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第11話 行軍初日で帰りたくなる

 行軍は、歩くだけだと思っていた。


 甘かった。

 歩くだけで、こんなにいろいろ壊れるとは思っていなかった。モノもヒトも秩序も本当にどんどん壊れていく。


 朝、サルディスの屋根がまだ見えているうちに、フィロンは当然みたいな顔で言った。


「夕刻までに出せ」

「何をです?」

「数字の傾きだ、水袋の損耗、獣の脱落、車輪の不具合、人の足の遅れ。今日のうちに傾向を掴んで報告しろ」

「初日ですよ」

「だからだ。初日に何が壊れるか見て、仮説を検証しろ。それが出来なければ、二日目から先は運に祈るだけになる」


 ひどいことを、ずいぶん静かな声で言う。

 この人は本当に、他人を自分の帳場の備品ぐらいに思っている節がある。

 というか、仮説なんかたててないよ…もう…


「貴様は歩けるな」

「歩けます」

「なら数えろ。歩けないなら、いま言え、荷物として運ばせる」

「……歩けます」


 言ってしまった。

 若さというのは罪だというのかな、むだな見栄を張ってしまった。しかも、言った直後にもう後悔してる。


 レオンは蝋板を抱え直し、動き始めた列を見た。

 はぁ、スタイラス(鉄筆)が行軍中にどっかにいかなきゃいいけど……替えなんかないし。葦でも良いんだけど、やはり描きやすさが違う。こういう地味な書きごごちとかって大事だと思うんだよね。塔にもこだわる人と全然拘らない人がいたから、どっちが正解かわからないけど…


 東へ伸びる街道は、町を離れた途端に白く乾いて見えた。左右には浅い水筋と低い草、遠くまで遮るもののない平地。隠せない地形だ。列の乱れも、人の疲れた顔も、荷車が一台もたついただけでも、すぐに全体へ広がっていく。


 町の近くでは、行軍はまだ隊列としての顔を保っていた。

 兵は槍を立てて歩き、重装歩兵は盾を背にきちんと間を取り、軽装歩兵は前後左右に散って様子を見ている。荷駄列も今のところは整っていた。車輪は軋むが、許せる軋みだ。駄獣は臭いが、死にそうな臭いではない…慣れたな…慣れたくなかったけど。


 問題は、その「今のところ」が、半刻も保たなかったことだ。


 まず、水袋に問題が起き出した。


 革が擦れる。紐が食い込む。吊り方の悪いものは、歩いているだけで口元から、底から、水を滲ませる。

 次に、獣が汗を吹いた。荷が重いわけではない。重いのだが、それだけではない。揺れだ。止まって積んだ荷と、動きながら擦れ続ける荷では、獣の背にかかる疲れ方が違う。まぁ、積み方が悪いということらしい、あれ?縛り方だったかな?ようは、ちゃんと考えて積んで固定しないとダメってことらしい。


「坊ちゃん、左寄るな」


 バウコスが、前を見たまま言った。


「車輪に巻かれる。この積荷に巻き込まれると、人間なんざ簡単に潰れちまうぞ」

「そんな近くに寄っていません」

「寄ってる。変な足の歩幅になってる」


 言い方が腹立たしい。そんなにフラフラしてはいないと思う。思うけど、いうことには従うことにした。悔しい。

 レオンは一歩外へ寄った。たったそれだけで、乾いた土が脛まで跳ねる。


「車輪の様子を見たいんですが」

「見たきゃ止まってる時に見ろ。動いてる時は、こいつが何を嫌がってるかを見ろ」


 バウコスは先頭近くの駄獣の首をしゃくった。


「耳が後ろ向いてるだろ」

「はい」

「背が擦れてる。昼までに一回締め直しだ。帳面に書いとけ」


 なるほど。

 現物の声は、いつも腹立たしいが助かる。

 あ、つまりこれも仮説と検証か……と唐突にフィロンに言われたことが腹落ちする。

 いや、でもこれ、熟練の人じゃないと無理じゃないかなぁ。仮説と検証というより、職人の勘的な…?


 ぶつぶつと考えを呟きながらレオンは蝋板にスタイラスで印をつけた。

 その横でテオドルスや他の書記が必死の顔でついてくる。まだ午前中なのに、もうしんどそうな顔をしている。


「主計殿、これ全部、夕方までですか」

「そうです」

「僕、昼までに死ぬかもしれません」

「安心してください。僕もたぶん同じです」


 慰めになっていないことは、知っている。


 列は進む。

 進むだけで、少しずつ秩序が崩れる。


 重装歩兵はまだ元気だった。槍と盾を持つのにうんざりしている顔はしているが、足並みそのものは揃っている。

 あれは疲労ではなく、面倒に対する顔だ。ちなみに鎧は体にピッタリ合っていると意外と重荷にならないのだとか。

 でも、青銅じゃない鎧の人もいるみたいでそちらの着心地は聞いてない。


 軽装歩兵の方が、崩れが早く見えた。走って前へ出て、戻って、また横へ散る。歩数が違う。荷駄の流れに目詰まりがあれば真っ先に呼ばれ、水場が怪しければ先に見に行く。斥候とかいうヤツらしい。キビキビ動いてるので、遠目には楽そうに見えて、たぶん全然楽ではない。

 鎧はつけてない人が殆ど。剣か短い槍か、弓…そんな感じ。


 ミュロンがその間を縫うように歩いていた。

 怒鳴る時もあるが、本当に危ない時ほど声が低い。


「間、空けるな、詰めろ」

「獣の頭上げさせろ、そいつ、隣を噛むつもりだぞ」

「おい、そこの槍。荷車に端っこ乗っけんな、車輪に巻き込まれてへし折れるぞ、この馬鹿」


 馬鹿、で済ませているうちはまだ余裕がある。

 次はこぶしが出る。加減してくれる時は良いんだけど、そうじゃないとけが人が出る。

 これも前に学んだ。見た時はびっくりした。殴られるまでいうことを聞かないヒトも、殴るヒトも塔には居なかったから。なんというか学びたくないことばかり増える。


 昼前には、もう列が長く伸びていた。


 前の兵はまだ歩いているのに、後ろの荷車は止まる。

 止まったかと思うと、急に前が空いて慌てて動く。こういう細かい伸び縮みや詰まりがいちばん獣に悪い。人の足にも悪い。肩にも腰にも悪い。つまり全部に悪い。ぼくの足に特にわるい。


「主計殿!」


 テオドルスが半分泣き声で札を差し出した。


「第三列で水袋ひとつ紐切れ、第二荷車で車輪留めの縄ゆるみ、軽装の一隊で二人、足を庇って遅れ気味です」

「確認は誰が?」

「ダフネ殿と、前の列の御者です」

「了解、いいね。記録して」

 と記録係の書記に伝える。

 あとで、隊長たちと認識合わせをしないと…どうも隊列というのは、移動するだけで人が脱落するらしい。


 書く。数える。追う。

 それだけなのに、どうしてこんなに息が上がるのか。


 レオンは、列の中ほどから前へ出て、また後ろへ戻った。

 その途中で、足の裏がもう嫌な感じになってきた。熱い。いやだな、これ。知っている。この手の熱さは、あとで水ぶくれになるやつだ。


「顔色悪いよ、坊ちゃん」


 いつの間にか、ダフネが横にいた。

 いつもそうだ。いる必要がある位置に、気づくといる。


「あなたの物言いは、だいたい気分が良くありません」

「物言いは仕方がない、ほんとのことだから。気分よく歩けるなら、まだ大丈夫だね」

「歩けているうちは、です」


 ダフネは答えず、レオンの肩から蝋板をひょいと奪って一度だけ見た。


「前後、両方追ってるの」

「そうしないと全体が見えません」

「そのやり方だと、先にあんたが潰れる」


 言い返せなかった。

 まさに、いまその通りだからだ。


 その時、前で怒声が上がった。


「止めるなって言ってんだろ!」


 カレスの声だ。

 見ると、重装歩兵の列が前の荷車に追いつきかけている。御者が獣を宥めるためにわずかに止めただけで、後ろの兵が詰まり、そのさらに後ろが盾をぶつけて苛立っている。


「荷駄が遅えんだよ!」

「遅くしてんのは、お前らの槍だろうが!」


 言い返したのは御者の一人だった。

 まぁ、ちょいちょい、槍やらを勝手に乗ってけたりしてるので、嘘ではない。

 なにより、ちょっかいかけられるのを駄獣が嫌がってる。

 正論ぽい部分もあるけど…正直言えば、いい根性をしているなという感想。たぶん今日中に殴られるな。

 重装歩兵連中は、中流の出が多いので、周りを一段下に見てる。舐められたと思うと、手が出るのも珍しくない。カレスが、ぼくに手を出してこないのは、塔の出身ってことで、どこと繋がってるかわからないからだろう。まあ、そんな繋がりがあれば、ここには居ないわけだけど、その勘違いはありがたく受け取っておこう。


 ミュロンがすぐに間へ入った。


「カレス、前詰めるな」

「荷車が止まるからだろうが」

「だったら止まった時に盾ぶつけるな。獣が暴れる」


「俺たちに荷駄へ合わせろってのか」

「ああ。敵と槍を合わせてる最中でもなけりゃそうしろ。じゃなきゃ却って全体が遅くなる」


 その一言で、カレスが嫌そうに口を歪めた。

 でも引いた。完全には納得していない顔だが、理屈は分かったらしい。


 レオンは、そのやり取りを見てようやく分かった。

 行軍は、速い方に合わせれば乱れが生じる。遅い方に合わせても、別の場所で無理が出て来る。全部を同時に持たせるには、人と獣と荷車の進む速度、トラブルの頻度、それこそ車輪の壊れ方までを、先に知っておかないといけない。


 そして、もうひとつ分かった。

 それを一人で追うのは無理だ。


「テオドルス」

「は、はい」

「前列へ行ってください。三列ごとに、水袋の漏れ、獣の足、歩けない者の数だけ拾ってきてください。細かい話は要りません。数だけです」

「僕が前へ?」

「そうです。僕は中ほどと後ろを見ます」


「でも、もし前で怒鳴られたら」

「怒鳴られたら、主計殿の指示ですと言って逃げてください」

「それ、守ってくれませんよね」

「正しい見解ですね」


 ダフネが横から口を挟んだ。


「私が前まで付いていく」

「助かります」

「感謝はあと」


 それだけで二人は前へ出た。

 短い。本当に短い。だが、必要な言葉しか置かないのは有難い。


 レオンは列の中ほどへ戻り、今度は前後を走らないことにした。

 その代わり、御者と半隊長のすぐ下あたりの取りまとめ役から数字だけを拾う。


「漏れは?」

「水袋二つ」

「獣は?」

「まだゼロだが、一頭怪しい」

「足を引く兵は?」

「三。いや四だ」


 雑だ。雑だが、ゼロよりましだ。

 綺麗な帳面はあとで作れる。まず必要なのは、今日どこが先に死ぬかの見当だった。


 その見当は、夕方までにだいたい揃った。


 水袋は、思ったより先に減る。

 裂けるというより、滲む。口元と吊り紐の擦れで、少しずつ。止まって数えれば大したことのない量でも、列全体では無視できない。

 獣は、歩けなくなる前に顔へ出る。耳、息、泡、首の振り方。バウコスの言うとおりだった。

 人は――人は、足に出る。若さも誇りも関係ない。最初に来るのは足だ。


 そして、レオン自身の足も、きっちりやられてしまったを


 夕刻、宿営予定地へ近づくころには、足裏が痛さを通り越して鈍くなっていた。脛は棒みたいで、腰は笑う前の段階を越えて、ただ重い。喉も乾く。口の中が土っぽい。


「坊ちゃん」


 バウコスが顎をしゃくった。


「乗れ」

「何にです」

「空きかけの荷車にだよ。顔が死人だ」


「歩けます」

「午前にも聞いた。そん時ぁ、強がりだったが、いまは嘘だってツラしてる」


 言い返そうとして、足がもつれた。

 最悪だ。最悪の形で証明された。


 バウコスは何も言わず、レオンの腕を掴んで荷車の縁へ押し上げた。

 辱めだ。完璧な辱めだ。だが、もう自力で降りる気力もない。


「主計殿、大丈夫ですか」


 前から戻ってきたテオドルスの方が、もっとひどい顔をしていた。

 お前も乗れ、と言いかけてやめた。たぶん二人とも乗ると、今度は獣が可哀想だ。


「大丈夫ではありませんが、まだ死んでいません」

「僕もです」

「では働いてください」


 会話が全部やせ細っている。

 行軍というのは、知性まで削るらしい。いや、違うな。知性を使うための体力を先に持っていくのか。


 宿営地は、街道脇の浅い水筋のそばだった。

 水はある。だが、気前よく使えるほどではない。木もない。いや、まったくないわけではないが、火にするには細すぎる枝と、湿った草ばかりだ。


 列が止まると、今度は別の地獄が始まった。


 荷を降ろす。獣をほどく。水を回す。鍋を出す。火種を探す。

 歩くだけで終わりではない。歩いた後の方が、むしろ大変だ。


「水袋、先にこっち!」

「火口箱どこ行った!」

「獣を川っぺりへ近づけすぎるな!」

「誰だ、鍋を麦袋の下に突っ込んだ馬鹿!」


 声が四方から飛ぶ。

 座り込みたい。できれば今すぐ横になりたい。だが、帳面は待ってくれない。


 レオンは荷車の縁から降り、足の裏の痛みに一瞬だけ息を止めた。

 だめだ。明日もこれをやるのか。正気か。いや、軍なのだから正気ではないのかもしれない。


「主計殿、控えです」


 テオドルスが、震える手で木札を差し出した。


 今日の損耗。

 水袋、小さな破損七。紐切れ三。

 獣、歩様悪化五、うち要警戒二。

 足の遅れ、人員十一。重い脱落はまだなし。

 車輪留め、締め直し四。車軸そのものの損傷はなし。


 初日でこれだ。

 帳面の数字として見れば小さい。だが、初日でこれなら、十日後には小さくない。


「顔がまた悪いよ」


 ダフネだった。

 片手に細い枝束、もう片方に火口箱を持っている。


「もともと良くありません」

「開き直る余裕はあるんだ」

「その程度は残しておかないと、やっていられません」


 ダフネは返事の代わりに、枝束をレオンの膝へ落とした。


「やって」

「何をです」

「火」


 レオンは枝を見た。

 細い。湿っている。嫌な予感しかしない。


 その横で、誰かが火打石を鳴らした。

 散った火花は、乾ききっていない草の上で弱く光って、すぐ消えた。


 もう一度。

 また消える。


 風は強くない。なのに、起きない。

 疲れて手が鈍っている。集めた枝も悪い。草も湿っている。水を使う方が先で、皆、火の支度が後手に回ったのだ。


 あちこちで、小さな悪態が上がった。


「おい、まだか」

「煙だけじゃねえか」

「鍋が置けねえだろ」


 ダフネは何も言わず、火口箱をレオンの手に押しつけた。

 断る言葉を考えるより先に、背後で苛立った声が飛んだ。


「おい、学者様――火ぃ、なんとかつけられねえのか?学者様は魔法使いだろ?」


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