第三十三話 生身のどきどき
「やっぱり、そういう事なんだよね。井戸を解放したってことは――。」
オフィーリアは、手芸店のカウンターで頬杖を突きながらため息を一つ吐いた。彼女が眺めるその先には、ふかふかの土の上で落ち着き払った様子の赤足の蜘蛛がいる。
オフィーリアは、赤足の蜘蛛の興味を引こうとガラス箱をとんとんと叩いてみたが、蜘蛛は、彼女の挑発に乗ることなくひたすら土の上でじっとしていた。
「――でも、だめね。最近、恋愛小説を読んでも、きゅんとしないのよね。もっとこう、ぐっと私の感情が、ゆっさゆさに揺さぶられるような小説がないと。シンシアに頼んでみようかしら、帝国にすごい小説はないかって。聖剣が光らないと――ダメなのに。だって、井戸、解放されちゃったし。」
大きなため息を吐いたオフィーリアは、それから天井を仰いだ。
「何やってもだめなのよね。私の作戦、最強だと思ってたのに。こんなんじゃ、どうやって、島のみんなを救うのよ。」
カウンターに突っ伏してオフィーリアは、また深いため息を吐いた。
――カラン
手芸店の玄関扉にぶら下がっていたベルの音で、オフィーリアは顔を上げた。
「あれ、キース、一人? マダムは? 占いのお仕事、今日お休みだっけ?」
オフィーリアは、一人店内に入ってきたキースに首を傾げながら尋ねた。
「ああ、マダムは、ワーデンと島の婆さま、爺さまらで、話し合いの真っ最中だ。長引きそうだから、今日は占いを休むって事だ。」
「緊急会議? また王女様? それとも――ルークのこと?」
「ルーク? ああ、あいつは、もう大丈夫だろう。すぐにあいつを死なせるわけにはいかないが、ルークに興味を示している王宮関係者はもうほぼいないらしいから。もうそろそろだろ。
今回の問題は、あの王女だ。あいつが、また理不尽な要求を突きつけてきてな。」
まぁ、それよりもと言いながら、キースはオフィーリアを見遣った。マダムクロッシェの仕事部屋のカーテンをくいと開くと、彼はオフィーリアに中に入るように促す。
「ん? キース? どうしたの?」
そう尋ねつつもオフィーリアは、素直に彼に促されるままカーテンの中へと入っていった。
ソファに座るように言われて彼女は、ソファの端にちょこんと座った。キースも、それからオフィーリアの隣に座り、慣れた様子でその腕を伸ばしたキースは、彼女の肩に手を回した。
「今日は、ちょっと頼まれてな。姫様と話せってな。」
キースは、横目でオフィーリアを見て口角を少しだけ上げた。
「え? 私と話せって、誰が? 何を話すの?」
オフィーリアは、困惑した表情で隣に座っているキースを見上げた。
「ん。そうだな。色々聞かなきゃならないんだが、まずは、姫様が一人で塞ぎこんでいることだな。
あんなに恋愛小説、恋愛最高って言ってたのは、どうなった? マダムも心配していたぞ。『あの子、最近蜘蛛としか会話してないわ』って、何かあったのか?」
そう言い終わってキースは、オフィーリアの反応を窺った。オフィーリアは、笑顔を消して俯いている。
暗がりの中、二人の沈黙は続く。
「どうした? 俺にも言えないか?」
キースは、オフィーリアを抱き寄せてそっと彼女の頭にキスを落とした。
「キース、みんなに秘密にできる?」
オフィーリアは、キースを上目遣いで見つめた。
柔らかい笑みを浮かべたキースが静かに頷いた。安堵の表情を浮かべたオフィーリアは、それからぽつぽつと話し始めた。
「あのね。私、聖剣を光らせなくちゃいけなくて、私、テッドや他の島のみんながピンチになったら、聖剣をぴかーっと光らせてみんなを守れるって自信があるのよ。実際、テッドが魔物に刺された時にぴかーって光ったし、他にもいろいろ試したら、島のみんなの為になら光らせられることがわかったの。
でもね、私、お貴族様がピンチになっても、正直、聖剣を光らせる自信がないのよ。
勇者の先祖返りのくせにね。私、ひどいのよ。
ロイドやリチャード先生は、ジョーン様の状態を診て、それで心底彼の事を心配していたの。
でも、私はそれほど心配することができなくって、ジョーン様は、グレースさんを虐めてたんだから当然よって思っちゃって、ざまあって思ったの。
でも、失格でも私、勇者だし、魔王からお貴族様も救わなきゃならないし――、それで、とにかく聖剣を光らせようって思って、いろいろ試したのよ。
好きなこととか考えると気分が高揚して聖剣を光らせる事ができるらしいって初代の記録から分かったし、私の場合は、恋愛小説読めばすぐにぼんやりだけど光るから、あ、それでお貴族様の為にも戦えるわって思って。最初は良かったのよ......でも、ずっと読み続けていたら、全然なんにも光らなくなって――。」
そう言って難しそうな顔をしているオフィーリアにキースは目を細めた。安堵の表情を浮かべた彼は、オフィーリアをぎゅっと抱きしめた。
「ああ。良かった。いや、いろいろと突っ込みどころは満載だが、姫様が姫様のままだって事が分かっただけでも良かったか。
そんな事だったのか、俺はてっきり――いや、落ち込んでいるんだからな、勇者として頑張っているんだしな。ククク、だが、その方向がな......さすがに、ま、やっぱり俺の姫様のままだったな。クク、良かった。いつまでも変わらねぇな。最高だわ。」
キースは、そう言いながらオフィーリアの頭に何度もキスを落とした。それから愛おしそうに彼女の頬を両手で包み込むこむとまっすぐに彼女を捉えた。
「今、剣、そこにあるな。」
そう言うと、キースは視線を斜め下へと移した。オフィーリアも目線だけ落として、剣を確認するとうんうんと頷いた。
「よし」
キースは、ニヤリと笑ってそれからその柔らかな表情を一変させた。
キースがオフィーリアに向けていた慈愛の表情は彼から一気に消え去り、オフィーリアをじっとりと見つめる彼の眼差しは、今までにない熱であふれていた。
いつも冷たい表情で控えている彼の吐く息が、オフィーリアの顔を熱く撫でる。
普段と違うキースに戸惑い、オフィーリアはその身を捩ろうとしたが、彼の大きな手は、彼女をしっかりと囲い続けた。
オフィーリアの初々しい反応に、キースは蕩けた表情を浮かべる。
豹変したキースに、のぼせる上がるような感情を覚えたオフィーリアは、激しく鼓動するその身体を抑え込むようにして、両目をぎゅっときつく閉じた。
震える彼女の唇にキースの、熱が触れた、その刹那――。
すっと、キースの両手が、オフィーリアの上気した頬から離れた。
「お、光ったな。」
「へ?」
オフィーリアの固く閉じられていた目と口が、同時にぽかんと開かれた。
ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべたキースは、それから意味ありげにオフィーリアの腰に視線を移した。
彼の視線の先には、ぴかぴかに光り輝いている聖剣があった。
そして、オフィーリアの視界の端には、カーテンを握りしめながら真っ赤な顔をしているルークがいた――。




