友人の奥さんから『もう限界です』と電話が来た
友人夫婦のあいだに起きた出来事を、少しだけ書きました。
受話器の向こうで、誰かが壊れかけていた。
「もう、あの人とはやっていけへんのです」
長年の友人の奥さんだった。
声を聞いた瞬間に分かった。
これは、ただの愚痴ではない。
限界の声だった。
話を聞くうちに、息が詰まるような気持ちになった。
友人は全盲だ。
それでも長年、盲学校の教員として働き続けてきた。
生徒に頼られ、誰かの役に立つ場所に立ち続けてきた人間だ。
その彼が、定年を迎えた。
それだけのことのはずだった。
でも、それだけでは終わらなかった。
家に閉じこもるようになり、気分の落ち込みが激しくなった。
奥さんに、きつい言葉をぶつけることも増えたという。
そして、ある日――
一人で家を出たまま、戻らなかった。
警察に捜索願を出す騒ぎになったらしい。
目の見えない彼が、どこへ向かったのか。
何を考えていたのか。
想像しようとして、やめた。
軽々しく想像していいものではないと思った。
「私ももう限界なんです」
奥さんはそう言った。
この一言が、ずっと頭から離れない。
私は何か言わなければと思った。
でも、何も言えなかった。
結局、
「離婚とかは急いで決めんと、どこか相談できるところに
話聞いてもらった方がいいかもしれませんね」
としか言えなかった。
自分でも分かる。
薄い言葉だった。
電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
そして翌日、今度は友人に電話をかけた。
「もしもし」
出てきたのは、いつもの声だった。
驚くほど、普通の声だった。
「よう、元気か」
「ぼちぼちやな」
いつも通りの会話が続いた。
天気の話。知り合いの話。どうでもいい話。
彼は笑った。
私も笑った。
前日の電話を知らなければ、
何もおかしいとは思わなかっただろう。
人は、こんなにも普通の顔で壊れていくのかと思った。
何度も切り出しかけて、やめた。
励ます言葉が、全部薄っぺらく感じた。
「頑張れ」なんて言えない。
言える立場でもない。
それでも、何か一つだけ言わなければと思って、
私はこう言った。
「ところで、奥さん元気か」
「ああ、元気やと思うで」
少し間が空いた。
私は続けた。
「あんないい奥さん、おらんで」
沈黙があった。
ほんのわずかな沈黙。
それから彼が言った。
「そうかもしれんな」
それ以上、何も言えなかった。
電話を切ってから、ずっと考えている。
友人のこと。
奥さんのこと。
どっちが悪い、なんて話ではない。
どっちも苦しい。
ただ、その苦しさの種類が違う。
そして、こういうときに気づく。
人には、
他人がどうやっても入っていけない場所がある。
どれだけ仲が良くても。
どれだけ長い付き合いでも。
届かない場所がある。
若い頃は、違うと思っていた。
友人が困っていたら、何かしてやれると思っていた。
力になれると思っていた。
でも、違った。
できることは、驚くほど少ない。
電話をかけて、
言葉を探して、
当たり障りのないことを言って、
切る。
それだけだ。
「あんないい奥さん、おらんで」
あの言葉が、
彼に届いたのかどうかは分からない。
ただ、
あのときの沈黙だけが、
ずっと引っかかっている。
あの沈黙の意味を、
私は、まだ知らない。
読んでくださって、ありがとうございました。




