寄り道
王国へと戻る数日間の馬車旅は、天気にも恵まれ順調そのものであった。
想定よりも良いペースで進んでいたため、国境を超えてすぐ、景色の良い池のほとりで馬車を止め、休憩することにした。
だが、アレシアはイオンの膝を枕にして熟睡している。馬車が止まっても目を覚ます気配がない。
そんなアレシアの髪を指ですき、愛おしそうに寝顔を眺めていると、控えめなノックの音と共にファニスがやってきた。
「なんだ?」
イオンはファニスの方を見ないまま抑えた声で尋ねた。
「失礼いたします、イオン様。その、ディノスの件なのですが、彼は帝国に残したままで良かったのでしょうか。」
本来であれば、帝国を立つ前に確認したかったのだが、二重スパイであることがバレれば確実にディノスは殺され、王国との戦争に発展する恐れがある。そのため、帝国内では口にする事が出来なかった。
国境を超えてすぐのこの地からであれば、単騎で馬を飛ばせば1日で帝国まで戻る事が出来る。
ここが最後のチャンスだと思ったファニスは、主君の意向を確かめるためイオンの元を訪れたのだ。
「ああ。皇子二人は実質無害としても、皇帝は侮れん。諜報部員の潜入は必要だ。何かあれば、僕に脅されていると言えと伝えてある。そのように振る舞えばこちら側の人間とバレることはないだろう。むしろ、あの二人なら同情して親身になってくれるかもな。」
イオンは自嘲気味に笑った。
「ん…」
イオンの声に反応したアレシアがもぞもぞと動き始めた。
気付いたファニスは、深く頭を下げると音もなく馬車から出て行った。
「…イオン?」
アレシアは眠気まなこで上から覗き込んでくる青い瞳を見返した。どういう状況かまだよく分かっていないようだ。
ぼんやりとしながらもはっきりと自分の名を呼んでくれるアレシアに、イオンは感嘆の息を漏らした。
そのあまりに刺激的な色気に、アレシアの意識が覚醒していく。
「なっ!!!」
アレシアはようやく状況を理解した。
狭い馬車の中、イオンの腕に抱かれるように横になっており、それを上から見つめられている、この状況に。いつの間にか靴まで脱がされており、それに気付いた瞬間、羞恥心が込み上げる。
とにかくイオンの腕の中から脱しようと、勢い良く上体を起こしたのだが、ニヤリと口角を上げるイオンと目が合った。
緻密な計算の元、アレシアの顔が到達する位置を想定し、それに合わせて口付けで迎え討った。
「んっ…」
突然の口付けに呼吸が止まり、頭の中が溶けそうになる。
イオンの腕から逃れるつもりのはずが、逆に彼の鳥籠にすっぽりと収まってしまった。
何度も角度を変え、その度に深くなっていく口付け。アレシアが息継ぎを出来るように、絶妙なタイミングで唇を離し、そしてまた重ねていく。
その繰り返しに、アレシアは頭の中が真っ白になり何も考えられなくなった。最後は力尽き果て、脱力してイオンの胸にもたれかかった。
自分の腕の中でぽうっと放心状態になっているアレシアを、イオンは目を細めて愛おしそうに見つめた。
「少しは新婚旅行の気分を味わえたかな?」
「もうっ!!」
言葉では抗いながらも、心地よいイオンの胸の鼓動に、アレシアはしばらくそのままくっ付いていた。
イオンのアレシア満喫時間のせいで既に陽が落ちてしまい、余計に一泊することになった一同。
結局王宮に着いたのは、予定していた日の半日後であった。
王宮に戻った翌日、アレシアはさっそく帝国で仕入れてきた苗を畑に植えていた。量が量であるため、非番の騎士達も駆り出され大規模な作業となつている。
率先して作業をしていたアレシアは、立ち上がって振り返り、皆の手によって規則正しく植えられていく様を眺めた。
少し前までは広大なただの土地で、それを少しずつ耕していき、自分の手で畑へと作り変えてきた。それが今、こんなにも広がり、国家事業にまでなろうとしている。その事実に、アレシアは眩しそうに目を細めた。
だが、今はまだ道半ば、浮き足立つ心をぐっと我慢して、また地道な作業へと戻っていった。
午後は、執務室で帝国に行く前にファニスがまとめてくれた資料に目を通していた。改めて国家事業の素案を作るためだ。
事業を運営するために必要な情報は手元にあり、出資者の一覧もある。まだ足りないものは一つだけであった。
「ねぇ、クロエ。そろそろこの国家事業を試験運用してみようかなと思って、それで、実際に仕事がなくて困っている平民を募りたいのだけど…」
アレシアは、書き連ねていた手を止め、クロエのことを見上げた。
悩ましげな顔のアレシアに、勘の良いクロエは主人の言わんとしていることを察した。その上で、どのように進めることがもっとも危険が少ないか、脳内であらゆる角度で試算を始めた。
だが、有能な彼女でさえ、何度計算をし直しても成功するパターンが見つからなかった。
「やっぱり、アストラに聞いてみるのが一番だと思うんだけど…」
「そうですね…」
二人で頭を抱えた。
クロエは頭の中で何度試算しても、アストラがイオンに命を取られる結末にしか辿り着かなかったのだ。
貧困街のツテとなると、王宮に身を置く立場のアレシア達には彼以外に頼れる先はなかった。
「とりあえず、彼に手紙を出しましょう。ファニス様とは面識がお有りのようですから、彼の名前を借りてやり取りをし、書面で情報を手に入れることがもっとも安全かと。」
「そうよね…本当は直接会って話した方が色々と早いけれど、こんな理由で若い命を奪うわけにはいかないものね。」
二人がホッと息を吐いた時、ノックの音が聞こえた。
「アレシア」
「イオンっ!」
タイミングが良過ぎる本人の登場に、アレシアは裏返った声を出してしまった。
「どうしたの?」
「な、なんでもないわ…」
明らかに焦っているアレシアにイオンは一瞬疑いの目を向けたが、すぐにいつもの蕩けるような笑顔に戻った。
「今日は良い気候だから、バルコニーで夕飯をとらないかなって、お誘いに来たんだ。」
「え、ええ、喜んで。」
なんだそんなことかとアレシアはホッと胸を撫で下ろした。あからさまに安堵の表情を浮かべるアレシアを見て、イオンは口角を上げた。
「で、誰と会って話したいって?」
「ひいっ!」
耳の良いイオンに、直前の会話はしっかりと聞こえてきたらしい。
にこにこと不気味なほどに機嫌の良い笑顔を浮かべながらアレシアに詰め寄ってくる。
アレシアは藁にもすがる思いでクロエの方を見たが、彼女は目を合わさず、ただ頭を下げるのみであった。
「そんなこと、誰も言ってないわよ!」
迷ったアレシアはシラを切ることにした。
その彼女の判断に、クロエは思わず天を仰いだ。完全に誤った選択だったらしい。
「へぇ?まぁ、良いけど。続きはベッドの中で聞こうか。夜の君はいつも素直で従順で僕に抗えないからね。今夜は長くなりそうだ。」
イオンは手を口元に添え、クスッと妖艶に微笑んだ。
「クロエ、夕飯はバルコニーに、そして、アレシアは夕飯よりも先に湯浴みをしたいそうだと侍女に伝えておくように。」
「畏まりました。」
「ぎゃあっ!!」
イオンの威圧にクロエは承服することしか出来なかった。




