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第12話 学者様、火をつけろ

「おい、学者様――火ぃ、なんとかつけられねえのか? 学者様は魔法使いだろ?」


 宿営地のあちこちで火打石が鳴っていた。

 鳴るばかりで、ちっとも種火に育たない。湿った草がくすぶり、細枝が黒く焦げて終わる。煙だけが低く流れ、鍋はいつまでたっても地べたの上だ。歩き通しで削られた上に、今度は飯まで遅い。兵の機嫌としては、控えめに言って底辺だった。


 声をかけてきたのは第三列の重装歩兵だった。

 兜を脱いで、脇に投げて、膝を立てて火種を睨んでいる。さっきまで槍を持っていた手で、いまは必死に火口を守っているのだから、戦というのは戦うだけではやっていけない効率の悪い仕事だ。


「魔法使いってほどじゃありません」

「じゃあ、火をつけられる程度の何かだ」

「雑ですね」

「腹が減ってんだよ」


 それは実に正しい。

 これでも中流程度の市民のはずなんだけど、まぁ、なぜかここにいる連中はあまり上品じゃない。嫌だなと思いつつ、もう慣れてもきた。


 レオンは火口箱を受け取ってしゃがみこんだ。

 中を覗く。火口はまだ死んでいない。けれど元気でもない。細枝も悪い。細いくせに湿っている。誰だ、そこらの草を引っこ抜いて放り込めば何とかなると思ったのは。いや、たぶん、そう思うくらい疲れているのだ。別段今日初めて火をつけるわけでもないし、きっと乾いた、ちょうど良いものが、パッと見て無かったのだろう。それに人を責める前に、自分の指もだいぶ鈍い。


 その横で、鍋番の兵が鼻をすすった。


「さっきから三回だぞ」

「三回で諦めるには早いですね」

「四回目で何が変わる」

「置き方と、風除けと、たぶん人の根気です」


「言い方がいちいち気に食わねえな」

「疲れてるので、愛想まで回りません」


 兵が眉を上げた。

 言わなくていいことを言った自覚はある。だが、もう少し丁寧に振る舞う体力は、たぶん昼の街道に落としてきた。


「坊ちゃん」


 横からダフネの声がした。


「そこで喧嘩しない」

「してません。事実を――」

「腹減ってる相手を事実で責めても誰も得をしない」


 その通りだった。

 悔しいが、本当にその通りだ。


 ダフネはそれ以上言わず、レオンの横へ半歩ずれた。風上だ。外套の裾を少しだけ広げる。風除けにするつもりらしい。

 ああ、はいはい。こういう時だけ、やたら気が利く。


 レオンは火口を指で崩し、繊維の生きている部分を寄せた。

 細枝はさらに細いものだけを抜き、湿った草は思い切って捨てる。火を育てる時、量はたいてい敵だ。少なく、乾いていて、息が通る方がいい。


「何してる」

「生きてる部分だけ残してます」

「見てわかるのか」

「少なくとも、いま火打石を殴っているだけの人よりは」


 兵が鼻を鳴らした。

 怒る元気はあるらしい。それならまだ保つ。人間は、怒る元気があるうちは意外と倒れない。


 レオンは一度、目を閉じた。

 火魔法といっても、たいしたものではない。塔の試験場で見せれば、教師が困った顔で「工夫は認める」と言う類のしょぼさだ。派手な炎は出ない。距離も出ない。敵も焼けない。

 だが、火口の奥へ、ほんの少し熱を差し込むことだけならできる。


 塔で、何度もやった。

 半端な出力で馬鹿にされながら、その半端な出力でどうにか使い道を作ろうとしていた頃の、あまり思い出したくない訓練だ。


「どいてください。吹きすぎると死にます」

「おう」


 鍋番の兵が顔を離す。

 ダフネが無言で、さらに風を切る位置に移った。


 レオンは火口に手をかざした。

 細く。狭く。逃がさず。

 指先の内側へ熱が集まり、じわりと痺れが出る。いつものことだ。痛いほどではないが、気持ちのいいものでもない。


 最初は何も起きなかった。

 いや、起きている。ほんのわずかに、繊維の色が変わる。黒に寄る前の、赤茶けた変化。鼻の奥に、焦げる一歩手前の匂いが入る。


「……今です。弱く吹いてください」


 兵が半信半疑のまま息を落とした。

 弱い。だが、弱くていい。


 火口の奥が、赤く光った。


「あ」


 別の兵が小さく声を漏らす。

 レオンは集中を切らしかけて、慌てて熱を保つ。ここで消えると格好が悪い。いや、格好の問題ではない。今夜の飯の問題だ。


「細枝。いちばん細いのから」

「これか」

「それです。押し込まないで、寄せるだけ」


 鍋番が枝を寄せる。

 赤い点が一度だけ沈み、それから、かすかな煙が立った。


 煙。

 それから、ようやく火。


 枝の先に、小さな橙がともる。

 頼りない。本当に頼りない。これを見て「すげえ」と言うのは、塔の教師ならたぶん失礼だと思うだろう。だが鍋は、教師の評価票では煮えない。


「ついたぞ」

「鍋、鍋!」

「おい、そっちの細枝まだ残ってるか!」


 声が急に生き返った。

 火がひとつつくだけで、人はこんなに機嫌を戻す。単純で助かる。単純だから助かるのかもしれない。


 鍋番の兵が、今度は少しだけ真面目な顔でレオンを見た。


「助かった」

「それはどうも」

「なんだい、偉そうだな」

「疲れてるので、愛想の在庫が尽きました」


 兵は今度はニッと笑ってくれた。


「俺はフィリノスだ。覚えとけ、学者様」

「レオンです。学者様はやめてください」

「じゃあ帳簿役」

「もっと悪いですね」

「どっちがいい呼び方かは知らん、どうせ学なんてねぇし、この鎧だって実家の手切金みたいなもんだ。ただ、学者だろうと帳簿役だろうと、火はつけてくれた、それで俺達には十分だ」


 その言い方に、レオンは少しだけ返事に詰まった。

 火をつけた。たしかにそうだ。大したことではない。だが、大したことではないからこそ、現場では役に立つ。そういうのがいちばん厄介だ。否定しにくい。


 後ろから、テオドルスが駆けてきた。顔色は悪いままだが、さっきより目が死んでいない。


「主計殿! 第五列でも火が起きません!」

「火口を持って行ってください。火そのものを分けた方が早い。いちばん乾いた枝だけ選んで、湿った草は捨てるように」

「は、はい!」


 言われたことが分かれば、テオドルスは早い。

 疲れていても、指示が形になると動ける。記録係としては上出来だ。たぶん本人は今、褒められても倒れるだけだろうが。


 レオンが立ち上がろうとして、足にきた。

 膝が笑いかける。あぶない。今日一日で、自分の身体がいかに信用ならないかを嫌というほど知ったばかりだ。


 その時、ダフネが火のそばへ半歩ずれた。

 石の上にちょうど一人分、座れる場所ができる。


「座れば」

「命令ですか」

「提案だってば、早くしないと、別の誰かが座る」


 レオンは素直に座った。

 火の熱は弱い。だが、足先に届く。届くだけでありがたいと思ってしまうあたり、今日の行軍はだいぶひどかった。


 ダフネは鍋を見たまま言った。


「使えるじゃん」

「その言い方は、褒めていませんね」

「褒めてないよ。馬鹿にしてもいない。使えるって言ってるだけ」

「ひどい」

「でも、欲しがってるの、たぶん最初からそっちでしょ」


 返事に困った。

 名誉が欲しくないわけではない。派手に評価されたい気持ちがないわけでもない。ある。かなりある。

 ただ、目の前で火がつき、鍋が動き、人の悪態が少し減るのを見ると、「使える」の一言が思ったより深く刺さる。


 嫌な言葉だ。

 でも、嫌いきれない。


 少し離れた場所で、ミュロンが別の火口箱を蹴って寄越していた。


「おい、そっちの火、死なすな。起こし直すのがいちばん面倒だ」

「分かってるよ」

「分かってねえ顔してるから言ってんだよ」


 余裕が戻ると嫌味が増える。

 この人は本当に分かりやすい。


 その横で、バウコスが駄獣の鼻先を撫でながらぼそりと言った。


「これで湯が全員に回せるな」

「人にですか」

「わるいが獣にもくれ。少しでいい。脚と口を拭く。体も揉んでやらにゃならん。これで明日の気力の減りが違う」


 レオンはそちらを見た。

 なるほど。火は飯だけではない。湯。脚拭き。湿った紐。火口の乾き。朝の支度。

 小さい火でも、触れるものが多い。


 頭の中に勝手に項目が増えていく。

 薪。火口。鍋番。湯の順。火を絶やさない列。

 疲れているのに、こういう時だけ頭が起きる。実に嫌な性分だ。


「主計殿!」


 今度は別の書記が駆けてきた。テオドルスではない、若いがもう少し骨のある顔だ。


「第六列で配給袋の紐が切れて、麦がこぼれています!」

「量は」

「半袋ほど!」

「火のそばへ持っていかないでください。爆ぜるか火事になる。あと直置きもやめてください。湿った土を吸うと駄目になります。布を下に敷いて拾わせて」


「はい!」


「あ~、あと、最悪なのは、直置きして湿らせたからって火のそばに持っていって乾かすって奴なんで、それだけは絶対にさせないように。万が一湿らせてたら明日、荷馬車で天日で……」


 言いながら、レオンは立ち上がった。

 ちょっとくどかったかなと思いながら、まぁ良いかと思った。多分、いま、気力だけ戻ってる感じだ。褒められたからかな…単純だなぁ、われながら。


 ああ、しかしやっぱり終わらない。火がついたから全部解決、などという都合のいい話ではなかった。


 だが、ひとつ火がついたことで、次の面倒へ進める。

 それで十分だ。愚直に愚直に…それでいい。疲れてる時は、下手に変なこと思いついても、絶対に失敗する。こういう時は、いつも通りやるに限る、たぶん。


 レオンは火口箱を抱え直した。

 指先は少し痺れている。目の奥も重い。足は最悪だ。腹も減った。帰りたい気持ちは昼より増した。実に結構。何一つ楽になっていない。


 それでも、火は起きた。


 宿営地のあちこちで、ようやく小さな炎がつながり始める。

 鍋の蓋が鳴り、誰かが悪態をつき、誰かが笑い、駄獣が鼻を鳴らす。夜気はまだ冷たいが、さっきまでより少しだけ、人の居場所になっていた。


 そして、そうなると次にやってくる厄介ごとも見えてくる。


 配給だ。

 仮説と検証、いや単なる経験か。

 まったくフィロンは好き勝手言ってくれる。ロゴス(理屈)の面で、自分より優秀なのが、また腹が立つ。


 火のついた列と、まだついていない列。

 鍋が先にかかった列と、麦を抱えたまま待たされている列。

 水の順、塩の順、肉の切り分け、鍋を持つ手の順。


 案の定、最初の怒鳴り声はすぐに上がった。


「おい、そっちだけもう煮てんじゃねえか!」

「こっちはまだ火もねえんだよ!」

「順番守れ、馬鹿!」

「腹が減ってんだ、そんなもん守れるか!」


 鍋の匂いが立つと、人は待てなくなる。

 そして待てなくなった人間は、だいたい数を数えない。最悪だ……最悪だけど、まあ、いつものことだ。これも経験から学んだ。なかなかフィロンのように先を読むところには行けそうもない。


 レオンはそちらへ顔を向けた。

 ミュロンがもう動いている。ダフネも立った。テオドルスは半泣きの顔で控え板を抱え直している。

 ああ、来た。来ましたね。次の地獄が。


 火のそばへ寄せられた麦袋を見て、レオンはもう数え始めていた。


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