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第13話 数字は怒鳴り声より強い

 配給幕の前は、火がついた瞬間から最悪になった。


 鍋の匂いは兵の頭を悪くするらしい。

 腹を減らした兵は、賢くない。

 つまり相乗効果だ。いや違うか?


 広い平地の宿営地では、誰か一人が怒鳴れば、その怒鳴り声がすぐ隣の列へ飛ぶ。隣で怒鳴り返せば、そのまた隣へ行く。隠せない。止まりかけた列も、配給の遅れも、誰が先に煮ているかも、ぜんぶ見えてしまう。広い場所というのは、気分までよく広がる。だいたい悪い方へ。


「おい! そっちはもう鍋をかけてるじゃねえか!」

「こっちはまだ火もねえんだよ!」

「順番守れ!」

「腹が減ってんだ、守れるか!」


 配給幕の前には、木鉢を持った検量役が二人、塩肉を切る包丁持ちが一人、記録板を抱えた書記が三人、それに鍋を持って突っ込んでくる兵が数十。さらに、その後ろで自分の列のぶんを早く寄越せと喚く顔役たちがいた。


 カレスもいる。

 しかも朝から歩き詰めで腹を空かせた不機嫌な重装歩兵の顔をたいへん立派にやっている。やめてほしい。立派な空腹は面倒だ。


「おい坊主、うちの分はまだか!」

「検量役が二人で違う鉢を使っています。先にそちらを止めてください」


「は?」

「は、ではありません。いま一杯の大きさが揃っていない」


 実際そうだった。

 右の検量役は深い木鉢を使い、左は少し浅い。しかも片方は慌てていて、麦を山盛りにしている。あれでは誰にどれだけ回ったか、すぐ分からなくなる。人がもめている時にいちばん先に死ぬのは、たいてい加減だ。


「主計殿!」


 テオドルスが、半泣きの顔で記録板を抱えてきた。


「第三列と第五列で、もう配り始めています! でも後ろの列はまだ鍋の数も出ていません!」

「検量役は一人にしてください。鉢はそれ一つだけ」

「えっ、でも遅く――」

「早さより先に量を揃えます。でないと後ろが空になります」


 その時、別の方角から怒鳴り声が飛んだ。


「荷駄番の分まで先に持ってくな!」

「うるせえ、こっちは戦う側だ!」


 ああもう。

 最悪の言葉が出た。戦う側。つまり、荷駄番や獣の世話役や車輪大工や、荷車に取りついていた御者は後回しでいいと言い出したわけだ。腹が減ると人は本音がこぼれだす。


 ミュロンが、その声の中心へすっと入った。


「荷駄番を抜くな」

「何でだよ!」

「明日の朝、誰が獣引く。おめぇが、獣ひけんのか?」


 短い。

 短いが、十分だった。怒鳴った兵は一瞬だけ口を止めた。だが一瞬だけだ。


「そんなの後で――」

「後でじゃねえ。今だ」


 ミュロンの声が低く落ちた。

 本当に危ない時の声だ。周りの兵が少しだけ引く。だが、引くだけで、配給そのものはまだ止まらない。


 レオンは配給幕の下を見た。

 麦袋は九。開いているのは三。塩肉は七束。水は火口回しにも使っているから、いま見えているより少ない。しかもまだ後ろの荷駄列から、歩けなくなった兵と、遅れた軽装歩兵が入ってくる。


 昼の記録が頭の中で勝手に並んだ。

 足を庇って遅れた者、十一。

 水袋小破、七。

 歩様の悪い駄獣、五。

 まだ見えていないぶんを抜いて前から好きに持っていかせたら、最後尾が空になる。


 フィロンが、いつの間にか幕の陰に立っていた。


「見苦しい。止めろ」

「何をです」

「何を?全部だ。配るのも、喚くのも」

「命令としては雑ですね」

「理由はあとだ。収集がつかなくなる前にやれ」


 ずいぶん立派な無茶振りである。

 だが、ここでやらなければ、本当に誰にどれだけ回ったか分からなくなる。分からなくなった配給は、あとで必ずもっと大きくもめる。


 レオンは記録板をひったくるように受け取り、近くの空いた車軸箱へ乗った。


 高い。

 いや、たかが箱だ。だが、こういう時には十分高い。十分に嫌だ。


「静かにしてください!」


 当然、最初は誰も静かにならなかった。

 だからレオンは、もう一度、今度は少しだけ言葉を変えた。


「静かにしないと、最後尾の四十七人が食えません!」


 はったりだ。

 はったりだけど……


 人の動きは止まった。


 完璧ではない。

 だが、止まった。怒鳴る側も、こういう時だけは数字を聞く。自分が損する数だと分かるからだ。

 だいたい何人食べれないかなんて分かるわけがない。


「……いま見えている鍋は二十九。まだ火のついていない列が七。遅れて入る歩けない者と荷駄番が十一。ここで前から好きに掬わせると、最後尾の四十七人ぶんが消えます。しかも検量役が違う鉢を使っているので、いまのままだと明日の朝には、誰に何をどこまで配ったか分からなくなる」


 配給幕の前が、しんとした。

 皆が納得したわけではない。ただ、口を挟む前に続きを聞いた方が、自分の損得が見えそうだと思っただけだ。結構。いまはそれでいい。

 ふっと、塔で学んだ損失回避性の話が頭をよぎる。

 人を動かすカギは利得と損失であるとか……そんな話だった気はするが、こういうときって、どうしてこんなどうでもいいことばかり頭をよぎるんだろう。


 カレスが腕を組んだまま言った。


「で、どうする」

「列順で配ります」

「重装歩兵より軽装歩兵を先にする気か」

「違います。重装も軽装も、列順です。火がついた順でも、声がでかい順でもない」


「はっ、紙の理屈だな」

「ええ。ですが腹は満たします」


 レオンは板を見たまま言葉を継いだ。


「検量役はこの鉢一つだけ。鍋ひとつにつき基準量を固定します。兵八人までなら一鉢、八を超える分は半鉢ずつ足す。塩肉は鍋の数ではなく口数で切る。遅れている者と荷駄番のぶんは別札で最後に除けます。勝手に取りに来た列は後ろへ回します」


「そんな細かいこと、今からやれんのかよ」

「やります。でないと今夜もっと遅くなります」


 テオドルスに板を押しつける。


「書いて。第一列から順に、鍋数と口数」

「は、はい!」

「検量役は一人だけ前へ。もう一人は鉢を置いて、こぼした麦を拾う側へ回ってください。布を敷いて拾わせて。直置きは駄目です」

「え、あ、はい!」


「ダフネ」

「いる」

「列を分けてください。鍋持ちと、まだ受け取り札のない者を分けたい」

「了解」


 ダフネは短槍の石突きで地面を二度叩いた。


「鍋ある奴は右。札がない奴は左。割り込んだら後ろ。ほら、動く」


 それだけで、前にいた何人かが実際に動いた。

 怖いな、この人。いや、助かるな、だ。


 ミュロンはもう別の場所で怒鳴っていた。


「てめえら、鍋だけ前へ出せ! 食う口全部が配給幕に来るな、邪魔だ!」


 現場の理屈として正しい。

 そしてこういう時のミュロンは、言葉が早い。


 バウコスまで寄ってきて、鼻を鳴らした。


「荷駄番と獣の世話役を抜いたら、明日の朝に詰むぞ」

「分かっています。その別札を今から作ります」

「ならいい」


 いい、で済ませるのか。

 いや、あの人がいいと言うならたぶん本当にいいのだろう。現場はそういうものだ。気分ではなく、明日動くかどうかで判定する。


 レオンは板の数字を追いながら、声を張った。


「第一列! 鍋五、口三十八。麦六鉢、塩肉は三十八口ぶん!」

「第二列、前へ! 押さない!」

「第三列、鍋六、口四十三!」


 数字を出す。

 声を揃える。

 検量役が同じ鉢で掬い、書記が控えを切り、鍋持ちが受け取る。最初の二列は、それでももたついた。だが三列目からは、目の前で量が揃っていくのを見たせいか、兵の怒号が少し変わった。


 消えたわけではない。

 だが、「俺を先にしろ」が「うちの口数はそれで合ってるか」に変わる。これは大きい。文句の向きが、押し込みから確認へずれる。


「おい、第三列それじゃ少ねえぞ!」

「口数を言ってください」

「四十三だ!」

「では合っています。次」


「待て、うちは歩けなくなった二人が後ろだ!」

「別札を切ります。名前」

「フィリノス隊、ポリュストラトスと――」

「分かりました。後ろに回しておきます。次」


 フィリノスがいた。

 さっき火をつけた鍋番の兵だ。顔を上げた一瞬だけ、あの男はニッとした。お前はこういう時まで元気だな。少し羨ましい。


 だが、うまく回り始めると、逆に機嫌が悪くなる者もいる。

 割り込みで得をするつもりだった連中だ。


 カレスが舌打ちした。


「結局、順番どおりかよ」

「そうです」

「つまらねえな」

「全員が食える方を優先しています」

「お前な、そういう言い方がいちいち――」


 そこまで言って、カレスは口を閉じた。

 自分の後ろの兵が、もう鍋を受け取っているからだ。目の前で回り始めたものには、さすがに文句が続かない。


 配給幕の前は、ようやく列になった。


 鍋を抱えた兵が右へ流れ、空いた場所へ次の列が入る。塩肉を切る包丁持ちは、最初こそ手元が乱れたが、書記が口数を読み上げ始めると落ち着いた。水袋持ちは受け取り後に別の火へ回り、火の弱い列には炭の入った土鍋が渡される。鍋底をこすっていた炊事役の老人が、やっと座り直して、黙って手を動かし始めた。


 広い平地の真ん中で、さっきまでただ広がっていた怒号が、少しだけ細い流れに変わる。

 全部は無理だ。全部は整わない。だが、一度だけなら整えられる。


 それはたぶん、かなり嫌な種類の手応えだった。


「主計殿!」


 別の書記が駆けてきた。


「第七列、口数をごまかしています! 三十九と言いましたが、鍋は四つしかありません!」

「八人鍋なら三十二です。余りは」

「後ろの列へ混じってるようで――」

「混ぜないでください。いったん後ろ」

「ちぇっ」


 舌打ちしたのは、第七列の兵だった。

 聞こえるように舌を鳴らすあたり、実に元気で結構である。


 レオンは板から顔を上げずに言った。


「今夜は全員に回します。ですが口数をごまかした列は、明日の朝に先に数えます」

「脅しか」

「予告です」


 後ろで何人かが吹き出した。

 笑われたのは相手だ。ああ、よかった。ここで僕が笑われると少しへこむ。


 最後の列が鍋を受け取るころには、空はもうだいぶ暗かった。

 火はまだ小さい。鍋の中身も豪勢にはほど遠い。麦、塩、少しの肉。だが、全員の手にいったん回るところまでは持っていけた。


 レオンは車軸箱から降りた。

 降りた瞬間、膝が少し揺れた。気づかなかったことにしたいが、ダフネにはたぶん見られた。


 フィロンが近づいてきた。


「立て直したな、まずまずだ」

「褒め言葉としては渋すぎませんか」

「褒めてはいない。破局させなかったことを立て直したと表現しただけだ」

「ひどい」

「明日もそれでいい」


 それだけ言って去っていく。

 本当に、この人は人の気分を支える気がない。だが「明日も」と言った。つまり、さっきのやり方を認めたのだろう。認め方が冷えすぎているだけで。


 カレスは受け取った鍋を持ったまま、去り際にレオンの肩を軽くぶつけた。


「次はもっと早くやれよ、坊主」

「善処します」

「お前みたいなのが前に出ると、腹立つんだよ」

「知っています」


「でもまあ、食えた。今日のところは許してやる」


 それだけ残して、カレスは自分の列へ戻った。

 酷く勝手な言いざまだ。褒めたつもりなのかな?

 いやたぶん褒めたつもりはないのだろうな。こちらも褒められた気はしない。だが、あの男がその一言で済ませたなら、今夜は上出来だ。


 少し離れた火のそばで、遅れていた荷駄番と獣の世話役にも鍋が回っていた。

 その一人が、黙って頭を下げた。年かさの駄獣番で、昼間に脚の悪い獣を気にしていた男だ。言葉はない。だが、その方がいい。いちいち礼を言われると、こっちが困る。


「落とした」


 ダフネが、レオンの手に細いものを押しつけてきた。

 スタイラスだった。いつの間にか落としていたらしい。危なかった。ほんとうに危なかった。


「ありがとうございます。これは死ぬほど大事です」

「知ってる」


 ダフネはそれだけ言って、鍋の列が消えた配給幕の前を見た。


「さっきの、よかった」

「珍しいですね。ちゃんと口に出しました」

「全部じゃない」


 彼女は顎をしゃくった。

 視線の先では、荷駄番の鍋がようやく火にかかっている。


「後ろの連中まで勘定に入れたのは、よかった。あれ、忘れる奴多いから」


 少しだけ、胸の奥が熱くなった。

 火魔法より、たぶんよほど厄介な熱だ。


「それはどうも」

「でも次は、箱の上に乗る前にスタイラスしまっとくか、紐を付けること。落としてたら、ただの間抜けだから」

「台無しですね」

「そうだね」


 ひどい。

 ひどいが、たぶん照れ隠しでも何でもない。ただ本当にそう思っているだけだ。そこがいいのか悪いのか、まだよく分からない。


 配給幕の前には、麦のこぼれた跡と、踏み荒らされた土と、ようやく静かになった木鉢だけが残っていた。

 怒鳴り声は遠くへ散った。今は鍋の蓋が鳴る音と、遅い夕食にありついた兵の噛む音の方が強い。


 レオンは板を抱え直した。

 今夜、場を一度だけ止めたのは事実だ。だが、誰かを感動させたわけではない。英雄になったわけでもない。食わせただけだ。帳面を生かしただけだ。


 それで十分だ、と言い切れるほど立派でもない。

 だが、配給幕の前では、たぶんそれがいちばん意味があることなんだろうなぁ。


 少なくとも、怒鳴り声よりは。


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