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第1話 落第ではない、ただ不要だっただけだ

 不合格の木札は、思っていたよりずっと軽かった。


 中央学都アテナイアの掲示柱には、朝から人が集まっていた。柱の正面には合格者の名が並び、その脇の浅い籠には、受験の朝に預けた名入りの木札が返されている。

 合格した者の札は籠に戻らない。塔に残る名として、そのまま控えに回る。

 だから、籠の中に自分の木札があれば、それで終わりだった。


 レオンは一度、掲示の方を見た。

 二度目に、籠の中の木札を見た。

 三度目で、ようやく自分の札を拾った。


 表に刻まれた名は間違いなく自分のものだ。

 つまり、見落としではない。


 ないものは、ない。


 木札の角が指に当たる。たったそれだけのことなのに、妙に腹が立った。

 落第、と大きく書いてあればまだましだ。お前は足りなかったのだと、相手がちゃんと言ってくれたことになる。

 だが実際は違う。受かった名だけが残り、受からなかった者には木札が返る。それだけだ。


 要するに、要られなかった。


「……レオン」


 後ろから声をかけられて、レオンは振り向いた。同期のメネスだった。法学と弁論に強く、声の通りがいい男だ。顔を見ればわかる。受かったのだろう。受かった者が落ちた相手に向ける、あのやりにくそうな顔をしていた。


「見たか」

「ええ。よく見えました」


 少し棘が出た。

 自分でもわかったが、引っ込めるほどの余裕はなかった。


 メネスは眉を寄せたが、話をやめなかった。


「お前、法学の論述は悪くなかっただろう」

「悪くなかった、で止まったんでしょう」

「そう拗ねるなよ」

「拗ねてません。うまくいかなかっただけです」


 言ってから、ほとんど同じことではないかと思った。

 だが今日は、言い分の整い具合まで気を配る気になれない。


 メネスは小さく息をついた。


「少なくとも、今日のうちに全部を世のせいにするな」

「立派ですね。残る人の言い方だ」

「そういう返しをするから損をするんだ」


 たぶん、その通りだった。

 その通りだから、なおさら聞きたくない。


「タナグラには行くのか」

「家がそうさせるでしょうね」

「地方塔でも、優秀な奴はいる」

「慰めなら、もう少しうまく言ってください」

「慰めじゃない。普通の話だ」


 普通。

 その言葉が今日は妙に刺さる。中央に残る者にとっては普通でも、こちらにとってはそうではない。


 レオンは木札を握り直した。


「……そうですか」

「レオン」

「何です」

「腐るなよ」

「難しいことを言いますね」


 それだけ返して、レオンは人の流れから外れた。

 メネスも追ってはこなかった。そこは助かった。


 掲示柱の前では、まだ歓声が上がっている。肩を叩き合う音、笑い声、悔しさを飲み込む沈黙。どれも近くにあるのに、自分とは少し離れた場所の音みたいだった。


 木札一枚で外へ弾かれる。

 思っていたより、ずっと静かな終わり方だった。


 その夜、父は慰めなかった。


 実家の中庭には、夕方の熱が石から遅れて上がってくる。葡萄棚の影が細く伸び、卓の上の杯だけが白く光っていた。父はそこに座ったまま、戻ってきた次男の顔をひと目見て、ほぼ話を終えた顔をしていた。


「中央は駄目だったそうだな」

「早いですね」

「そういう報せは早い」


 そりゃそうか、とレオンは思う。

 こういう家では、息子の気分より先に結果が届く。


 母は席にいなかった。あえて外したのか、外れたのかはわからない。たぶん両方だ。


 父は杯を置いた。


「お前には字と計算がある。地方塔で席が残れば、それで十分だ」

「十分、ですか」

「中央へ届かなかった者に、立派な言い方はいらん」


 杯の触れた卓が、こつりと乾いた音を立てた。


「哲学や弁論で名前が売れなくても、帳面が合えば家の差配はできる。土地の見回りも、納め物の整理も、誰かの実務もな。縁をたどって押し込める先はある。残れれば十分というのは、そういう意味だ」


 励ましではなかった。

 条件の確認だった。

 この息子はまだ使えるのか。家の外へ押し出すにしても、何の札をつけて出せるのか。


「僕は、家の余りものですか」

「次男はだいたいそういうものだ」

「ずいぶんあっさり言いますね」

「中央に受かっていれば、もう少し言い方は考えた」


 ひどい話だった。

 だが、変に優しくされるよりましでもある。そう思ってしまうあたりがまた腹立たしい。


 この家は、戦場で成り上がった家ではない。軍功より先に、土地を荒らさず、収穫を落とさず、隣と揉めても最後は文書と証人で勝つ家だ。

 なら父が欲しがるのも、槍のうまい息子より、帳面の狂いに気づく息子なのだろう。


 嬉しくはないが、理屈はわかる。


「タナグラへは行きます」

「行け」

「ほかの言い方はないんですか」

「ある。だが今は役に立たん」


 父はそこで、ようやく少しだけこちらを見た。


「残れ。塔に残れれば、家にも話が通しやすい」

「どこへ」

「必要なところへだ」


 必要なところ。

 ずいぶん便利な言い方だった。家の中でも外でも、結局そこへ戻る。


 レオンは杯に手を伸ばしかけて、やめた。飲んでも少しも楽にならない気がしたからだ。


「わかりました」

「わかった顔ではないな」

「わかったから、こういう顔なんです」


 父は怒らなかった。

 ただ、そうか、とだけ言った。

 その短さがいちばん堪えた。


 タナグラ地方塔都市は、アテナイアほどきらびやかではなかった。


 講堂はある。石段もある。書架も、それなりに高い。

 だが中央みたいに、歩いているだけで自分まで賢くなった気になる空気はない。代わりに、ここにはここで残ろうとする者たちの息苦しさがある。


 中央へ届かなかった者。

 家の都合で流れてきた者。

 ここならまだやれると思って来た者。

 そして、その中でもちゃんと抜けていく者。


 最初の月で、レオンはそれを知った。


 講堂は暑かった。石壁が熱を返し、蝋板の縁が指に張りつく。教師は痩せた男で、声が低い。気に入らない相手にも怒鳴らない。怒鳴らない方が厄介だと、そのころにはもうわかっていた。


「三列目です」


 教師の杖が、蝋板の上を軽く叩いた。


「人夫の数が、そのまま支給する麦袋の列へ移っている」


 前の席の学生が、はっと顔を上げた。自分の板の誤りだと気づいたのだろう。周りに小さなざわめきが走る。


 教師は板を寄せた。


「では、そのまま進めたら、どこで一番先に困る」


 講堂が静かになる。

 答えは難しくない。だが、現場に落とすと嫌な種類の間違いだった。


 レオンは手を上げた。


「下流の工区です」

「なぜだ」

「欠員補充の前に、配る麦が切れます」

「なぜそうなる」

「元の数がずれたまま、総量だけ決めているからです。現場は最初の見積もりで人を動かします。足りないと気づいた時には、もう配る分がありません」


 教師の目が、ようやくこちらへ向いた。


「……いい。座れ」


 それだけだった。

 褒めない。だが、間違いでもない。


 レオンは腰を下ろしながら、胸の奥で小さく息をついた。

 まだやれる。

 少なくとも、こういうずれは見える。


 人夫の数が一つずれれば、下流で麦が尽きる。

 帳面の狂いは、そのまま腹の空きに変わる。

 そういう当たり前なら、自分にもまだ拾える。


 講義のあと、廊下で同室のアンドロクレスに声をかけられた。家柄はそこそこ、法学に強く、人の顔色を見るのがうまい男だ。


「いまの答え、よかったな」

「講義の答えですからね。外すと困ります」

「相変わらず言い方がかわいくない」

「暑いので」

「その便利な言い訳、年中使う気か」


 少し笑ってから、アンドロクレスは歩調を合わせてきた。


「中央に落ちたって聞いた時は、もっと沈んでるかと思った」

「沈んでますよ。見えにくいだけで」

「それを自分で言うのがもう面倒だな」

「自覚がある分、まだましでしょう」

「そういうところだよ」


 何がだ、と聞く前に、彼は続けた。


「お前、法学の論述は悪くなかっただろう」

「またそれですか」

「まただ。惜しい奴が落ちると、残った方も気分が悪い」

「贅沢な話ですね」

「そうやってすぐ刺すな」


 レオンは少しだけ肩をすくめた。


「じゃあ、どう返せば丸いんです」

「丸くなくていい。ただ、最初から全部わかった顔はするな」

「わかってませんよ」

「でも、足りないところだけは見えてる顔だ」


 図星だった。

 それができるから余計に面倒なのだ。


 アンドロクレスは声を落とした。


「この塔には、お前みたいなのがわりといる」

「どんなのです」

「中央に届かなかったのに、中央で覚えた見方だけはまだ手放してない奴」


 その言葉は、思ったより深く刺さった。

 否定できないからだ。


 レオンは答えずに歩いた。アンドロクレスも横を歩く。


「でも、さっきのはよかった」

「二度言わなくて結構です」

「言っとく。あれは土木の話でも計算の遊びでもない。食わせる数の話だ。現場へ下りたら、ああいうのは効く」

「現場へ下りる気はありません」

「そう言う奴ほど、だいたい下りる」


 やめろ、と言いかけてやめた。

 何となく縁起が悪かった。


 夕方、講堂を出ると、塔の裏庭に水桶が並んでいた。


 炊事用、洗い用、実技用。大きさの違う木桶が石床の上に置かれ、縁の印で使い道が分けられている。下働きが井戸から運んだ水は、もう半分以上たまっていた。西日を受けた水面が、ぬるく光っている。


 明日の実技で使う水だ。


 立ち止まったのは自分だけではなかった。何人かの学生が、同じように桶を見ている。余裕のある顔。嫌な予感をしている顔。何とかなると思いたい顔。だいたい似たようなものだ。


 レオンは一番手前の桶を見た。

 空だったはずの桶が、もうかなり満ちている。


 自分なら、半日かけてようやく底を濡らせるかどうかだ。

 ただそれだけの光景なのに、妙に胸にきた。


 水魔法の理屈はわかる。流れの取り方も、術式の折り方も、集中の置き方も知っている。

 だが、わかることと出ることは別だ。塔はそこを驚くほど冷たく分ける。


 明日、あの桶の前で、自分の足りなさが量になる。


 そう思うと、指先が少し冷えた。


 裏庭の奥で、誰かが水桶の縁をこつりと叩いた。

 鈍い木の音が、夕方の熱の中で妙に遠くまで響いた。


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