第七章 第四話
次の休暇の日、聖システィーナ修道院の執務室に秋の陽が差し込む穏やかな空気の中、心尽くしの菓子が並ぶアフタヌーンティーに招かれ、レオは勧められた菓子に首を振っていた。
「子供達に食わせてやってくれ」
「子供達も今同じ物を食べてるから大丈夫ですよ、ザイア少尉」
「実は菓子は苦手なんだ。食った事無くてな」
クスクス笑ったクリスに困って頭を掻いたレオが正直に明かすと、マリアは綺麗な眉を少し悲しそうに顰めた。
「それならば、サンドイッチを召し上がられては?」
「……じゃあ、いただきます」
マリアを安堵させようと穏やかな笑みを返したレオに、マリアもゆったりと微笑んだ。
じゃあと言って、席を立って二人きりにしようとしたクリスに、レオは思いついたように顔を上げて訊ねてみた。
「クリス、ワイアットという人物を知ってるだろ?」
「うん。僕らの同級生で、今は湖水に居るけど」
「俺の事を知ってるようなんだが、俺には記憶が無いんだ」
少し眉を顰めたレオを見て、クリスも頭を捻って考えていたが、二人の接点を思い付かないようで益々考え込んだ。
「ワイアットは学園が崩壊した時に此処に避難してきて、それからずっと此処に居たんだ。でも、ハドリー達がオーストラリアに行く事になって、湖水が人手不足になるから、移住してもらったんだ。だから、ザイア少尉が此処に来るようになった頃には、もう湖水に居たし、この間来てたけど少尉には会ってないからなぁ」
「いいんだ。少し気になっただけだから、気にするな」
悩むクリスにレオは軽く手を挙げて了承を示して苦笑した。
レオが苦笑いを返した時に、執務室のドアがバタンと音を立てて開けられ、ロドニーが目をまん丸にしたまま飛び込んで来た。
ロドニーは無礼に気付いて、もう既に開け放たれているドアを、お座なりにコンコンと一応ノックしてから、好敵手視しているレオはジロリと睨むと、「院長先生、お菓子貰っていい?」と困惑した顔をしているマリアには甘えた顔を見せた。
「ロドニー、先生の言いつけをちゃんと聞いていましたか? もうお菓子は十分に届けてあるでしょう」
十一歳になったロドニーは、再来年には再興するW校に先行して入学する事になっていたが、いまだにやんちゃ小僧の名残を残して、天真爛漫自由気ままに動き回るロドニーを、少し厳しく指導せねばと思い始めていたマリアは険しい顔でロドニーを叱った。
予想外のマリアのきつい言葉にシュンとなったロドニーを見て、レオはじっと考えていたが、やがてクスッと笑い、まだ残っていたカスタードプディングを差した。
「ビアンカが、プディングが食べられなくなって泣いてるんだろ? 持って行ってやれ」
「なんで分かるんだよ!」
「お前は分かりやすいからな」
プディングの零れた跡が服にまだ濃い染みを作っていて、手にはスプーンを握り締めて立っているロドニーは顔を真っ赤にした。
「わざとやったんじゃないんだ! ビアンカが、手が届かないから取ろうとしたら!」
「分かった、分かった。早く行ってやれ。ビアンカが泣いてるぞ」
フンと面白くなさげに鼻で息をしたロドニーだったが、遠慮無くカスタードプディングをかっ攫うと、レオにはベーと舌を出して、またパタパタと駆け戻って行った。
「教育とは、難しいんですね」
妹の為を想っていたロドニーの気持ちを察してやれなかった事に、マリアは己を責めて嘆息をついたが、レオは慰めるようにマリアに微笑んだ。
「アイツはただひたすら真っ直ぐだ。其処には悪意も作為も無い。ただ、仲間や妹の事を想ってるだけだ。その気持ちは、大事にしてやってくれ」
静穏なレオの瞳に頷いたマリアも、黙って見守っていたクリスも、暗い闇の中で生きてきたレオが見せる優しさに触れて、その胸の中の暖かな灯を守るように、口元に嬉しそうに笑みを浮かべた。
一方の湖水では、何時も陽気なワイアットが塞ぎ込み、始終何かを考えているような険しい顔をしている事に、皆異変を感じていた。
それに、レオが関係しているらしいという事だけは分かっていたケビックだったが、訊ねても何も答えようとしないワイアットに、どうしたものかと思案を巡らせていた。
「兎に角、接点の無い二人だ。何処で知り合ったのかが分かれば、ワイアットの悩みを知る糸口になるかもしれん」
会議から戻ってワイアットの異変を目の当たりにしたケビックは、その晩の時の様子をサミュエルとユアンから聞いてはいたが、名門ボールドウィン家のワイアットと、スラム育ちのレオとでは生きてきた環境が違い過ぎ、年齢的にも三十六歳になるレオと二十二歳のワイアットとでは開きがあり、彼らの人生に接点があるとは思えなかったが、それだけにその切欠が分かればと、ケビックは多忙な中、各方面から資料を取り寄せていた。
「ワイアットはロンドン西部メイデンヘッド近郊のバーチェッツ城の生まれよ。元は、此処はフォーティン伯爵家の城だったんだけど、ワイアットの曽祖父が買い取ったらしいわね」
「うへ、そんな因縁もあったのか」
ニナの過去世の一つであるレティシア・フォーティン伯爵令嬢は、嫁いだ侯爵より拷問を受けて実家に戻され、短い生涯を閉じるまでその城の地下に閉じ込められていた筈だった。
「曽祖父と祖父はポロのプロ選手として名声を博した人物で、特に曽祖父はナイト称号も貰ってるわ。でもワイアットの父はプロにはならずに、大学を出るとビジネスマンになったそうよ」
「まぁ、血筋が全てに継承されるわけでもないからな」
「でも、ワイアットが一歳の時に父親は死亡してるわ。ロンドンのスラム街で強盗を働こうとして、逆に返り討ちにあってって、え?」
明るいワイアットからは想像も出来ない悲劇に、それまで報告を淡々としていたシスルは黙り込み、ケビックもピクリと眉を挙げた。
「ロンドンのスラム、ワイアット一歳、レオは十五歳、強盗……」
ケビックは、キーワードになりそうな言葉を列挙しながら、もう既に大人しくスヤスヤと寝ている息子が居る自室を、それでも息子を起こさないように、少し遠慮がちに小声で呟きながらグルグルと歩き廻り、やがて険しい顔を上げた。
「シスル、不味い事になるかもしれない」
不安げな顔のシスルもケビックと同じ結論に達していたらしく、強張った顔で頷いた。
その夜レオは、マリアと過ごした午後のひと時を反芻しながら、宿舎のベッドで仰向けになって、ほんのりとした幸せを噛み締めていた。
もう長い間マリアに触れる事は叶わなかったが、それでもマリアが穏やかに笑っている顔を見るのが、レオにとっても何よりも幸せだった。今はこうしてまだ一緒に過ごす事も出来るが、何れ自分はマリアの傍を離れないといけないかもしれないと、レオは浮かんだ不安に顔を顰めた。
それでも、もしもマリアが修道尼として生きる事を選ぶのなら、マリアの望むようにしてやろうと、レオは自身がマリアと交わした約束を思い出していた。
――それでもいい。お前が笑ってくれているなら。
その時が来るまではあの笑顔を何時までも見ていたい、そう願いながらレオは揺れる波のように押し寄せてきた睡魔に身を委ねて、深い眠りに落ちていった。
深夜に弾かれたようにベッドに起き上がったレオは、鳴り止まぬ鼓動の向こうにひたひたと押し寄せる影を見出して、秋だというのに全身に掻いた汗で荒い息をついた。
久しぶりにあのスラムでの出来事の夢を見たレオは、バクバクと鳴る心臓の鼓動に、生々しい夢の名残がまだ自分を捉えているのを感じて、その最中で思い抱いた疑問をまた胸の中で反芻した。
――俺が十五の時に赤子だったという事は、今の年齢は二十一歳か二十二歳か。ケビックとクリスが二十二歳で、その同級生は。
符号し始めたパズルのピースが、レオの頭の中で鋭い音を立てて一つの結論を作り出そうとしていた。
「まさか……」
その思いを振り払うように、レオはブルブルと頭を振って、まだ汗の浮かんだ額に手をやった。
あの時にも、俺は捕まっていなかったとレオは思い出していた。今まで一度も起こした犯罪で警察に捕らえられた事は無く、何一つ罪を償っていないのだという思いを抱いていたレオにとって、例えこの仮定が事実であったとしても、彼が、その相手が自分だという事を知っている筈が無かった。しかし、それが事実なら、とレオは暗い瞳を外の闇へ向けた。
――俺は、もしかしたら初めて償えるのかもしれない。
それがどんな暗い傷を残すのか、分かっていても逃げられないと、レオは唇を噛んで堪えるように瞼を閉じて天を仰いだ。




