第9話 兵は嘘をつくが、荷駄は嘘をつかない
朝の荷駄幕は、いつもよりうるさかった。
荷車はいつもどおり軋み、駄獣はいつもどおり臭く、積み上げた袋はいつもどおり黙っている。
なのに、そのまわりをうろつく兵と御者だけが、妙に事情通の顔をしていた。
「聞いたか。今度はピシディアの山の民を潰しに行くらしいぞ」
「いや、ティッサフェルネスの領分に手を出すんだろ」
「ミレトスの追放者どもを戻す、その護衛だって話だ」
「どうせ短い遠征だ。すぐ戻る」
「すぐ戻るなら、何で水袋と塩肉がこんなに増えてるんだよ」
最後の一言だけは、まぁなんというか、目を逸らしたい事実だった。
レオンは蝋板を片手に、荷車の列を見た。
短い討伐なら、干し麦と塩肉を少し厚めに積めば足りる。ところが今日、荷駄幕の前に並んでいるのは、それでは済まない荷ばかりだった。替えの車軸。車輪留め。釘箱。革の水袋。車を縛り直すための太い革紐。補修布。獣の飼葉。脂。どれも少しずつではない。嫌になるくらい、きっちり増えている。
討伐遠征にしては、多すぎる。
昨日はそう思った。
今日は、もう一歩先だった。多いだけではない。増え方に癖がある。
「主計殿、こっちの札です」
テオドルスが両手で木札の束を抱えて寄ってきた。まだ若い従者の顔は、朝からもうくたびれている。夜の控え写しで寝ていないのだろう。彼も帳面仕事は殴られない分だけ楽だと思っていた口だ。現場は、そういう甘い誤解をわりと手早く払拭できるという利点がある。
「どこの分ですか?」
「西の仮集積所から回された分です。干し麦十二袋、塩肉六、油壺三、車軸二、釘箱ひとつ」
「行き先は」
「ええと……全部、東の外営です」
また東。
レオンは札を受け取り、眉を寄せた。
サルディスの周りには、兵の集まり方に合わせて小さな集積所がいくつもできていた。港から来る荷、町で買い上げた荷、各隊が抱え込んだ荷。普通なら、別々の将軍の幕や別々の出立口へ散っていく。なのにここ数日、最後はどれも東の外営へ吸い込まれている。
海沿いのごたごたなら、西へも南へも散る。
内陸へ長く入るつもりの荷だけが、こんなふうにまとまる。
「おい、坊ちゃん」
低い声がして、振り向く前に獣臭さで相手がわかった。
バウコスだった。太い指で荷車の縁を叩く。
「この車、軽く見えるか」
「見えません」
「だろうな。で、中身は干し麦と水袋だ。近場行くだけなら、ここまで積まねえ」
「もって来た御者は何ていってました?」
「『山道に入るから念のため』だとよ」
バウコスは鼻で笑った。
「山道に入る備えなら、先に増えるのは蹄を守る革当てと、車を縛り直す革紐だ。こいつは近場に行くときの荷じゃねえ。もっと先まで行くときの備えだ」
現物の声。
本当に嫌になるくらい頼もしい。
その時、荷駄幕の前で怒鳴り声が上がった。
「おい、そっちの大麦袋を寄越せ! うちの百人隊の分がまだだ!」
カレスだった。重装歩兵の百人隊長。朝から胸を張っていてうるさい男は、だいたい腹が減っている。彼の腹なのか、彼の部下の腹なのかは、わからないけど。
「順番だ、カレス」
「あぶねぇ場面で荷駄を守ってやってるのが誰だと思ってる。襲ってきた敵を押し返すのは俺たちだ。ここまで無事でいられるのも、俺たちのおかげだろうが!」
ミュロンがその前に立っていた。半歩だけ前へ。剣は抜かない。だが、あの位置取りをする時は面倒になる。
「守ってるって胸張るならよ、決まりごとも守んな。脳みそがたりてんならわかんだろ、後ろ行けうしろ」
「何だとてめえ、俺たちが能無しっていいてぇのか」
「たちじゃねぇ、てめぇだ。あと、能無しじゃねぇ、脳足りんだっつってんだ。てめぇに脳が足りてるなら、決まりを守れっつってんだよ」
険悪だ。実に朝らしい。
レオンは蝋板を閉じた。ここで大麦袋を一つ持っていかれると、後ろの数が全部ずれる。
ダフネが無言で横に来た。
視線は前。手は短槍の柄に軽く触れている。ああ、はいはい。護衛としては満点です。情緒という科目があれば、たぶん落第だが。
「テオドルス、木札を落とさないようにしっかり持ってきて下さいね?」
「は、はい」
レオンは揉め事の震源地へ歩み寄った。
「カレス隊長、その袋は当日配給の分ではありません」
「袋に書いてあるのか?」
「書いてあります。どの列へ回すかが」
「読めるのはお前だけだろうが」
「そうですね。ですから、いま説明しています」
カレスのこめかみがぴくりと動いた。
丁寧語でチクチクとやると、たまにこういう顔をする。便利だが、恨みも買う。実に便利ではない。
レオンは袋の口に括られた小札を持ち上げた。赤い染め紐の下に二重線、角には蝋印。
「これは東外営送りです。この一袋だけの話ではありません。車軸、革水袋、釘箱と同じ車列で送り出す分です」
「だから何だ」
「だから、ここで一袋抜かれると困るんです。兵糧だけ先に抜くと、東へ回す荷の数が合わなくなる。あとで止まるのは、あなたたちではなく荷駄隊の足が止まります。ほっとくと麦だけあって水とか薪が足りないとか、後続が脱落するとか……私には実戦経験がないのでわかりませんが、おそらく、隊全体の戦力を落とすことになる」
カレスは露骨に嫌そうな顔をした。
だが、意味は通ったらしい。
「大げさだな、紙の将校」
「大げさで済めば助かります。ただ、フィロン殿なり将軍閣下なりに聞かれたら正直に答えますよ?」
横からミュロンがぼそりと言った。
「兵は好きに吹くが、荷はうそをつかねぇだろうなぁ。
他の隊も前線で、メシがでねぇなんてなったら、揉めるんじゃねえのか?
おめぇもわかってんだろ?そんな近場に行く感じじゃねぇってこたぁよ」
それだけで、何人かの御者が目を伏せた。
たぶん皆、もう分かっているのだ。短い討伐ではない。なのに、自分の口からは言いたくないだけだ。
カレスは舌打ちし、袋から手を離した。
「次はうちを先に回せよ」
「配給順は帳面どおりです」
「お前、そのうち刺されるぞ」
「そうならないように、護衛が付いています」
ダフネが一歩だけ前へ出た。
それで終わった。カレスは鼻を鳴らし、部下を連れて引いた。勝ちというには小さすぎるが、順番は守れた。まずはそれでいい。
場が散ると、荷車の影から隻眼のシラクサがぬるりと現れた。どうしてこういう男は、騒ぎが終わる頃をきっちり見計らって出てくるのか。
「主計殿、面白くない話を持ってきた」
「値上がりですか」
「お、勘がいいな。車軸用の鉄輪、革袋、塩、干しいちじく、油、みんな上がった。町の商人がそろって同じ顔してやがる。『海沿いをちょいと出て戻る買い方じゃない』ってな」
「誰の名で買ってるかわかりますか」
「将軍の名で買う奴もいる。王弟付きの札を下げた奴もいる。現地の有力者の使いだって顔をする奴までいる」
シラクサは肩をすくめた。
「だが最後にゃ同じだ、東へ運ばれる。名目は違っても、荷の流れはひとつってわけだ」
それだ。
レオンは札を見た。
西の集積所。南の買い上げ分。港からの塩肉。都市駐屯から回された槍束。油壺。補修布。替えの車軸。
別々の口実で集めたものが、最後には同じ流れに乗って東へ向かう。
東へ。
もっと内陸へ。
サルディスを出て、しばらく町頼みの補充が利かなくなる距離へ。
短い討伐ではない。
ひとつの大きな遠征だ。
喉が渇いた。
帳面は、数を並べるためのものだと思っていた。
違う。数が合わない時だけではない。どこから来て、どこへ消えるかまで追えば、帳面は正直だ。
残念ながらわかりにくいけど。
相変わらず変動がわかりにくいのは変わっていない。
わかるのは増減と差分だけだ。
「坊ちゃん」
ダフネが革の水袋を押しつけてきた。
礼を言う前に、彼女は短く言った。
「顔に出てる」
「出しているつもりはありません」
「つもりで隠せるならいいけどね」
ひどい。
ひどいが、その通りではある。
レオンは水をひと口飲んだ。ぬるい。だが、張りついていた喉が少しほどけた。
その時、幕の奥からフィロンの声が飛んだ。
「レオン。控えを持って来い」
兵站監の声は、怒鳴っていないのに人を急がせる。
レオンは札と蝋板を抱えて幕へ入った。フィロンは机の前で立ったまま、別の書記官から報告を受けていた。目だけでレオンを呼ぶ。
「何を見た」
いきなりそこから来るのか。
やはり、この人は嫌いだ。たぶん今後もかなり嫌いだ。
「各隊の購入口実が一致していません。ピシディア討伐、ティッサフェルネスへの備え、ミレトスの追放者の帰還支援。言い分はばらばらです」
「結論を言え」
「荷の行き先は揃って同じです。東外営です。兵糧だけでなく、車軸、革水袋、釘箱、補修布まで同じです。短い討伐の備えではありません」
フィロンは蝋板に目を落とし、ほんの一拍だけ黙った。
その沈黙が、何より答えに近かった。
「よく見たな」
「ありがとうございます。あまり嬉しくはありませんが」
「褒めてはないからな、喜ぶ必要も嬉しがる必要もない」
フィロンは板を返した。
「控えは残せ。だが人に見せるな」
「理由を伺っても」
「伺うな。貴様はまだ、知ってよい立場ではない」
そう来たか。
知るに足るだけ働かせておいて、知ってよい立場ではない。実に立派な大人の理屈だ。だが、その言い方をするなら、見当違いではない。
レオンが板を抱え直した、その時だった。
幕の外でざわめきが走った。
怒号ではない。低く広がるざわめき。兵が列の外から身を伸ばす時の音だ。
「何です」
「出ろ。見えるなら見ておけ」
フィロンに促され、レオンは幕の端を押し上げた。
外営の道を、騎馬の一団がゆっくり進んでいた。
先頭の槍が朝の光を返し、その後ろで濃い色の外套が風に揺れる。周りの将校たちが少し距離を取っているせいで、真ん中の男だけが妙に静かに見えた。
遠い。
顔までは分からない。だが、それでも分かる。
まわりの空気の方が先に頭を下げている。
王弟キュロスだ。
レオンは思わず、自分の手を見た。
蝋板の角を握る指先が白くなっている。札と袋の流れを追っていただけなのに、その先にいるのが、あの男なのだ。
帳簿の向こうに、人がいる。
しかも、とびきり大きい人間が。
まずいな、とレオンは思った。
数字だけ見ている方が、ずっと安全だった。
外で角笛がひとつ鳴った。
東の外営へ、また荷車が動き出す。車輪の軋みが、朝のざわめきの下で長く続いた。




