第14話 同級生はいまごろ書庫にいる
夜の野営地は、一見静まり返っていた。ただ、さわめくような喧騒とは言えない雑多な音は、あちこちから聞こえてきていた。
配給幕の前に渦巻いていた熱気と怒号はさすがに引いた。
だが、火はまだあちこちで焚かれているが、篝火のような威勢の良さはなく、細々とついている感じであった。
糧食の準備が遅れていたどこかの隊列では、鍋の蓋がどこかで鳴り、ようやく麦粥をすすり込む音がする。遠くで繋がれた駄獣が鼻を鳴らし、乾いた風が天幕の布を揺らした。
広い平地は、昼だけでなく夜も隠してくれない。
火があれば火が見える。誰かが笑えば、その声は思ったより遠くまで滑る。白く乾いた街道は月の下で細く光り、その先もたぶん似たような平地だろうと思わせた。逃げ場のない地形だった。
レオンは火のそばに座り、木板の上に広げた控えと睨み合っていた。
鍋数。口数。別札。遅れて回した荷駄番の分。こぼれた麦。拾い直した分。
傍らでは、昼間の騒ぎですっかり消耗したテオドルスが、外套にくるまって丸太のように眠りこけている。片手にはまだスタイラスを握ったままだ。落とすなよ、と言いかけてやめた。今起こすと、たぶんそのまま泣く顔だ。
獣の世話役は駄獣にブラシをかけてやったり布で拭いてやったりしている。鍋番の老人は焦げた鍋底を木片でこすりながら、誰に聞かせるでもない文句を垂れていた。
「いちど焦げついた鍋は、どうやったって焦げるんだ……焦げくせぇのはしょうがねぇこった」
もっともである。
まぁ、食べる方は知ったこっちゃない類のもっともさではあるが。
レオンは最後の控えを書き終え、板を重ねかけて、ふと手を止めた。
その下から、古い紙片がのぞいていた。
陣中の控えではない。
塔にいた頃、自分で書き溜めていた自然学の写しと、実技魔法の基礎式の断片だ。半日かけて桶一杯の水しか出せない、あの情けない微弱魔法を、何とか理屈で補おうとして書き散らした跡。役に立たない火と水を、役に立つ形へ寄せようとしていた頃の、みっともない努力の残りカスだった。
こんなものをまだ持ち歩いている時点で、何も諦めきれていない。
自分でも嫌になる。
昼間は、数字的確に使い、混乱を場を静めた。配給の行列も崩れなかった。後ろの連中までちゃんと食わせた。兵站実務としては、かなりうまくやった方だ。
なのに夜になると頭に浮かぶのは、乾いた書庫の匂いだった。
中央のアテナイの塔の、あの広い書庫。
あるいはタナグラの地方塔の、少し埃っぽくて、古いパピルスの匂いがする図書室。
同級生たちはいまごろ、乾いた部屋で灯りのそばに座り、巻物を開き、天体の運行だの、古い戦史の読み比べともしかしたら議論なんかしてるだろう。そういう立派なことで時間を潰しているに違いない。
こっちは獣のくしゃみで砂と臭いを浴びながら、重装歩兵に大麦を何袋回したかを数えている。
役に立った。
それは事実だ。
だが、役に立った事実は、研究塔に残れなかった傷を埋めない。むしろ、余計にくっきりさせる。
「まだ起きてるの」
背後から声がふって来て、レオンは肩を跳ねさせた。
振り返ると、ダフネが立っていた。見回り帰りなのか、槍を肩に預けたまま、火の輪の外からこちらを見ている。相変わらず、気配が薄い。敵だったら困るが、いまは護衛なので助かる。
「……控えの確認です。明日の配分を間違えれば、また騒ぎますからね」
レオンは慌ててパピルス片を木板の下へ差し込んだ。
遅かった。ダフネの視線は、もうそれを見ている。
だが、何も聞かなかった。
ただ無言で対面の倒木に腰を下ろし、腰の皮袋の栓を抜く。木杯をひとつ取り上げ、薄い葡萄酒を少しだけ注いだ。
「飲んで。夜は冷える」
「……どうも」
レオンは木杯を両手で包んだ。
酸味の強い安酒が、冷えた腹に落ちていく。気の利いた慰めの言葉はない。ただ、冷えるだろうから飲め、というだけだ。そういうところだけ、やたらと正確だ。
沈黙がしばらく続いた。
痛い沈黙ではない。火の爆ぜる音と、遠くの獣の鼻息と、眠りかけた書記の寝返りが、そのあいだを埋めた。
「同級生たちは、今ごろ書庫にいるんでしょうね」
口に出してから、しまったと思った。
疲れると、人は妙なところから素地が出てしまう。
ぽろっとこぼれ落ちるというヤツだ。
だがダフネは笑わなかった。
哀れむ顔もしない。
「いるだろうね」
「乾いた部屋で、灯りのそばで、本でも読んでるんでしょう」
「羨ましいんだ」
「かなり」
ダフネは火を見たまま言った。
「そりゃそうでしょ」
短い。
だが、その短さがありがたかった。
「今日、あんたがいなかったら、後ろの連中は食えなかった」
「ええ。そうですね」
「でも、それで塔に戻れるわけじゃない」
ダフネはそこで、少しだけ首を傾けた。
「今住んでる穴倉とは別の穴倉だし」
レオンは、思わず鼻で笑った。
「乱暴な言い方ですね、ぼくはアナグマかなにかですか」
「狐かうさぎじやない?キツネが穴掘るか知らないけど」
「あなたらしいです」
「馬鹿にしてる?」
「してませんよ」
また少し沈黙が落ちた。
今度は、さっきより少しだけ楽な沈黙だった。
レオンは木板の下の紙片を指先で押さえたまま、ぽつりと言った。
「今日、役に立ちました。火もつけましたし、配給もなんとか回せました」
「うん」
「それでも、ちっとも心の穴が埋まりません」
ダフネはすぐには答えなかった。
鍋番の老人がまた誰かに文句を言っている。獣の世話役は、脚を拭き終わった駄獣の背を軽く叩いた。あれは拭くことに意味があるのだろうか。それともマッサージなのだろうか。
テオドルスは控え板を胸に抱えたまま、完全に舟をこいでいる。案の定、鉄筆は、どこかに行っていた。
「埋まらないでしょ」
ダフネはそう言って、レオンの手元の木板を顎で示した。
「まだ持ってるんだから」
学院時代の紙片が書字版から覗いていた。
それで十分だった。
捨てろとも、忘れろとも言わない。今の仕事で上書きしろとも言わない。
未練は未練のまま持っておけ、と言っているだけだ。
ひどい女だ。
でも、たぶん今欲しかった返事はそれだった。
「……明日の麦、少し配分を変えます。軽装の連中の歩き方が怪しくなってきてる、あれじゃ僕らと変わらない」
「そうしなよ。ミュロンの小言が減る」
「それは大事ですね」
「かなり」
ダフネは木杯を回収し、立ち上がりかけた。
その時、闇の向こうから別の声が近づいてきた。
「主計殿、起きてるかい」
隻眼のシラクサだった。
この時間に来るということは、市場の相場か、もっと嫌な何かだ。
「どうしました」
「どうもこうもねえ。連中がざわついてる。ただの噂ならいいんだがな」
シラクサは火の明かりへ半分だけ顔を出し、声を潜めた。
「傭兵どもに、給金がまだ出てねえって話だ。もう三か月分もな。
いや、遅配なんてよくある話なんでと思ってたが、流石に長い。ぼちぼち、一悶着くるかも知れねぇ」
レオンは木板の山を見た。
給金の控え。未払い。差し引き。受け取り札。
帳面は逃げない。嫌になるくらい現実だ。まぁ、付ける側の僕らが待ちがわなければ。
「……三か月」
夜気とは別の寒さが背中を這った。
大麦の配分などという、まだ可愛げのある話ではない。金が出なければ、二万の傭兵団はただの武装した不満の塊になる。
ギリシア人でなければ、盗賊や山賊に早変わりしてもおかしくない。
でも、少し納得がいった。
カレスたちが、少々横暴だったのも、きっとそれが関係してるのだろう。
都市の中流階級のでにしては、ガラがわるいと思ってたら、そういう事情もあったのか。
少し離れた火の輪で、誰かがまた怒鳴った。
「今日食えたからって、明日も黙ると思うなよ!」
レオンは、ついさっきまで握っていた古いパピルス片を、木板の下へきちんと差し込んだ。
追憶とか未練とかそういう上等なものに浸る猶予など、どうやら今夜もないらしい。
白い街道の向こうから吹く風が、宿営地の小さな火を細く揺らしていた。




