あの日の沈黙を追いかけて飛んだ
あの電話から一週間が経っても、
受話器の向こうに落ちた沈黙が頭から離れなかった。
「そうかもしれんな」と呟いた彼の声は、
凪いだ海のように穏やかでありながら、
どこか底の見えない深さを湛えていた。
大阪から関東へ向かうなら、いつもは新幹線だ。
けれどそのときの私は、
なぜか伊丹から飛行機に乗ることを選んでいた。
一刻も早く、あの沈黙の正体に触れたいという焦りと、
雲の上に出てしまえば、地上で絡まり合っている彼らの苦しみから、
ほんの少しでも距離を置けるのではないかという、
身勝手な逃避心が混ざっていたのかもしれない。
高度が上がり、窓の外に白い雲海が広がったとき、ふと思った。
全盲の彼は、飛行機に乗るとき何を感じているのだろう。
景色が見えなくても、気圧の変化や身体にかかるG、
エンジンの轟音で、自分が世界のどこにいるかを察しているのだろうか。
彼はいつだって、私たちが視覚に頼り切っている世界で、
それ以外の感覚を研ぎ澄ませて生きてきた。
盲学校の教員として、多くの生徒の「光」であり続けた男。
定年という名の役割の喪失は、彼から最後の道標を奪ったのかもしれない。
家という狭い檻の中で、彼は自分の存在価値を見失い、
暗闇の中でもがいていた。
そして、最も近くにいる奥さんを傷つけ、自分自身も傷ついていた。
羽田に降り立ち、ローカル線に揺られて彼の家の最寄り駅に
着いたのは昼過ぎだった。
「近くまで行くから、お茶でもせえへんか」とだけ連絡を入れ、
駅前の古びた喫茶店で待っていると、店のドアが開いた。
奥さんに手を引かれながら、彼が入ってきた。
足元を確かめるように小さく歩きながらも、
私に心配をかけまいとするように、
いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
奥さんは私に気づくと、ほっとしたような、
それでいて申し訳なさそうな顔で頭を下げ、
彼を椅子へ導いた。
「じゃあ、私は少し買い物してくるからね」と声をかけ
、「よろしくお願いします」と私に言い残して店を出ていった。
「よう、待たせたな」
席に落ち着いた彼が言った。
「わざわざ飛行機で来たんか? 贅沢なやっちゃな」
奥さんから聞いたのだろう。
その笑顔は、電話のときと同じように、驚くほど“普通”だった。
私たちは珈琲をすすりながら、どうでもいい話をした。
プロ野球の順位予想、共通の友人の近況、
最近読んだ本の感想。
彼の知識は相変わらず深く、語り口も滑らかだった。
どこにも、警察沙汰の家出をした人間の影は見えなかった。
だが、会話の合間に訪れるふとした静寂。
そのとき、彼の視線の定まらない両目が、
わずかに下へ落ちるのを見た。
その瞬間、私は確信した。
彼は今も、あの暗闇の淵に立っている。
ただ、私にそれを見せまいと、
必死で「いつもの自分」という仮面を貼り付けているのだ。
「……なぁ」
私は意を決して、珈琲カップを置いた。
「こないだの電話の後、ずっと考えててん」
彼の眉が、かすかに動いた。
「『あんないい奥さん、おらんで』って言ったやろ。
あのとき、お前、ちょっと黙ったやんか」
彼は何も言わず、ただ私の言葉を待っていた。
「俺さ、お前らの間に何があったか全部は分からん。
分かりようもない。他人の家庭のことやしな。
でもな……お前が消えてもうたら、
俺は嫌や。それだけ言いに来た」
沈黙が流れた。
前回の電話よりも、ずっと長く、重い沈黙だった。
安っぽいBGMと、スプーンが皿に当たる音だけが、
私たちの間を通り過ぎていく。
やがて、彼が深く息を吐いた。
その拍子に、張り詰めていた肩の線が、
がくりと崩れた。
「……俺はな、自分が情けない」
ぽつりと、彼は言った。
「目が見えんようになって、それでも教師として必死に生きてきて、
やっと終わったと思ったら、何も残ってへんかった。
社会から必要とされてへん自分を受け入れられんくて
……あいつに八つ当たりして、一人でどこか遠くへ行こうとした自分が、
ほんまに嫌になる」
声が震えていた。
彼は両手で顔を覆った。
涙は零れない。
けれど、その身体全体が、声にならない痛みに震えていた。
あの「そうかもしれんな」という沈黙は、
彼が抱える孤独と自己嫌悪の深さそのものだったのだ。
私は彼の肩にそっと手を置き、話し始めた。
「なぁ、人生ってさ、意外と何とかなるもんやで」
彼は顔を覆ったまま、じっと耳を傾けていた。
「実はな、俺もちょっと前に精神的に追い詰められてた時期があってな。
契約先の課長がめちゃくちゃな無理難題ばっかり言うてきて、
ストレスの限界で帯状疱疹までできてしもた。激痛で夜も眠れんかった」
温まり直した珈琲を一口含む。
「もう限界やと思って、自分の会社の上層部に全部ぶちまけたんや。
『あの人の下では仕事続けられません』ってな。
そしたらどうなったと思う? クビになるどころか、
その話が向こうの会社にも伝わって、
その課長の方があっさり地方に飛ばされたんや」
彼の両手が、ゆっくりと顔から離れた。
「渦中にいるときは、もう目の前が真っ暗で、
逃げるには死ぬか消えるしかないって思い詰めがちやけど
……ほんの一歩、予想もしてへん方向に風が吹くだけで、
状況なんてガラッと変わることもある。
お前が『終わった』と思ってても、
人生は勝手に続いていくし、
案外なんとかなるようにできてるんや」
しばらく黙っていた彼は、やがて小さく息を吐いた。
張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ気がした。
人には、他人がどうやっても入れない場所がある。
それは変わらない。
私がここまで飛行機を飛ばして来ても、
彼の喪失感を埋めることはできない。
でも、届かないからといって、
隣で言葉を紡ぐことを諦めていい理由にはならない。
夕方、買い物から戻った奥さんと共に、
駅の改札まで彼を見送った。
私は彼の背中を軽く叩いた。
「また来るわ。今度は新幹線でな。
もっと時間作って、美味いもんでも食いに行こう」
「おう、待ってるわ。気ぃつけて帰れよ」
奥さんに腕を引かれながら、彼はゆっくりと、
しかし確かな足取りで家へ向かって歩き出した。
夕暮れの街路樹の影が、
寄り添う二人の背中を静かに包み込んでいく。
空港へ向かうモノレールの窓から外を眺めながら思った。
何も解決していないかもしれない。
明日からも、彼の暗闇との闘いは続くだろう。
それでも、今日、彼の沈黙のすぐそばで、
自分の格好悪い話を差し出せたことは、
無駄ではなかったと信じたい。
薄い言葉しか持たない私たちが、
それでも誰かと生きていくためにできることは、
ただ、その人が佇む暗闇のすぐそばまで、
何度でも足を運び続けることだけなのだから。




