第10話 帳簿の向こうにいる王弟
翌朝の荷駄幕は、妙に几帳面だった。
いつもなら、誰かが紐を一本なくし、誰かが袋を蹴り、誰かが自分の荷だけ先に積めと騒ぐ。そういう小さな雑さで朝が始まる。
なのに今日は違った。紐は結び直され、袋は揃えられ、車輪には油まで差されている。やればできるのか、お前ら。いや、やる相手が違うだけか。
「レオン坊ちゃん、あ、
監補殿、札の色、揃えました」
テオドルスが半分泣きそうな顔で木札の束を差し出した。昨日の夜、遅くまで控えを書き直していたせいで目が赤い。
「よく生きてましたね」
「死ぬかと思いました」
「その顔で言われると、冗談に聞こえません」
レオンは束を受け取り、列を見渡した。
東へ伸びる街道の手前に、各隊が順番に並ばされている。兵は兵で鎧紐を締め直し、槍の穂先を布で拭き、盾の縁の欠けまで気にしていた。荷駄列まで見栄えを整えているのは、機能のためではない。見せるためだ。
少し離れた場所で、重装歩兵たちが列を作っていた。カレスが部下の肩を叩いて並びを直しながら、朝からよく通る声で怒鳴っている。
「盾を寝かすな! どうせ見られるなら、見栄えよくしろ!」
昨日は大麦袋に手を突っ込もうとしていた男が、今日は見栄えを気にしている。兵というのは忙しい。
その横を、軽装歩兵が早足で抜けていく。革紐、槍束、水袋、予備の石袋。見えないところを支える荷ばかりだ。ミュロンがその後ろを歩き、列の間に空いた隙間を短い一言で潰していく。
「詰めろ」
「空けすぎだ」
「そこ、獣の頭向き逆だ。噛まれたいのか」
本当に危ない時ほど短い。今日は危ないのではなく、面倒なのだろう。だから嫌味が少し多い。
「主計殿」
低くも高くもない、やたらと耳に残る声がした。
振り向くと、ミトリダテスが立っていた。王弟側の連絡将校。きちんと整えた髭、皺ひとつない衣、朝から腹が立つくらい滑らかな顔だ。
「本日の整列について、殿下のご意向をお伝えします」
「わたしのようなものでは無くて、だれか然るべきものに…」
「そちらにはもう伝えました。あなたには、ついでです。補給ではずいぶん骨折りをいただいたそうなので…」
ミトリダテスは微笑んだ。
まるで誉められたみたいな笑い方だ。そういうところだぞ、みんなに気持ち悪がられているところは。
あと、コイツに覚えられてるのがさらに薄気味悪い。会話どころが、顔合わせたのだって殆どないぞ。
「ご安心を。難しいことではありません。隊列を美しく、荷駄は乱れなく、出立は滞りなく。諸将のお働きを、殿下ご自身がご覧になります」
美しく。
つまり、見苦しい詰まり方をするな、ということだ。荷駄はほっとくとすぐ渋滞をするし、人が増え、見物が増え、命令が増えれば、たいがい難易度が高い。 そして、貴人の吐く美しい言葉というのは便利だ。面倒を薄布で包んで持ってくる。
「お尋ねするのは筋違いかもしれませんが兵站監はなんと?」
「ああ、いつも通りです。ギリシア人傭兵団の中核部隊で辣腕を振るう、かの人物相応しい反応でしたよ」
では、これは…催促だ。
王弟側の人間は、このあたりの手際が妙にいい。誰に責任があるかをはっきり言わず、でも遅れたら誰が悪いかは皆に分かる形で話す。ずるい。かなり賢い。だから余計に嫌だ。
ミトリダテスが去ると、入れ違いにフィロンが来た。
「聞いたな」
「ええ。“美しく”だそうです」
「どう解釈した?」
「詰まるな、遅れるな、見苦しい真似をするな、です」
「それだけわかってれば十分だ。依頼人の指示を完遂せよ」
いつもどおりである。
優しさというものをこの人に期待したことはないが、たまには遠回しの誉め言葉でも混ぜてくれていいのではないか。いや、混ぜられたら気味が悪いか。
フィロンは列の先を顎で示した。
「プロクセノス隊の荷駄を二列に割れ。兵列の後ろに一枚で長く引くな」
「理由を伺っても」
「閲兵の後、そのまま出る。街道に噛めば終わる」
それだけで十分だった。
レオンは列を見た。確かに今の並べ方では、見栄えはいいが、いざ出る時に重装歩兵の後尾と荷車の先頭が同じ場所へ殺到する。朝の見世物としては上出来でも、行軍の始まりとしては最低だ。
「テオドルス、札を赤と黒で分けてください。赤は先発、黒は後ろ」
「は、はい」
「バウコス!」
荷車の下を覗き込んでいた荷駄頭が、顔も上げずに返事をした。
「聞こえてる」
「前の六台を右へ。残りは水袋車を挟んで左へ振ります。間に人を通せる幅を残したい」
「見栄えは悪くなるぞ」
「出る時に詰まるよりましです」
「そう言うと思った」
バウコスは立ち上がり、御者たちへ怒鳴った。
怒鳴り声の質が違う。怒っているのではなく、動かすための声だ。こういう人間の声は助かる。
すぐそばで、ダフネが勝手に見物人を追い払っていた。
見物人といっても、他隊の兵や従軍商人、それに町から出てきた子どもまで混じっている。誰かが王弟を見ると聞けば、蟻みたいに人が湧く。
「そこ、下がれ。車輪に潰されたいの」
「ちょっと見るだけだって」
「じゃあ潰されるのもちょっとで済むね」
辛口だが、辛辣だが、それだけに理解が早い。いや、相手方のりかいだけと。
物理的にどける前に、言葉で半分どかせるのは才能だと思う。
列が二つに割れたところで、レオンはようやく息をついた。
ぎりぎり間に合う。たぶん。間に合ってくれ。こういう時の“たぶん”は、だいたい人を殴る準備をしている。
その時、前方で角笛が短く鳴った。
ざわめきが、すっと沈んだ。
面白いくらいだった。
さっきまで口を動かしていた兵が、同じ顔のまま黙る。肩の位置が揃う。駄獣まで空気を読むはずもないのに、人の手綱が静かになるせいで、列全体がひとつの生き物みたいに落ち着く。
王弟が来る。
レオンは、思わず喉を飲み込んだ。
昨日、遠目には見た。今日はもう少し近い。近いといっても、あくまで遠いままだが、それでも昨日とは違う。
先に見えたのは、槍だった。
その後ろに騎馬の列。濃い色の外套。朝の光を拾う金具。派手すぎるわけではない。だが、目が勝手にそちらへ引かれる。周りの者が先に姿勢を変えるからだ。場の中心が、人の目線で先に分かる。
キュロスは、列の前をゆっくり進んだ。
若い。
それが最初の印象だった。王弟と聞いて勝手に思い描いていた、重たく老いた大人物ではない。若く、よく通る背筋で馬に乗っている。けれど軽くは見えない。
若さがそのまま勢いになっている顔だ、とレオンは思った。たぶん、ああいう顔の人間が、自分から前に出るのだろう。誰かに押されるのではなく。
その脇にミトリダテスが付き従い、必要な時だけ一歩前へ出た。
プロクセノスもいた。将軍たちの列の中で、こちらに近いようで、まるで別の場所の人間みたいに見える。家の縁で繋がった相手のはずなのに、いざこうして王弟の近くに立つと、遠い。ひどく遠い。
キュロスが何か言った。
声そのものまでは届かない。だが、プロクセノスが短く答え、ミトリダテスが後ろへ言葉を流す。
「殿下は、ボイオティア勢の整列を嘉しておられます。よく整っている、と」
その言葉だけで、前列の重装歩兵たちの肩が少し上がった。
笑いをこらえた顔が何人かいる。単純だ。いや、単純だから動くのか。
キュロスはさらに視線を巡らせた。兵列だけではない。荷駄列にも、一度、目が来た。
本当に一瞬だった。だが、レオンは思わず背筋を伸ばした。
ばかばかしい。
こちらは帳簿役だ。槍を揃えて立つ兵でもなければ、将軍でもない。見られたところで何がある。なのに、見られたと思っただけで、札の束を持つ手に力が入る。
嫌な感じだった。
恐い、だけではない。少し、嬉しい。いや、違う。嬉しいのではなく、巨大な流れの中に自分も数えられた気がしただけだ。そういうのがいちばん危ない。
「顔、上げすぎ」
横でダフネがぼそりと言った。
「上げてません」
「上がってる」
「見えている範囲を確認していただけです」
「やめな、恥ずかしいよ。
都会に見惚れてる人みたいだよ」
ひどい言い方だ。だいたい僕の出身都市はそれほど田舎ではない。
その時、列の前方で小さなもめ事が起きた。
右に振ったはずの荷車の一台が、御者の勘違いで兵列の後ろへ戻りかけている。あれを許すと、後ろの水袋車も巻き込まれて騒ぎになる。
「まずい」
レオンは駆けた。駆けるといっても、学者崩れの駆け足なので見栄えは悪い。今はどうでもいい。
「そっちは違う! 右です、右! 赤札は先発列、黒札は後ろ!」
御者は半分しか聞いていない顔で、獣の頭を引き戻そうとしていた。駄獣が嫌がって首を振る。後ろで別の御者が怒鳴る。ああもう、そういうことか、駄獣の機嫌を損ねたのか。
レオンが駄獣たちの方にに手を伸ばして向きを示そうとした、その前にバウコスが来た。
「手ぇ出すな、噛まれる」
バウコスは獣の鼻面を掌で押し、別の手で轡をひねった。
駄獣が短く嘶き、ようやく向きを変える。すぐ後ろからミュロンが来ていた、兵を二人ほど連れて。一人は大柄で一人は小柄だったけど、どちらも如才なさげな雰囲気だった。なるほど、気の利く部下を連れてきたのか。
「おまえら、荷を押せ。喚くな、押せ」
二人が肩をかける。車が半歩ずれ、水袋車の先が空く。
空いたところへダフネが見物人を蹴散らしながら走り込み、子どもを一人引っつかんで脇へ放り出した。泣くな。生きてるだけましだ。
間に合った。
角笛がもう一度鳴る。
今度は、動き出しの合図だった。
荷駄列は、ぎりぎり崩れなかった。兵列の後ろへ潜り込むこともなく、二手に割ったまま街道へ流れ込む。水袋車も止まらない。獣も暴れない。完璧ではないが、今日の現場としては十分すぎる。
「主計殿」
振り向くと、プロクセノスだった。
近い。
思ったより、ずっと近い。馬上から見下ろされるだけなのに、さっきまで遠景だった人間が急に輪郭を持つ。
「荷駄、うまく流したな」
「失敗すると全員が困りますので」
「そうだな」
それだけだった。
それだけだが、プロクセノスは確かにレオンの顔を見て言った。そして次の瞬間には、もう別の将校へ向き直っている。
近いのに遠い。
遠いのに、ちゃんと同じ列の中にいる。嫌な距離感だった。たぶん、この先ずっとこうなのだろう。
街道の先で、キュロスの騎馬列が東へ動き出す。
それに引かれるように、将軍たちが進み、兵列が続き、荷駄が軋み、町のざわめきが後ろへ残る。
サルディスの空気が、背中側へ下がっていった。
レオンは木札の束を抱え直した。
帳簿の向こうにいた名前が、もう名前ではない。金を出し、言葉を選び、人を並ばせ、場の温度そのものを変える一人の男になってしまった。
まずいな、とレオンは思った。
ああいう人間を、ただ恐いだけで済ませられないのは、たぶんもっとまずい。
前の荷車が、石を踏んで大きく鳴った。
東へ向かう列が、ようやく本当に動き始めていた。




