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第二十九話 人形となったジョーン

 ――コトン。


 オフィーリアは、ノエルがジョーンを連れて診察室を出るのを見送った後、自身がずっとガラス箱を抱きしめていたことに気がついた。


 きつく抱きしめていたガラス箱は、うっすらと曇っていた。オフィーリアは、ガラス箱を袖で拭い、それから診察室の片隅にあった作業机の上に置いた。赤足の蜘蛛は、自身で穴を掘った土の底で芋虫のように丸まっている。


――ロイドに診察室へと通されたノエルは、医師のリチャードに恭しく挨拶し、簡単な自己紹介をした後、ジョーンを引き取りに来たことを伝えた。


 リチャードは、意識不明の状態が続くジョーンをむやみに動かすのは良くないと彼が落ち着くまで診療所で面倒を見ることを提案したが、ノエルは、笑みを湛えたまま彼の提案をやんわり断った。


 ノエルは、なおも渋る様子を見せるリチャードに、帝国から来訪しているフォーリー医師が既に診療所の前の馬車で待機しており、すぐにでも治療が可能な状態であると説明を重ねた。ノエルは、一度も不快な表情を見せることなく、終始穏やかな様子で会話を進めていた。貴族からの要求に対して、初めから拒否権などないないリチャードではあったが、最終的にはノエルに説得されるという形でジョーンを手放した。


 しばらくして、侯爵家の護衛が現れるとノエルは、リチャードに丁寧に礼をして未だ意識の戻らないジョーンを連れて診療所を後にした。


 診察室でのノエルは、オフィーリアと話をしていた時とは別人のように物腰柔らかで、愛想も良く時折柔らかい笑みを見せながら、丁寧にリチャードたちに接していた。


 ノエルは、しかし、それから一度もオフィーリアに声をかける事はなく、彼女の事を少しも見遣ることなく診察室を後にしていた――。



「――ノエル、やっぱりお貴族様だったのね。」


 オフィーリアは、眉尻を下げて小さくひとつ息を吐いた。名残惜しそうにして彼女は、視線をガラス箱から診察台へと移した。


 リチャードとレオン、ロイドは、もう既に空になった診察台を無言で囲んでいた。しばらく続いた重苦しい沈黙を終わらせたのは、リチャードだった。


「まだ若いのに、あそこまで手足の筋力が低下するとは、ジョーン・ダムドーに何が起こっているんだ。」


 眉間に皺を寄せながらリチャードが絞り出すよう言った。


 港の隅の小屋で倒れていたジョーンを見つけたのは、平民街を巡回中のレオンだった。


「小屋で、彼、最後に一度だけ、口を開いたんです。」


 レオンは、呟くように言った。


「許してください。って、それから急に震えだして、それで、意識が完全に――。」


「許してください、か。ジョーン・ダムドーは、ダムドー侯爵家の次男だろ? 例のシンシアが初めて島で依頼を受けたっていう貴族の婚約者、確か平民との不貞だったな。彼は、侯爵家から罰を受けていたというのか? その結果がこれなのか。でも、それだけでこんな状態に、どんな折檻を受けたら――。」


 リチャードが、レオンに応えながら顎を擦った。それから顔を歪ませながら天井を仰ぎ見た。


「貴族の間では、婚約破棄なんて不貞なんて日常茶飯事ですよね。特に令息にとっては、不貞すらも嗜みになる。そういう風潮が島には、まだ根強く残っている。だからシンシアみたいに、令嬢を守ろうとする人間が出てきた。

不貞行為があっても、責められるのは大方令嬢だ。なのになぜ今回は、彼がこんな目に。彼の今回の不貞相手が、平民だったからか。それで、彼は罰を受けたって言うのか。

でも、それにしても、あの婚約破棄騒動からまだ日が浅い。こんな短期間で、あんなに細くなるまで折檻だなんて、ただ普通に閉じ込めたくらいじゃあんな風になるはずがない。」


 レオンは、悔しさと怒りが入り混じったような表情をしながら、最後は独り言ちるようにそう言い終えて、寝台を見つめた。


 診療所に運び込まれたジョーンの手足は、ほとんど骨と皮だけという状態だった。弱り切った彼の四肢は、もはや自力で動かせる状態にはなかった。


「手足は、あんなにやせ細っていたのに、顔は綺麗でしたね。頬がこけているとか、目が落ちくぼんでいるとか――。

あの手足を見る限りそうなっていてもおかしくないのに、彼の顔は健康そのものだった。

服を脱がさなかったらわかりませんでしたよ。彼があんな状態だなんて。どうしたらあのような状態になるんでしょう。

手足の関節も異常なほどに細かったですし、まるで操り人形の様でした。」


 ロイドが、そう言って寝台に視線を落とした。彼の瞳には暗い影が落ちた。


「実は、彼の診察をしている時にもう一つ気がついたことがあるんです。彼の首の裏側、襟足の所に......そこに黒い染みがあったんです。

黒いインクを垂らしたような染みで、その円い染みは、よく見たら黒一色じゃなくって濃淡があって、蜘蛛の巣の模様になっていたんです。

それで、テッドや島の住民が魔物に刺された時にできたあの痣を思い出して――。」


 ロイドは、それからゆっくりと顔を上げてリチャードを見た。


「テッドや他の平民街の住民が魔物に刺された痕って、魔物の毒って、本当に完全になくなったんでしょうか。彼らは......本当に回復したんでしょうか。」


 目を見開いたオフィーリアは、腰に差してあるダガーナイフに無意識に手をかけた。ナイフがすっぽりと収められている皮の鞘の隙間から光があふれだす。


 先ほどまで静かに蹲っていた蜘蛛が、吹き上げるようにして頭上に糸を吐き始めた。一気に噴出されたその白い糸は、土のくぼみをすぐさま満たし、ガラス箱の底には、小さな白い円い染みが出来上がった。

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