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第四十三話 汗にまみれた騎士とお姫様

「リアちゃん、もうこれ以上、俺、無理だよ。どんなに濡らしても、この天気じゃ――」


 男性が仰ぎ見た空には、雲一つない。頂点まで上りつめた太陽は、男性のカッターシャツの水分を根こそぎ奪っていた。


「手桶の水も、もうないし――」


 困り切った表情の男性は、手元にある空の水桶に視線を落とした。


 ため息を吐きながら顔を上げた男性の目の前には、小ぶりなイーゼルがあった。イーゼルからは飴色の頭がはみ出している。


「ダメね。この季節、なんでもすぐに、からっからに乾いちゃうのよ。」


 オフィーリアは、恨めしそうにして空を睨みつけた。


 仕方ないわね。とオフィーリアは、傍らに置かれていた麻袋をごそごそと漁り始めた。


「リア――、今度は何を企んでいるの? ケイレブも......貴方、なんで騎士服を着て鍛錬しているのよ。もう、どれだけ汗をかいたの? シャツもよれよれじゃないの。」


 エルザは、腕を組みながら胡乱な眼差しを二人に向けた。


「エルザさん――、俺が、くっ。弱いばっかりに――」


 ケイレブと呼ばれた年若い男性は、面目ないと拳を握りしめた。


「ケイレブはね、今朝の鍛錬で私に負けたの。だから、私のお願いを聞いてもらっているのよ。」


 答えながらもオフィーリアの手は、未だに麻袋の中で忙しく動いていた。ないわね。確か、このなかに......と呟いたオフィーリアの頭はすっぽりと麻袋の中に入っていた。


「そのお願いって、もしかして私のこの恰好と関係あるの? 私、このような色味のドレスって似合わないのよね。」


 エルザは、身に着けている淡いピンクのワンピースを指さした。エルザは、しかし、そう言いながらもワンピースを眺めながらほんのりと頬を染めている。


「そ、そんなことないです! エルザさん! ――その、とっても、とっても、素晴らしく、似合ってます。」


 ばっと顔を上げて叫んだケイレブは、それからはっとして俯いた。彼の耳が真っ赤に染まっている。


 ケイレブの叫び声など一切耳に入らなかったオフィーリアは、ひたすらごそごそと麻袋の中を掻きまわし、ようやく目当てのものを探し当てた。これよこれと満足げに袋から小瓶を取り出す。


「これで汗まみれの騎士は、どうにかなるわね。――エルザ、それで貴方、例のものは持ってきてくれた?」


 オフィーリアは、小瓶を握りしめながら目をきらきらとさせてエルザに尋ねた。


 エルザは、困惑した表情で手にしている白いハンカチーフに視線を移した。これでいいのよねと呟きながら、彼女は綺麗に折りたたまれていたハンカチーフを広げて、オフィーリアに差し出した。


「そう! それよ! エルザすごいわ! 貴方、刺繍が本当に上手なのね。はぁー。本物のお姫様の刺繍は、――っ、やっぱり格別ね。」


 もっと近くで見てもいい? とオフィーリアは、エルザの方へとすたすたと歩き始めた。途中、すれ違いざまにケイレブに小瓶を渡す。


「リアちゃん、これ、くっさいぬるぬる水じゃないか、これ、また俺の身体にに塗らなくちゃならないの?」


 嫌だなぁと。ケイレブはぼやきながら瓶の蓋を開けた。


「その液体ってなんなの?」


 オフィーリアにハンカチーフを渡したエルザは、眉を顰めて瓶の中を覗き込んだ。


 瓶には、淡い桃色の液体が入っていた。


「エルザさん! 気を付けて下さい。絶対にこの液体に触れちゃだめですよ! この液体、身体につくとものすっごく臭くなるんですよ。汗臭いの! しかも、この匂い、湯あみをするまでずっととれないんです。さらに気持ち悪いのは、このピンク色の水、海藻を煮詰めたみたいにぬるぬるするんですよ。」


 ケイレブは、危険ですと言ってエルザから瓶を遠ざけた。


 二人のやり取りなど全く気にかけていないオフィーリアは、真剣な表情で穴のあくほど刺繍を見つめている。


 ケイレブとオフィーリアを交互に見たエルザは、まったく、困った子だわと、呟きながら柔らかな笑みを浮かべた。


 ケイレブが瓶を眺めながら難しい顔をしているのをみて困った表情を見せていたエルザは、不意にそう言えばと、周囲を見回しながら彼に尋ねた。


「――カール、新しく入ったあの子、今日も来ていないの? 今日は、リアと貴方と三人で鍛錬しようって話だったわよね。」


「あいつ、今日も来ませんでした。どこで何をやっているんだか......あいつ、この間までは、すごく張り切って朝から晩まで鍛錬していたのに......俺、明日休みなんで、あいつの家を訪ねてみます。」


 ケイレブは、真剣な表情でエルザにそう告げて、それから隅に放置されている木刀に視線を移した。


 ケイレブの意識がそれた隙に、オフィーリアがひょいとケイレブの瓶を取りあげた。一気に瓶の中身を彼の胸元にぶちまける。


 ケイレブは、慌てて身体をのけぞらせたが瓶の中身の大半はケイレブに命中し、彼の胸元はみるみるうちにじっとりと湿り気を帯びていった。


「ちょっと、リア! だめじゃない! そんな臭いもの。いくら貴方が鍛錬で勝ったからって――」


 酷いわよとエルザは、オフィーリアを咎めた。オフィーリアは、悪びれる様子もなくニヤリと笑みを浮かべて、エルザに先ほどのハンカチーフを手渡した。


 もう、と頬を膨らませたエルザが、ハンカチーフでケイレブの胸元を拭い始めた。


「あ、エルザさん、折角の刺繍が――、お、俺は大丈夫ですから――」


「だめよ。何が起こるかわからないわ。染みになるかもしれないじゃない。大丈夫よ。刺繍よりも貴方の制服よ――。」


 二人の周りには、薔薇の香りが漂っている。


 二人が顔を真っ赤にしながらお互いに大丈夫だからと言い合っているのを見たオフィーリアは、ニヤニヤとしながら小さく囁くように呟いた。


「マダム、ミッション成功よ。」


 それからオフィーリアは、満面の笑みでイーゼルと向き合った。



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