な言い方だった。父の言い方に少し似ている。嫌なところばかり似る。


 レオンは桶の中を見た。

 水は澄んでいる。底まで見える。少なくとも、濁ってはいない。汚くもない。

 きれいな一杯だ。


 それが何だ、という気もした。

 半日かけてようやく一杯。誇れる量ではない。胸を張るには遅すぎるし、研究塔に残るには足りなすぎる。


 それでも、桶は空ではなかった。


「終わったな」


 アンドロクレスが寄ってきた。指先を振っている。火の列もそれなりに消耗したらしい。


「ええ。きれいに負けました」

「そういう言い方をする」

「事実でしょう」

「半分だけな」


 彼はレオンの桶をのぞき込んだ。


「澄んでる」

「量はありません」

「でも澄んでる。病人に飲ませるなら、こういう方が助かるかもな」

「君まで実務の話をしますか」

「いま言われたばかりみたいな顔してるぞ」


 そこまで顔に出ていたのか。

 最悪だ。いや、最悪というほどでもない。もうそれを言うほどの元気も残っていない。


「午後、教師のところへ行くのか」

「たぶん」

「行っとけ。残れないなら、次を探すしかない」

「ずいぶんあっさりしてますね」

「そっちはあっさりした方が楽だろ」


 そう言われると、たしかにそうだった。

 未練は長い。だが進路の話まで長くされると、ただ疲れる。


 裏庭では、下働きが試験用の桶を一つずつ片づけ始めていた。水は別の桶へ移され、石床にこぼれた分は布で吸われる。

 誰かにとっては半日の成果で、誰かにとっては次の雑務の水だ。


 レオンは木桶の縁に触れたまま、しばらく動かなかった。


 半日で桶一杯。

 数字にすると簡単だ。

 簡単なのに、妙に重い。


 研究塔に残るには足りない。

 でも、どこかでなら使えるかもしれない。


 その「どこか」が、ちっとも嬉しくないのがいちばん困る。


 教師の背が講堂の方へ消えていく。

 レオンはようやく手を離し、水の残る重さを見ないふりで立ち上がった。


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