結婚式前日
アレシアの目の前には、大人が4名ほど寝そべって並べるほどの、長方形の大きな窪みがあった。
これは畑近くの地面を掘って作られたもので、内側は石で固められており、土壁が崩れてこないように人の手が加えられている。
たった今、その穴に新鮮な水が注がれ、穴を掘られただけの窪みは立派な池へと変貌を遂げた。
いつものお仕着せを着用したアレシアは、簡易的な入れ物に入っていたマスを素手で鷲掴みにしようと、水の中に腕を突っ込んでいた。
「ああもう!あと少しなのに、なんで逃げるのよ!もっと広い場所で泳げるんだから良いじゃない!」
「アレシア様、大きな声を出されますと、魚が逃げてしまいますよ…」
捲った袖を濡らしながら、マスに向かって怒っているアレシア。
それを呆れた顔のクロエがすぐ隣で見ていた。
「アレシア?君は一体ここで何をしているのかな?」
「ひっ…」
暴れまくるマスを掴まえることに必死だったアレシアは、イオンの接近に全く気付いていなかった。
穏やかな口調とは裏腹に、彼から発せられた冷気が背中に当たっているような冷ややかな感覚がする。
彼女は恐る恐るイオンの方を振り返った。
「僕の愛しの花嫁殿、明日は何の日か分かるかな?」
「この国の国王陛下の結婚式が執り行われる日にございます…」
イオンの気迫にビビり、思わず令嬢モード且つ他人事のように言葉を返したアレシア。
「で、どうしてそんな大事な日の前日に、君は魚を素手で掴まえているんだ…クロエ。」
イオンは、アレシアのブレーキ役でもあるクロエに厳しい視線を向けた。
「アレシア様が禁止されていたのは畑仕事のみにございます。また、アレシア様の自由を最大限尊重するようにと陛下からも申しつかっております。」
何か問題でも?と言いたげに、クロエは毅然とした態度でイオンに向き合った。
「はぁ…分かったよ。しかし、アレシアの服が濡れてしまっているから、今日はもうここで終いにするように。風邪を引いたら大変だ。」
「これくらいで風邪なんて引かないわよ。」
「アレシア、明日の夜は長い。だから明日のために体力を残しておいて。」
イオンは、冷えてしまったアレシアの手を両手で握りしめながら、艶っぽい表情で見つめてきた。今日はいつもよりも色気が溢れている。
彼の色気に当てられて固まっているアレシアの頬にキスをすると、イオンは近くにいた護衛に、魚の移動を指示して去って行った。
「なんなのよ…」
アレシアは、イオンにキスされた頬を手で抑えていた。
「イオン様、帝国から封書が届いております。」
執務室に戻ったイオンに、ファニスが白い封筒を差し出してきた。この国では見ない絵柄のスタンプが押してある。
「エリックの予想よりも早かったな。帝国で何か新たな動きでもあったか…」
イオンは流れるような動作で封筒から取り出した紙を眺めると、ずっと目を細めた。
「何かございましたか?」
「少し厄介なことになるかもしれないな。」
イオンは、視線を上げると、窓の方に目を向け、外にいるアレシアを見た。
「ディノスを帝国へ向かわせろ。代わりにエリックを王国に戻せ。直接話を聞く。帝国には、快諾する旨を伝えるように。」
「それは…エリックに話を聞く前にお決めになってしまって宜しいのでしょうか…」
「ああ。これはほぼ強制だからな。だったら、下手に抵抗せず、快諾したと思われた方が後々都合がいい。」
「畏まりました。」
指示を受けたファニスは、恭しく礼をすると、執務室を出て行った。




