黒い感情
イオンは、先程アレシアが飲み損ねたフルーツジュースを手にアレシアの元へと戻った。
晴れ晴れとした顔で戻って来たイオンに、アイカルが僅かに顔を引き攣らせた。ひどく機嫌の良いイオンに、なぜかアイカルの胸がざわつく。
動揺する彼に、騎士の一人が近づくと耳に手を当て内密と思われる情報を伝えた。
「そんな、馬鹿な…」
騎士から伝えられた事実に、アイカルは目を見開き驚愕の表情を浮かべた。
こんな奴、簡単に潰せると思っていたのに。
帝国の力を前にすれば、抵抗する気など起こるはずがない。こんな取るに足らない小国、少し揺さぶればすぐに怖気付いて、自分に縋り付くはず。それなのに…この男は屈しないどころか、王自らが何の躊躇いもなく、武力を行使して来た。
なぜそんな利にならないことを…
一歩間違えば、王という立場も権力も富も命さえも、何もかもを失うというのに。そこまでの危険を冒して一体何を守るというのか。
アイカルには全く理解できなかった。
それと同時に、迷うことなく国のために動くイオンに、得体の知れない恐怖を抱いた。
「アレシア、悪かったよ。これさっきのジュース。今度は美味しいから飲んでみて。」
アレシアは、彼が手にしている見たことのない果物をくり抜いた入れ物をじっと見つめた。そして、数十秒の間熟考する。
意地を張って拒否したい気持ちと未知なる味を口にしたい気持ちがせめぎ合う。
そんな彼女の心の葛藤を見透かすように、イオンはストローを彼女の口にそっと近づけた。
熟れた果物の芳醇な香りが鼻を掠める。好奇心に負けたアレシアは、生唾を飲み込み、ストローの先を口に含んだ。
「ん…美味しいっ」
目を輝かせ、ぱっと花開いたような笑顔を見せた。
その後も、美味しそうにごくごくと飲み続けるアレシアに、イオンは幸せそうに目を細めた。
すっかり機嫌が元に戻ったアレシアとイオンが楽しそうに話をしている。今し方命を狙われたばかりだと言うのに、警戒心の欠片も感じられない。
敵地のど真ん中で呑気に談笑する二人を目にしたアイカルは、内側から黒い感情が込み上げて来た。
アイツだけどうしてあんなに何も考えずにいられんだ。なぜあんな綺麗な顔で笑っていられるんだ。どうしてもっと汚れていないんだ。
同じ為政者だというのにこんなにも違う。
いにも平和そうに、争いも裏切りも知らない世界で生きてきたような顔をして…そんなぬるま湯で育って来て、そんなアイツが一国の王であるなど…そんなこと、誰が認めるか。
あんな半端者、王になる資格などあるわけがない。俺よりも努力していないのに、平々凡々と何も考えずに生きて来たクセに、与えられたものを教授しているだけのクセに。それなのに俺よりも上の立場で、呑気な顔で笑いやがって…反吐が出る。あんなの許せるものか。
そうだ、思い知らせてやろう。
世界はお前が思うほど甘くないのだと。
お前も一度地獄を味わうべきだ。
「アイカル皇子殿下、この後は予定通りでしょうか。」
「ええ、予定通り最後にアレシア王妃殿下御所望の店に立ち寄って皇宮へ戻りましょうか。」
アイカルは勘の鋭いイオンに悟られないよう、奥底から吹き出した黒い感情を心の内に仕舞い込み、笑顔で答えた。
四人は馬車に戻ると、アレシアが望んだ苗や種を豊富に扱う店までやってきた。
当初は視察先の予定に無かったのだが、皇宮滞在中に発生した事件でアレシアに負担をかけたため、イオンが圧力をかけて予定に捩じ込んでくれたのだ。
その店は、立派な石造りの建物で、その隣には広々とした庭があり、更にその奥には広大な敷地に畑が広がっていた。辺り一帯、人の手で適度に整えられた緑と花に囲まれ、童話の世界に出てきそうな可愛いらしい雰囲気が出ている。
「まぁ、とても立派なお店ですわ。」
アレシアは、素敵なものがたくさん詰まっていそうな店構えに、胸をときめかせた。
無意識に胸の前で手を組み、ほおっと感嘆のため息を吐いた。
「すごいな、三階建か。これは品揃えが良さそうだね。」
待ち切れない顔をするアレシアに、イオンはクスッと微笑むと手を差し出した。彼女がその手を取ろうとした瞬間、無粋な宰相の言葉によって阻まれてしまった。
「イオン国王陛下、大変申し訳ございません。先程市場の近くで起きた乱闘騒ぎについて、あちらで少しだけお話をお聞きしても宜しいでしょうか。どうしても今事情を伺いたいとのことで…」
宰相が手で示した先には、憲兵に囲まれた馬車が一台止まっていた。
最も嫌なタイミングで声を掛けてきた宰相に、イオンは剣に手を伸ばしかけた。
「イオン?」
怖い顔をしているイオンに、アレシアが心配そうに彼の瞳を覗き込んできた。その美しさにはっと息を呑み、我に返った。
これ以上彼女にこの話を聞かれたくなかったイオンは、黙って従うことにした。軽く息を吐いて表情を整える。
「アレシア、ごめん。宰相殿との話が終わったらすぐに向かうから。ファニス達と先に行ってもらえる?」
「分かったわ。」
イオンはアレシアの後ろに控えるファニスとクロエのことを見ると、二人は真っ直ぐにその瞳を見返すと、大きく頷いた。
アレシアが店内に入る姿を見届けると、イオンは呼び止めてきた宰相に向き直った。
その瞳から光が消え、代わりに敵意と殺意が宿る。彼を取り囲む空気すらも一変した。言葉選びを一歩間違えれば、すぐ様刺し殺されそうなほどの圧を感じる。
先程までにこやかにアレシアと話していた人物と同一人物とは到底思えない。
彼のあまりの変わりように、宰相は怯んで一歩後退してしまった。イオンは、相手が後ろに下がった分、距離を詰めるように前に歩を進めた。
「手短に頼むよ。」
イオンは、敵意と殺意を剥き出しにしたまま、宰相に向かってにっこりと微笑み掛けた。




