第六章 『発動』編 第一話
七月を迎えようとしていた英国の空には、ぽっかりと浮かぶ雲がゆっくりと流れ、燦々と降り注ぐ日差しは夏の訪れを感じさせて、緑の揺れる木々も大きく葉を広げて、その恵みを味わおうと吹く風に小さくユラユラと葉を揺らしていた。
マリアの訓練を終えた後、ベルト地帯の掃討作戦を展開している本隊と再び合流したレオは、一応の全ての探索を終え、兵士の詰め込まれた移送車に揺られて、ポーツマスへ帰還の徒についていた。
軍司令部での解散式が終わると、それまで厳粛な面持ちで機敏に行動していた隊員達も相好を崩して三々五々帰路に着く中で、宿舎に戻ろうとしたレオの肩を、背後からニックス・ベック二等准尉が叩いて呼び止めた。
「よお、お前もたまには飲みに来いよ」
「え、いえ、自分は」
レオに折られた前歯を、何処で調達したのか、ようやく差し歯にして元の顔に戻ったニックスは、まるでそんな事などもう忘れたかのように、レオの顔を下から覗き込んでニヤニヤと笑った。
「なんだ、嫁さんのとこにでも行くつもりか」
「いえ、もう夜半ですし」
「なら、付き合え。隊員同士親睦を図るのも任務の一環だぞ」
「……了解しました」
困惑して答えたレオをニックスはカラカラと笑った。
「おいおい、冗談だ。お前の嫁ほどじゃないが俺の嫁も美人でな。自慢させろ」
最近結婚したばかりのニックスが、幸せ一杯で笑っているのを、レオも苦笑を浮かべて頷いて賑やかな男達の輪に加わった。
結界外で暮らしていたというその女性を、ニックスがどうやって口説いてこの結界内に連れてきたのか、詳しい事は分からないが、今は明るい顔で笑っているその女性とニックスの幸せそうな様子を見て、レオも密かに心の中で安堵のため息をついた。
リバプールの出身で魚料理が得意だというその女性の心尽くしの手料理を肴にして、今日の疲れをエールやワインで癒す男達の中にあっても寡黙なレオだったが、居心地は悪くなかった。
「どうだ、俺の嫁も美人だろ」
酔いの廻った赤い顔で、ニックスがレオのわき腹を肘で突付いてニヤニヤと笑うと、クスッと笑ったレオは「ああ」と頷いた。
「明るい、いい顔になった」
微笑んだレオの言葉に、ニックスは眉を寄せレオの顔を覗き込み、
「俺の嫁を知ってるのか?」と怪訝げな顔をしたが、レオは小さく首を振って、気取られないようベック夫人をチラリと横目で見て、心配そうな顔の夫人に小さく頷いた。
レオがまだ、ベルト地帯で暴れていた頃に見知っていた顔である女の、自分と同じ様な汚れた過去をニックスに明かすつもりは無いという事を、幸せを掴んだ彼女に伝えたかった。
「料理の上手い、いい嫁さんだな」
「だろ? 沢山食えよ」
途端に明るく笑って、レオの目の前の大皿を勧めるニックスに、レオは穏やかに微笑んだ。
ところが、その穏やかな空気を掻き消すように「ブツッ」という鈍い音と共に、ザーザーと不穏な気配をもたらす耳障りな音が辺り一帯に広がると、男達は一斉に顔を上げた。
「緊急招集発令! 緊急招集発令! 全軍に出動命令、全員直ちに出頭せよ!」
普段なら決して鳴る事の無い、ポーツマスに張り巡らされた軍の非常スピーカーから緊迫した声が流れると、それまで酔いに任せて砕けていた男達は一瞬で兵士の顔に戻り険しい表情で立ち上がった。
「行くぞ!」
先程まで真っ赤な顔をしていたニックスも、良く気の付く新妻がすかさず差し出した冷たい水を一気に飲み、心配そうな顔の新妻を振り返りもせず、他の男達と共に軍司令部に向かって駆け出した。
何が起こったんだと、不安を浮かべた顔で走り出したレオを包み込むように、夜の帳が降り始めたポーツマスの街は、警報音が鳴り響く中、騒然とした空気に包まれていった。
「【核】が最後の逆行に入った。間もなく世界に『発動』が起こる。この『発動』に於いて何が起こるのかは、まだ全く判明していない。あらゆる事態を想定し、起こりうる危機に備え、異変あらば直ちに対応をせよ。全員、心して任務を遂行せよ」
「了解しました!」
軍司令部に集合したSAS全隊員を前にして、出撃訓示を行ったアーノルド・リンチ少将も、固い表情で僅かに緊張を見せていたが、揺るがぬ決意を見せた男達にゆっくりと頷いた。
「アレックス・ザイア曹長、貴君には別途任務がある。来たまえ」
異常事態に備えロンドン中心部の行政庁舎『ガイア2100』を中心に展開する事となったA部隊の隊員達は、もう既に兵士移送車へ乗り込み始めていたが、その中に居たレオをマクダウェル中佐が呼び止めた。
「了解しました」
短く返答しながらも、レオにはその任務が何かは、朧げながらも既に分かっていた。
ロンドンへと向かった隊員達とは別行動で、レオは単独で、車を聖システィーナ地区へ向かって走らせていた。
レオに課せられた任務は言うまでも無く、聖システィーナ修道院の院長であるマリア・バーグマンの護衛であった。
『発動』を迎える世界にとって、聖システィーナ修道院は重要な拠点であり、その院長であるマリアには、世界を守るための絶大な力が授けられていたが、反面、彼女は人を死に至らしめる負の力も抱えていた。
彼女の暴発が世界を破滅に追い込まないように、暴走した彼女に近づける唯一の人間としてのレオに科せられた使命は、重くレオに圧し掛かっていたが、それを重荷だと思った事などレオには一度も無かった。
昼間は穏やかに晴れていた空に、南から湧き立つように押し寄せてきた雲は、夕焼けとも思えぬ不気味な赤黒い色を発光させながら上空を覆いつくそうとしていた。
――何が、一体、何が起こるんだ。
【核】と【鍵】が齎すという『発動』について、詳しく知らないレオにとって、湧き上がる不安を抑えるのは困難であったが、自分が不安を見せれば、それがマリアの不安に繋がる事は良く分かっていただけに、バクバクと音を立てる鼓動を静めようと、レオはただひたすらマリアだけを思って、赤い闇に沈み始めたハイウェイを、アクセルを踏み込んで車を走らせた。
「マリア!」
修道院に到着すると、脱兎の如く駆け出しマリアの姿を求めて、叫びながら走り込んできたレオだったが、小道を小走りに礼拝堂に向かおうとしていたマリアと出くわすと、青褪めた顔のマリアは、レオに縋りつくように駆け寄って抱き付いた。
「ザイア曹長様!」
「マリア、無事か?」
「はい。世界に、『発動』が起こります。私も祈らねばなりません。礼拝堂へ!」
マリアに促されて、時計塔脇の小さな礼拝堂に一緒に飛び込んだレオの前では、もう修道尼達が揃って祭壇に向かって全霊で祈りを捧げていて、彼女達が奏でる賛美歌から発せられる守護の白い光が、次々と南に向かって放たれていくのを、レオは入口に立ったまま、呆然と眺めていた。




