第五章 第五話
そうして数日間、W校へ通ったマリアは、次第に訓練にも慣れて、以前とは比べ物にならないほど機敏に動けるようになっていた。
「今日は申し訳ないのだけれど、何時もよりも三十分早く出るわ。夫のカンファレンスが、どうしてもその時間しか都合つかなくて」
眉を寄せたジニアにレオは首を振った。
「申し訳ないなんてとんでもない。夫が第一だろ。いい結果が出るといいな、ジニア」
「ありがとう」
珍しく恥ずかしそうな顔ではにかんだジニアは、その日は訓練が終わると夫の待つ病院へ脱兎の如く戻って行った。
「じゃあ、今日のマッサージは」
「無くてもよいのではないでしょうか。もう、体も少し慣れてきた事ですし」
「いや、習慣にしろってジニアも言ってたしな。それに、この訓練の次のステップの事もある」
「次のステップ?」
「見られるの次は触られる、だろ?」
すっとぼけて首を竦めたレオであったが、マリアは戸惑って顔を赤くして目を逸らした。
「でも」
「心配するな。足のマッサージだけだし、今日は捲らない。それに万一お前が動転して力を発動しても相手は俺だ、心配いらない」
床のマットを顎で指して促したレオを見上げ、マリアは困惑した顔のままだったが、最後は渋々と何時ものようにマットにうつ伏せに寝そべった。
少し筋肉が強張っていたマリアのふくらはぎを、ゆっくりと揉み解すように手を掛けながら、レオは取りとめもない事を話し掛けていたが、生返事のような小さな呟きしか返さないマリアの様子に、やはり緊張しているのかと、極力マリアを刺激しないようゆっくりと手を動かした。
「……何時の間に、仲良くなられたのですか?」
「え?」
唐突にマリアの呟きが聞こえて、レオは問いの訳が分からず聞き返した。
「Ms.ジニア・ニールセンの事を親しげに呼んでおられました。それに三日目以降、とても親密なご様子で」
消え入りそうな声で呟くマリアに、レオは初めはキョトンとしていたが、合点がいくと「ああ」と納得してクスッと笑った。
「二日目の昼に、たまたまジニアに会ってな。彼女が北の森にあるあの建物に花を手向けに行った時だ。その時に色々と話をした」
「当時の事をですか?」
「ああ。此処が戦場になった時の事や、その後湖水で彼女が父親と対峙した時の話なんかをな。一度彼女とは話がしてみたいと思ってたんだ。俺と同じ、親を殺した者同士として」
「共感する部分があったという事ですね」
「まぁな。でもそれは互いに自分で乗り越えなきゃならない壁だ。彼女もきっと乗り越えられるだろう」
ここ数日は吹っ切れたような笑顔で、何時もいそいそと夫の元へ戻っていくジニアを思い起こして、レオは嬉しそうに小さく笑った。
「……あのようにお綺麗な方ですもの、そうですよね。仕方の無い事なんですよね」
「マリア? 何言ってんだ、お前」
「だって」
ずっと小さく呟き続けていたマリアだったが、そこで堪えられなくなったようで小さく肩を震わせ始めた。
その様子で、ようやくマリアの考えている事に気付いたレオは、マッサージしていた手を離し、マリアの艶やかな茶色の髪を撫でると呆れ声で話し掛けた。
「勘違いするな。俺にはお前だけしか居ない」
「でも、私はかようなおぞましい力を持ち、自身で持て余している状態で、多くの方にこのようにご迷惑を掛けて、それに、それに、貴方が望んでも……」
「望んでも、何だ、マリア」
「私は、修道尼ですから……」
詫びるように呟いて肩を落としたマリアに、レオは大きくため息をつくと、その肩を抱いてマリアを仰向けにひっくり返して、間近からマリアの顔を覗き込んだ。
体を大きくビクつかせ、茶色の瞳を見開いたマリアに真顔を近づけたレオは、その頬を優しく撫でながら囁いた。
「心配するな。俺は無理強いしない。お前が望まない事は何もしない。だが、お前が望む事は何でもしてやる。お前の望みはなんだ」
「……私だけを見て」
ポロポロと涙を溢したマリアの、その涙を拭ってやってクスッとレオは笑った。
「それはもう叶ってる。俺はお前だけしか見てない。それから?」
「……もう一度、あの時みたいに」
「あの時みたいに?」
「愛してると」
「愛してる、マリア。何度でも言ってやる。愛してる」
ゆっくりと顔を近づけたレオを抗う事無く、瞳を閉じ受け入れたマリアは、重なった唇の熱さに次第に頬を赤く染め、レオの逞しい首に両腕を廻すと体を寄せるようにしがみ付いてきた。
マリアの心には恐怖など浮かんで来なかった。暖かい光が胸中に溢れ、入りきらない光の飛礫が、体育館中に広がっていくのを感じながら、何時もよりも濃厚な口付けを何度も繰り返すレオから離れまいと、夕陽が差し込み始めた体育館内に飛礫が舞うように楽しげに光を放ちながら踊る中で、綱渡りのような細い糸を手繰るようにしてめぐり合った絆の恋人同士は、この繋いだ手だけがこの先進む自分達の道の導だと、確かめ合うように体を寄せ続けた。
約束の期限の一週間を無事に終え、一旦は終了となったマリアの訓練は、『発動』が終わったら日を改めて継続して行う事となった。
「世話になったな、ベル。ジニア」
すっかり打ち解けたレオが、気軽に女傑二人に挨拶すると、何時もの修道服姿に着替え終わったマリアも、深々と二人に頭を下げた。
「次回のご教授も、是非宜しくお願い申し上げます」
「尼僧は中々筋がいいわ。今度カツラが戻ってきたら、是非習うといいわ」
ベルが可笑しそうにクスクスと笑い、ジニアも「そうね」とベルに微笑み返した。
「今度は何を習うんだ?」
二人の様子にレオが怪訝そうに聞き返すと、
「カツラはね、女忍者なのよ」
ジニアが喉をクックッと鳴らして嬉しそうに笑った。
「は? 現代にそんなもんが居るのか?」
「居るのよ、現実にね。ニナ、【核】も、その子に習って免許皆伝したわ。尼僧も免許皆伝になれば、近寄ってくる男なんて一撃よ」
「おいおい、俺のマリアを忍者にするつもりか? 冗談じゃない、やめてくれ」
呆れてブンブンと首を振ったレオを、ベルとジニアは顔を見合わせてケラケラと笑い転げたが、困った眉を寄せたままのマリアは、どうしたらいいのかと、困惑した瞳でレオを見上げた。
「心配するな。万一お前が忍者になっても俺が守る」
宥めるようにポンとマリアの頭を撫でたレオに、まだ忍び笑いを顔に浮かべているベルとジニアは満足そうに頷き合って、初々しさの漂う二人を静かに見守っていた。




