第七章 第三話
「済みません。何から何まで」
直立不動の姿勢から丁寧に頭を下げたニックス・ベック一等准尉に、この湖水地区で、家事を娘リンダと共に一手に引き受けているマリーゴールド・フェアフィールドは、にこやかな笑みを浮かべて首を振り、湖水名物の虹鱒のソテーを彼の前に置いて突然の客人を温かくもてなした。
「何時もお世話になっているんですもの、当然の事ですわ」
「そうですよ。あんな無鉄砲を何時も護衛して下さっているんですもの、これぐらいはねぇ」
その無鉄砲なケビック・リンステッドの妻シスルは、黒髪の赤子を腕に抱きかかえてあやしながら、「ねぇ」と、マリーゴールドに笑い掛けた。
順調に二組の夫婦を『アルカディア』まで送り届けたニックスであったが、積んできた予備バッテリーの不具合で、今日中の帰還が難しくなった。軍用車の中で休息を取るからと、家への招待を固辞したニックスだったが、そんな彼をマリーゴールドが優しく諭したのだった。
「軍人さんならそういうのも慣れていらっしゃるんでしょうけど、折角ベッドのある場所で、ベッドで寝ない法はないわ。そのほうが疲れも取れるでしょう?」
何度か湖水まで来た事のあったニックスだったが、今はその何時もの建物の隣に新しく別棟が完成していて、以前は一棟の中に大勢で住んでいたのだが、今は客室も設けられるようになったんだと、マリーゴールドの夫テディも嬉しそうに笑った。
「まぁ、赤ちゃんの夜鳴きが五月蝿いかもしれないんで、その時は車に避難して下さい」
陽気に笑ったテディに、ニックスも照れ臭そうに笑った。
「いえ。我が家にも赤ん坊が居るんで、慣れてます」
「そりゃあいい。是非ご家族のお話もお聞かせ下さい」
何処までも穏やかで暖かな雰囲気に、ニックスも苦笑を浮かべて頷いた。
今は四人の赤ちゃんを中心に、賑やかな暮らしをしているというこの『アルカディア』には、再来月もう一人の赤ちゃんが産まれるのだと聞いて、大きなお腹を抱えたジニアをニックスは感慨深げにじっと見つめた。
弾けるような明るい笑顔を見せているジニアが、嘗てのSASの部隊長スティーブンソン中佐の娘である事を知っていたニックスは、激動の中を生き抜いた彼女が、今は幸せを掴んだ事に、内心の安堵を隠さずに嬉しそうに微笑んでいた。
「それにしても、その子は余り泣かないですね」
クリクリした黒い瞳を盛んに動かして、キョロキョロとしている男の子にニックスが微笑み掛けると、シスルが苦笑いをした。
「そうなの。余り泣かないし、ミルクは良く飲むし、夜はぐっすり寝てくれるし。手が掛からなくて助かってるわ」
「そりゃ、IQ三百の天才児だもん。ねー、ガブ」
アイリスがクスクス笑いながら赤ちゃんのピンクの頬を突付くと、クリッとした黒い瞳をアイリスに向けた赤ちゃんは、言葉の意味を考えているかのように、じっとアイリスを見つめ返していた。
「IQ三百。そりゃ凄いな」
「ちょっと、ベック一等准尉殿が本気にするじゃないの。やめてよ」
剥れて抗議するシスルに苦笑を浮かべたニックスは、「いえいえ」と首を振った。
「聡明なサヴァイアー大佐殿のお嬢さんとあのMr.リンステッドとの間のお子さんなら、有り得るんじゃないでしょうか」
「でしょ。で、ウチの子は良く泣くのよ。でもフィオナは余り泣かないわね。そうそう、ハドリーも良く泣くわよね」
クスクスと笑ったアイリスに、ニックスは「え」と困惑した顔を向けた。
「ハドリー……」
「ええ、そうよ。ハドリー・フェアフィールドよ」
悠然と笑ったアイリスが振り返った視線の先に、【鍵】であったハドリー・フェアフィールドの姉リンダが、赤ちゃんを腕に抱いてにこやかに笑っていた。
「それじゃあ……」
「絆は、間違い無く繋がれているの、ベック一等准尉殿」
穏やかな笑みを浮かべて、背後のリンダが抱いている赤ちゃんを振り返ったシスルの言葉にニックスも呆然と立ち上がり、見知らぬ客人を不思議そうに見返している小さな蒼灰の瞳を見つめ返した。
暴動にも面白半分に参加して、日々を無為に生き何と無く軍人になったニックスは【鍵】が守りたかった絆の意味を余り理解せずに生きて来たが、自分も愛する人に巡り合い、かけがえの無い我が子を授かった今、その絆が受け継がれている事実を目の当たりにして、改めて【鍵】が守ったこの世界を想って、これから自分が守るべき世界の偉大さを噛み締めた。
場を居間に移し、男達との酒宴となった一同の中で、ニックスは久しぶりのシャンパンに舌鼓を打って上機嫌だった。
「エールやワインは手に入るが、シャンパンは中々。旨いなぁ」
「でしょ。でもまだ味を改良中でね、余り沢山は作ってないんだ。なのに、出来たら出来ただけありったけケビックが飲んじゃうから、まだ外部には出回ってないんだ」
苦笑をしたワイアットがまたニックスにシャンパンを勧めると、喉を通る爽やかな味にニックスは一層微笑んだ。
「此処は本当に豊かな土地ですね」
しみじみと語ったニックスに、サミュエルとユアンも顔を見合わせて嬉しそうに頷き合った。
「今は英国中、いや世界中の何処もが豊かな土地だよ。皆、自分の成すべき事に懸命で、でも笑顔で生きてる」
「俺なんか、軍で言われた通りに任務をこなしてるだけだからなぁ」
ニックスもレオ同様、『発動』で自分が何も出来なかった無力感を抱えていたが、湖水の男達はキョトンと顔を見合わせた。
「何でさ。確かにもう、戦争は起こらないかもしれないけど、君達みたいな卓越した能力を持つ人が居てくれるから、俺らは安心して暮らせるし、災害なんかが起これば、その冷静な判断力と統率力は一般人には太刀打ち出来ないよ。だって、それだけの訓練を積んでるんだもん。俺ら頼っちゃうよ」
ケラケラと笑ったワイアットの屈託の無い笑顔に、逆にニックスが不思議そうな顔を向けた。
「互いに頼り合う、それでいいんじゃない?」
クスッと笑ったワイアットがまたシャンパンを勧めると、笑顔になったニックスはその一杯を嬉しそうに味わった。
極上の味だ、と喜びを噛み締めたニックスは嬉しそうに呟いた。
「本当はこんな歓迎、ザイア少尉殿が受ける筈だったのに、少尉殿も運が無いな」
「全くだ」
クスクスと笑ったサミュエルとユアンであったが、ワイアットの顔からは笑顔が消えていた。
「ザイア少尉って」
「ええ。俺をあっという間に抜いていった、SASの期待の星で、此処のメンバーの方の何人かは、既に見知っておられるでしょう。アレックス・ザイア少尉殿です」
ニコニコと笑いながら答えたニックスであったが、何時も温和なワイアットの顔からは笑みが消えたまま、手にしていたシャンパンのボトルが床に落ちて、乾いた音を立ててボトルが割れた。
翌日、ポーツマスのSAS指令本部に帰隊したニックスは、上官のマクダウェル中佐に、昨夜戻れなかった仔細を報告して、承認を得られると帰宅が許された。
心配しているだろう妻の元に帰ろうと、急ぎ足だったニックスであったが、ふと思い出すと兵士の控え室を覗き、そこにレオの姿を見付けると声を掛けてきた。
「ザイア少尉殿」
「昨夜は戻らなかったようだが……」
顔を上げたレオに、ニックスは敬礼を返して「はっ」と答えた。
「予備バッテリーの不具合にて、一晩、湖水でお世話になっておりました」
「ああ。あそこは皆気さくで良い人ばかりだから歓迎されただろう」
小さく笑みを浮かべたレオに、ニックスも「ええ」と同意の笑みを返したが、直ぐに不審げな顔に変わり小声でレオの耳元で囁いた。
「少尉殿、ワイアット・ボールドウィンはご存知ですか?」
「ワイアット・ボールドウィン?」
「はっ。湖水地区にて暮らす男で、Mr.リンステッドや【守護者】Mr.エバンスの同級生だそうですが」
「いや、それがどうかしたか?」
「それが、少尉殿をご存知のようでしたが……」
微妙な、言い難そうな顔をしているニックスに、レオは促すように顔を向けた。
「それが、その詳細は分からないのです。彼は、何も話そうとしませんでしたので。何処かでお知り合いになられた事は?」
「いや、名門W校に通っていたのなら、いい家の子なんだろ?」
「歴代のポロの名選手を生んだ家柄とか。本人も、その才能を認められていたとのことです」
「尚更、俺には縁の無い話だ。何かの人違いだろ」
スラムの底辺を生きてきたレオにとって眩しいばかりの恵まれた環境に、フッと嘆息をついたレオだったが、ニックスは複雑な表情のまま小さく息をついた。
「恐らく、自分の気のせいなんでしょう。失礼致しました」
「いや、奥さんが待ってるだろ。気をつけて帰れ」
「了解しました」
すっかり立場が逆転した二人だったが、気にも留めてない様子でニックスは敬礼を返して、いそいそと妻子の待つ我が家へと帰って行った。
聞き覚えの無い名前を頭の中で反芻しながら、レオは湧き上がる不安を抱えて、兵士達が談笑する室内で、一人空を見て考え込んでいた。




