39.「まだお前……絶望を味わったことがないな?」
ズズゥウウウン……
どこかそんな音でもさせるかのように、ゴウダツが一歩踏み出す。と同時に、俺たちの間に戦慄が走る。
(やる気だ……!)
そう思った時には既に、状況は動いていた。こちらを振り向いたゴウダツの目に光が灯るのが見えた瞬間、気が付くともう奴は、俺のすぐ横に来ていた。
「な……っ!?」
「失せろ」
思わず目を瞑る。……が、恐る恐る目を開けた俺には、何も起こっていなかった。
「ガハァ……ッ!」
代わりに、隣にまだ倒れていたコボルドの族長が吹っ飛ぶ。
……身が竦む、とはこういうことかと初めて分かった。俺を含め、ルルガもミミナも全く動けないままだった。
ゴウダツが足を踏み出してから俺のすぐ横に来るまでは、ほんの僅かな間だ。だが、俺は目で追うのがやっとだったが、ルルガたちが追えないようなスピードでは無かった。にも関わらず、一歩も動けなかったのは、奴の身にまとう圧倒的な『暴力』のオーラに体が固まってしまったからだ。
「あ……あ……ぁ……」
俺の口から、声にならない音が漏れる。
遠くの方では、ふっ飛ばされた族長が、木か何かに叩き付けられる音が聞こえた。が、俺はそんな方など見ることもできず、ただ目の前の圧倒的な暴力に愕然とするしか無かった。
(こんな……こんなのは、さっきまでのお遊びとは全然……違う……!)
まるで先程の一連のやり取りが、子供の鬼ごっこのようだと思えるほどの、完璧で完全で最強なる蹂躙。純粋なまでの『力』がそこにあった。人間では……俺では全く太刀打ち出来ないほどの膂力。速度。凶暴性。
(い、一体どう……)
それを考えるまでで精一杯だった。時間にしてみれば、一秒にも満たなかったかもしれない。だが、俺の中では丸一時間も経ったような錯覚を覚えるほどの絶望的な時間だった。そしてそれは、唐突に終わりを告げる。
……ジロリ
音がするような視線、というのを初めて知った。
呆然として見上げる俺と、ゴウダツの視線が合った。
(あ、マズ……)
最後まで思う前に、真っ黒い大木を思わせるようなゴウダツの腕が動くのが分かった。
ヴォンッ……!
『終わった』と思った。
族長と同じように、ひ弱な俺の体はふっ飛ばされ、肋骨が何本かと腕や足の骨もボキボキと音が鳴るほどに持っていかれ……と思っていたが、目を瞑っても予想していた衝撃はやって来なかった。代わりに、聞き慣れた女の子の悲鳴が響く。
「ぅぎゃあっ!」
と同時に、目の前に現れた誰かが、悪魔のような黒い腕と俺の間に割り込んできていたのが分かる。そして、その人物と共に、俺は数mほど後ろにふっ飛ばされた。
「カ……ハッ……!」
「ル、ルルガ……ッ!?」
刹那の瞬間、俺とゴウダツの間に割り込んで来たのは、黄金色の耳を持つ巫女ルルガだった。
……俺よりも一回り小さい体をしながら、その人間を超越した身体能力で飛び込み、そして全身をもってあの黒い魔神のような腕を真っ向から受け止めてくれたのだった。
「な、何で……!」
「だ、大丈夫か、ロ……ガハゴホッ!」
まともに喋れていない。
後ろにいた俺ごとふっ飛ばされるほどの衝撃だ。いくら彼女たちの体が丈夫だとは言え、無事である筈がない。後ろからルルガを抱き留めながら、彼女の体を確かめる。
「俺は大丈夫だ!そ、それよりお前が……!」
「に、逃げろ……っ!」
彼女の体の心配をする俺の方を逆に気遣い、言葉をかけるルルガ。そして、何とか立ち上がろうとする。
体を確かめた感じでは、腕や足には異常は無いようだが、見た目の様子からしてみても、無事な訳がないのは明らかだ。彼女の方こそ、一刻も早くこの場から逃げて治療するべきだった……。
「貴様よくもっ!」
「……ぅん?」
さっきまで身動きが取れなかったミミナが、ルルガの様子を見て我に返り、ゴウダツからすかさず間合いをとると同時に、矢を放つ。『百舌鳥』と呼ばれたほどの彼女の弓矢の腕前は狙いを違わず、ゴウダツの眉間へと直線が走った……が。
「……フンッ!」
ミミナの放った矢は、無造作に払われたゴウダツの右手によって、いとも簡単に弾かれてしまった。……驚愕する俺とミミナ。
「なっ……!?」
「所詮は獣を狙う狩人か。『殺し合い』ってもんを全然分かっちゃいねぇな。そんなに殺気の篭った目で狙ってたら、射線が丸分かりだろうが」
「!?」
一瞬だけ魔法かと疑った俺だったが、全くそんな素振りが無かったことと、今の台詞で分かる。つまり……こいつは完全なる『戦闘能力』だけでミミナの弓を防御した……!ということだ。
(なんだこの戦闘悪魔は……!?チートすぎるだろ……!)
圧倒的、という言葉を改めて実感し、ラスボス……という単語が思わず脳裏に浮かんだ。そして、俺が改めて武器を構える間も無く、ゴウダツが動く。
だが、またしても俺の方に来るわけではなかった。……どうやら再び動き出したミミナの方へと向かったようだ。辛うじて目で追って分かる。
ミミナが新たな矢を番えるのと同時に、この場から離れるために奥の茂みの方へと走り始め、それを見たゴウダツが間合いを瞬時に詰めた、ということだった。
だがそれも、巨体の割に恐ろしく俊敏なゴウダツのスピードによって捉えられてしまう。ミミナが一瞬だけ振り返った隙に、距離を詰めたゴウダツが、先ほどと同じように追いつき様に豪腕を振り払い、横薙ぎにミミナへと叩きつける。……そして、ミミナもルルガと同様に吹き飛ばされ、地面を何回転かしながら倒れてしまった。
動かない所を見ると、どうやら意識を失ってしまったようだ。
……。
……そして、辺りに動く者は誰もいなくなった。
シバの姿は無い。さすがにゴウダツの姿を見ては、まともに相対することなどできないだろう。もしかしたら、魔法で気配を消しているのかもしれない。
……シバはそれが最も最良の対応だと思う。だが、俺もそんな風に考えていられる余裕など全く無かった。
周囲を静けさが包む中、ついに目の前の黒い巨体が俺の方を振り返り、口の端をニィ……と歪め、僅かに開いた。
「まだお前……絶望を味わったことがないな?」




