第0話 明日、王が死ぬかもしれない夜(改稿)
はじめまして。
ここから、心ならずも傭兵団の実務を担うことになった、学者のなりそこないが、
遠い異国の地で生き残ろうともがく話が始まります。
夜の宿営地は、妙に静かだった。
静かなはずがないのに、とレオンは思った。目に見える範囲だけでも二万を超える人間と獣が……明日にはぶつかり合って死ぬかもしれない場所だ。
寝息も、咳も、どこかで燻る火の爆ぜる音もある。荷駄獣の鼻息も、革紐の軋みも、夜番の足音も消えてはいない。なのに静かだった。
音が少ないのではない。どの音も、みな声を潜めるように低いのだ。
レオン・カルディアスは水桶の縁に指をかけた。月明かりを受けた水面は黒く、揺れていない。飲用に回す分、傷口洗浄に回す分、炊事のために残した分。皮袋の数も、桶の数も、もう三度数えた。三度数えて変わらない数字を、四度目に見ても変わるはずがない。
それでも手が止まらない。
明日、誰かが死ぬ。
たぶん大勢死ぬ。
そして自分の役目は、そのあとで足りなくなる水の数を数えることだ。なんとも立派な人生だな、と内心で吐き捨てた。中央学都アテナイアの書庫で羊皮紙をめくるはずだった手が、いまは血を洗う水の残りを確かめている。
桶の横には、巻いた布が積んであった。裂いて包帯にするための麻布だ。これも足りない。負傷者が百で済むなら足りる。二百なら足りない。三百なら、もう途中からただの布切れだ。
縁起でもない計算ばかりが、頭の中でやけに滑らかに回る。
剣の振り方より、こういう数字の方がよほど馴染む。そこがまた腹立たしかった。明日の朝までに剣の達人になれるなら、いくらでもなる。だが現実は、そういう都合のいいものじゃない。自分の火魔法は松明にもならず、水魔法は半日かけて桶一杯がせいぜいだ。戦場で役に立つには、どちらもあまりに貧相だった。
「主計代理殿」
背後から声がして、レオンは肩を跳ねさせた。
振り向くと、ダフネがいた。軽装歩兵用の短槍を肩に預け、暗がりに半分溶けるように立っている。焚火の赤が届かないせいで、顔はよく見えない。ただ、じっとこちらを見ている気配だけは分かった。
「脅かさないでください」
「脅かしてない。あんたが勝手にビクッと跳ねた」
そう言って、彼女は水桶の並びを見た。
「また数えてたの」
「また、とは」
「四回目」
見られていたらしい。護衛役というのは、つくづく面倒だ。死なれないよう見張られる立場というのは、思っていた以上にみっともない。
レオンは桶から手を離し、できるだけ平静な声を作った。
「確認です。明日の分をとり崩すわけにはいきませんから」
「確認はさっき終わってた」
「終わっていても、夜のうちに誰かが勝手に使えば数が狂います」
「だから見張りがいる」
「見張りが喉の渇きを覚えないとでも?
それにいくさの前です、景気づけとか、その手のことを言い出す人だっているでしょう?」
少しくどくなったと思ったが、ダフネは気にした様子もなかった。洗い桶の横にしゃがみ込み、口の紐が緩んでいた皮袋を一つ取って、無言で締め直す。そうしてから立ち上がり、今度はレオンの横に来た。
慰める気はないらしい。代わりに、仕事の続きを一つ片づけた。
それが、妙に彼女らしかった。
「寝なよ」とダフネは言った。
「寝たら朝になります」
「寝なくても、朝にはなる。そして、使い物にならない主計殿の出来上がり」
その通りだった。まったく救いになっていないのに、変に正しい。
レオンは笑うつもりで息を吐いたが、うまく笑えなかった。
「明日、戦が長引けば、この分では足りません。飲む分も、洗う分も。荷駄が驚いて散れば、もっと減る。負傷兵が集まる場所も、まだ綺麗に切れていない。火の位置も近い。桶が倒れたら終わりです。だから——」
「だから、四回数える?」
遮られて、言葉が詰まる。
ダフネは責めているわけではなかった。ただ、要らない枝を短剣で払うみたいに、話を芯だけにした。
「……数えていれば、少しはましです」
「ましじゃない顔してる」
返す言葉がなかった。
ましではない。最悪に近い。だが、その言い方をすると負けた気がして、レオンは口を結んだ。嫌だ、怖い、情けない。その手の言葉は、自分の中で反芻すると際限なく増える。だから普段は数に逃げる。水は何桶、皮袋は何枚、布は何反。数字は黙って並ぶ。感情みたいに膨れない。
だが今夜ばかりは、その数字の先にあるものが見えすぎた。
「……僕は、別に、勇ましく死にたいわけじゃないんです」
口から出てから、しまったと思った。
よりによってダフネに。護衛役に。剣の柄に指をかければそれで用が足りるような相手に、何を言っているのだ。弱音を吐くなら、せめて一人の時にしろ。そういう羞恥が、遅れて喉の奥を焼いた。
だが、いったん零れたものは戻らない。
「王弟のために名を上げたいわけでもない。将軍たちみたいに、大きなことをしたいわけでもない。僕は……こんな場所にいるはずじゃなかった、と今でも思ってます」
ダフネは何も言わない。
逃げ道を塞がないように、横についたまま立っている。
「いまごろ中央学都に残れた連中は、灯火の下で本でも読んでるでしょう。少なくとも、明日の朝に何人分の血を洗う水がいるかなんて考えていない。僕は、そういう方に行くつもりだったんです」
「知ってる」
「知られていても困るんですが」
「今さらだし」
そこで初めて、レオンはかすかに笑った。ひどい慰め方だ。慰めてすらいないのかもしれない。
ダフネは腰の水袋を外して、押しつけるようにレオンに渡した。
「飲んで」
「あなたの分でしょう」
「私はあとで貰う」
「その“あとで”が来ないのが戦場です」
「来るようにする」
言い切ったあと、彼女は少しだけ首を傾けた。
「明日、誰が死ぬかは知らない。でも、今ここで緊張しすぎた顔してるやつから先に死ぬ、たぶん」
レオンは水袋を受け取った。革は体温で温んでいた。
口をつけると、ぬるい水が喉を通る。驚くほど普通の味だった。奇跡の水ではない。ただの水だ。だが、それで少しだけ胃の底のざらつきが落ちた。
「……僕は、逃げたいですよ」
今度は、さっきより小さい声で言った。
「知ってる」
「格好悪いでしょう」
「別に」
ダフネは桶の列を見回したあと、夜風を背で受ける位置に立ち直った。自然に、レオンの方へ風が来ない。
「英雄だったら困るし」
「どうしてです」
「死に急ぐから」
それは、あまりにも簡潔で、あまりにも身も蓋もなかった。
だが、レオンには妙に効いた。英雄でないことは、欠陥だと思っていた。少なくともこの軍では。前に出て剣を振るえないこと、火を放って敵を焼けないこと、馬上で叫べないこと。そのどれもが、ずっと不足だと思っていた。
けれど不足だらけのまま、いま自分はここにいる。
水が足りないことも、布が足りないことも、獣が朝まで持つか怪しいことも、誰かが数えなければならない。そして、そういう仕事は、英雄より先に、自分のところへ落ちてくる。
「主計殿」
今度の声は、別の方向からだった。
ミュロンが暗がりから現れた。短い外套を肩にかけ、いかにも眠っていない顔をしている。相変わらず人相が悪い。荷駄護衛頭のくせに、獣より先に人間を噛みそうな面だ、とレオンは内心で毒づいた。
「その桶、もう少し奥に移設させてくれ。夜明け前に列が動いたら蹴飛ばされる」
「分かっています」
「分かってるなら、今やらせてくれ」
言い捨てると、ミュロンはダフネへ目だけ向けた。
「お前はそこ離れるな」
「分かってる」
それだけ確認して、男はまた闇へ戻った。
妙にうるさい。荷駄列とダフネの位置のことになると、あの男はいつも余計に口を出す。現場の秩序にうるさいだけ、で片づけるには少し細かすぎる気もしたが、今はそこまで考える頭が回らなかった。
レオンは水桶の取っ手を持ち上げた。半分まで入った水は見た目より重い。腕に食い込む重さが、いっそありがたい。運ぶべきものがある間は、余計なことを考えすぎずに済む。
ダフネが反対側に手をかけた。
「持てます」
「知ってる。こぼすなってだけ」
二人で桶を荷車の陰へずらす。地面は固く、桶の底が小さく鳴った。
それだけのことなのに、少しだけ呼吸が整った。
一人で抱えていた時より、ましだった。ましだと認めるのがまた癪だったが、それでも事実は事実だ。
「……ありがとうございます」
言うと、ダフネは肩をすくめた。
「礼は朝まで生きてからでいい」
それも慰めではない。条件付きの、乱暴な先送りだ。
だが、そのくらいがちょうどよかった。
遠くで、夜番交代の角笛が鳴った。
乾いた音が、黒い宿営地の上をまっすぐ走っていく。眠っていた兵が身じろぎし、どこかで馬が鼻を鳴らした。火の匂いと革の匂いのあいだに、夜明け前だけが持つ冷たさが落ちてくる。
レオンは水袋を脇に置き、もう一度だけ桶の数を見た。
今度は、数え直さなかった。
明日、王が死ぬかもしれない。
いまの王か。王になりたがっている男か。あるいは、そのどちらでもなく、名前も残らない兵たちばかりか。
それはまだ分からない。
分からないまま、角笛の余韻の中で、レオンは水桶の取っ手を握った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
本作は、派手な英雄譚というより、望んだ道からこぼれ落ちた若者が、場違いな戦場の実務の中で、それでも生き残ろうとする話です。
ゆっくり積み上がっていく長編ですが、完結までの道筋は固めてあります。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。




