第二十八話 赤い瞳のノエル
「お前、そんなに暴れちゃロイドにお仕置きされちゃうよ?」
オフィーリアは、ガラス箱を両手で抱えながら診察室へと向かっていた。箱の中では、赤足の蜘蛛がせわしなく動き回っている。
「ロイドあれから全然戻ってこないし......大丈夫かな。」
オフィーリアは呟きながら、ガラスの中を眺めた。せわしなく動き続けている赤足の蜘蛛に、彼女はふっと笑みをこぼした。
「――そこの君。」
透き通るような凛とした声音の男性が、オフィーリアに話しかけてきた。振り返りざまに顔を上げたオフィーリアは、黒髪の男性を見つけた。長めの髪を斜めに流したその男性は無表情でオフィーリアを見ていた。
「え? あ、は、はい。」
オフィーリアは、突然声をかけてきた男性に驚いた様子で応えた。初めて見る男性に警戒しながらオフィーリアは、男性の身なりを確認した。
男性は、上等な白いボタンダウンのシャツに濃紺のジレ、皺ひとつない黒色のトラウザーを身に着けていた。
口元だけに笑みを綻ばせている男性は、無言でつかつかとオフィーリアの目の前に来て言った。
「人を探しているんだが、この診療所に運ばれたと――。」
男性の瞳は、深の紅色をしていた。彼は、顔色一つ変えずにその赤い瞳だけを動かして、オフィーリアが抱えているガラス箱の中を見た。
「蜘蛛か。ずっとこのような状態なのか。」
「え?」
オフィーリアは、困惑しながら男性の瞳の先にある蜘蛛を見た。
ガラス箱の中で赤足の蜘蛛は、必死で脱出を試みていた。かさかさと手足をひっきりなしに動かして、壁をよじ登ろうとしている。
「ずっと、このように動き回っているのか。」
男性は、視線をガラス箱から移すことなく抑揚のない声で再び尋ねた。
「え、ええ。この子、さっきからずっとこの調子で――。お前、ちょっと落ち着きなさい、怪我しちゃうわよ。」
そう言って、オフィーリアは、蜘蛛に話しかけた。
男性は、一瞬だけ瞳を揺らしてオフィーリアに視線を移すと、すぐに表情を戻し自身のトラウザーのポケットから何やら取り出した。
「少し、その蓋を開けてくれるか。」
オフィーリアは、男性に言われるがままガラス箱の蓋を開いた。男性は、ガラスの中で握っていた拳をゆっくりと開いた。彼の拳の隙間から砂がさらさらと流れ落ち始めた。
あっという間にガラス箱の底は茶色の砂で埋まり、蜘蛛はすぐに落ち着きを取り戻した。
「すごい、この子、土の上が落ち着くのね。もうすっかり大人しくなったわ。」
ニカっと白い歯を見せて人懐っこい笑顔を見せながらオフィーリアは、男性にお礼を言った。
「ああ。大したことはない。それよりも、君、私が土をどのように――。」
そう言いかけた男性は、少しだけ首を振るとすぐに先ほどの無表情な笑み取り戻して、オフィーリアに向き合った。
「君、すまないが、診察室まで私を案内してくれないか。」
「え、あ、はい。診察室ですね。」
ついて来て下さい。と言ってオフィーリアはすぐに踵を返し、足早に歩き出す。
不意にオフィーリアの腰の聖剣が光を帯びた――。
「おい、待て。」
突然男性が、オフィーリアの肩に手をかけた。
「え?」
男性に肩を引っ張られたオフィーリアは、バランスを崩し天を仰いだ。彼女が眺めた先には、宙を舞っているガラス箱がある。
「あ」
オフィーリアは、咄嗟にガラス箱に両手を伸ばした。ガラス箱を抱き込むようにして蜘蛛の安全を確保した彼女は、その後すぐに、身を固くして衝撃に備えた。
目をかたく閉じたオフィーリアを、ふわりとした花の香りがやさしく包みこむ。
どしんという鈍い音で目を開けたオフィーリアの見上げた先には、痛みに少しだけその表情を歪めた男性の姿があった。
オフィーリアは、男性に後ろから抱きかかえられたまま床に座り込んでいた。オフィーリアは、男性の体温を背中に感じながら時が止まったかのような感覚に陥った。
「――すまん、肩を強く掴み過ぎてしまった。」
オフィーリアの耳もとで男性は、息を吹きかけるようにその低い声音を響かせた。
オフィーリアは、男性の声音にびくりと身体を震わせた。それからはっとした表情を見せたオフィーリアは、すぐに男性から飛びのくようにして立ち上がり、一気に男性との距離を取った。ぶんぶんと頭を下げて叫ぶように謝罪し始める。
「すみません! すみません! 申し訳ありません! 貴族様に助けてもらって、わ、私、ごめんなさい! お貴族様を傷つけてしまったら、私、大丈夫ですか? あ、ごめんなさい。助けてもらったのに、お礼も、ありがとうございます。申し訳ありません!! お怪我はありませんか?!」
座り込んでいる男性に再び駆け寄り、跪いたオフィーリアは、彼の体を上から下まで隈なく確認した。
「怪我はない。心配するな。私が急に君の肩を掴んたのが悪かった。」
そう言って、男性は無表情のまま立ち上がった。オフィーリアも男性に倣って立ち上がる。男性の変わらない態度に少しだけほっとした様子を見せたオフィーリアは、それからガラス箱の中を覗き込んだ。
オフィーリアは、蜘蛛の変わらない様子をみて心底安心して微笑んだ。
「蜘蛛の事が心配だったのか。」
男性は、抑揚のない声で短く尋ねた。
「この子、毒あるし、刺すし、威張ってる感じ出してるし、暴れるし、全然いい子じゃないんですけど、でも、私、最近この子と一緒にいる時間が多くって、そうしたら情が沸いたっていうか、なんか憎めなくなっちゃって、それに最近色々な事があって、私もこの子のことを必要って言うか、この子と一緒にいたいなってちょっとだけ思ってたんです。だから、ちょっとだけ大切で、でも複雑なんですけど、やっぱり――、怪我しなくって良かった。」
へへへと言ってオフィーリアは、照れくさそうに男性を見上げた。
男性は、無表情のままオフィーリアと視線を交わした。オフィーリアは、感情を一切表に出さない彼の瞳の奥に、一瞬だけ揺らめきを見た。
「――あ、ごめんなさい。えと、貴族の人のお見舞いでしたよね。えっと、その貴族の方、多分ここにはいないと思うけど、ここ、平民しか来ないから、でも、一応、ここの人に聞いてみますね。あ、そういえば急患の人が運び込まれたって――。」
取り繕うようにして早口で言ったオフィーリアは視線で廊下の先の扉を指した。
「――リア。」
不意に診察室の扉が開き、ロイドが顔を出した。白衣に身を包んだロイドは険しい表情をし、射貫くようなの彼の視線は、男性を捉えていた。
男性は、アルカイックスマイルを浮かべながらロイドに言った。
「ダムドー侯爵家の遣いの者でノエルと申します。ジョーン様をお迎えに参りました。」




