最終章 最終話
ポーツマスを出て順調に疾走している黒塗りのコンチGTCには、開けた窓から吹き込む初夏の気持ちのいい風に茶色の髪を靡かせているマリアの姿があった。
「家具屋が遅れた所為で少し遅くなったな」
ハンドルを握りながら苦笑を溢したレオを振り返って、マリアも小さくクスッと笑った。
「兄様に叱られてしまうでしょうか」
「まぁな。アイツの事だから、苛々しながら待ってるぞ、きっと」
足音も高く行きつ戻りつしているコンラッドの姿を思い浮かべて、レオはフッと笑った。
あのロシアでの戦闘の前にコンラッドが宣言をしていた通りに、聖システィーナ修道院で結婚式を挙げる為に向かっていたマリアとレオであったが、二人で住む事になる丘の上のSAS上級士官用の新居への引越しの手筈が遅れ、約束の時間が間近に迫っている事に少し焦りを感じていたレオであったが、スピードには弱いマリアを気遣って、のんびりと車を走らせていた。
ところがもう間も無く聖システィーナ地区に入るという場所で、大荷物を積み上げた荷車をおぼつかない足取りで引いている一人の老婆の姿を見つけたマリアが、「あ」と声を漏らして通り過ぎたその老婆を目で追った。
「どうした?」
「止まって下さいますか? ザイア少佐殿」
心配そうな顔で後ろを振り返りながら言ったマリアに、マリアは軍を辞めもう軍人では無いというのにと、何時まで経っても敬語の抜けないマリアに内心の苦笑を噛み殺して、レオはゆっくりと車を止めた。
後部座席に陣取った老婆は、手持ちの布袋から大きなオレンジの実を取り出して助手席のマリアに「はいよ」と手渡しながら、機嫌良さそうにカラカラと笑った。
「アタシゃバーミンガムの生まれなんでね。まぁ此処も住み良い所ではあるけど、故郷に骨を埋めたいんでね」
世界崩壊を受けて聖システィーナ地区に移住していたこの老婆は、世界が落ち着いた今、生まれ故郷に帰るのだと、たった一人だけで大荷物を引いて二百kmは超える距離を歩いて帰ろうとしていたのだった。
「此処までいらっしゃるのも大変でいらしたでしょう?」
貰ったオレンジを手にマリアが振り返って訊ねると、老婆は首を竦めてニイッと笑った。
「農家育ちだからね。荷台一杯に荷物を載せて荷車を引くなんざ、何でもない事さ」
ケタケタと明るく笑う老婆に気圧されて、レオも苦笑を浮かべていた。
聖システィーナまで行けば、誰かと連絡を取り合ってこの老婆をバーミンガムまで送り届ける事も出来そうだとは思ってはいたが、動き始めた世界で皆多忙な中、もし見付からなかったらと思案したレオは、きっと同じ事を思っているのであろうマリアの曇った表情を横目で見て、「よし」と明るく言った。
「じゃあ、このままバーミンガムまで向かうか」
「え」
途端に明るい表情に変わったマリアの嬉しそうな顔に微笑み掛け、「そりゃ、ありがたい」と一層皺を深くした老婆に「ちょっと飛ばしますのでご注意を」と軽口を利いてハンドルを左に切ったレオは、笑顔でアクセルを踏み込んだ。
陽光の降り注ぐハイウェイを疾走するレオは、助手席のマリアが時折後ろを振り返りながら老婆と楽しげに話している様子を横目に穏やかな気持ちだった。
以前は、この車を走らせていても行き交う車も殆ど無かったが、今は時折すれ違う車がゆっくり通り過ぎるのを懐かしく感じていた。
「お前さん、そんなに速く走っちゃダメだよ」
後部座席で自分が持ってきたオレンジを、車内で器用にナイフを入れホイホイと機嫌よくマリアに次々と手渡していた老婆が、唐突にレオを睨んで言った。
「いや、だが、バーミンガムまでは結構な距離があるぞ。のんびり走ってたら日が――」
暮れちまうと言い掛けたレオを遮って、老婆はオレンジを頬張りながらフンと鼻で笑った。
「女房のお腹の子に触るだろうが。アタシゃずっと助産師をしてたんでね。分かるんだよ」
戸惑いが「え」と口に出たレオも、まだ何の兆候も感じていないマリアも困惑した顔を見合わせた。
しかしマリアには彼女の言う事に思い当たる節があった。
昨夜レオに愛された時、自分の両掌の中にある光の珠達が、掌がくすぐったくなるほど跳ね回っているのを感じて、充足感で満ちていた自分がその光に包まれている感触に、心地よく身を委ねていたからだ。
――きっと、双子の男の子だわ。
何故自分がそう思うのか自分自身では分かってはいなかったが、マリアはまだ見た目には分からないお腹をそっと撫でて、嬉しさに頬を赤く染めて微笑んだ。
そのマリアのさり気無い仕草を横目で見て、レオもきっとそうなんだろうと思っていた。
老婆の諫言に従って少しスピードを緩めて、老婆が身を乗り出すようにしてマリアに向かって妊娠初期の注意事項を捲し立てているのを聞きながら、レオは綻ぶ頬を緩めて笑っていた。
イングランドに戻りSASに復帰したレオには、これからも緊張渦巻く軍人としての世界が待っている筈であったが、再び道を歩み始めた人類の未来に不思議と一点の曇りすら感じず、自分の傍らに常にマリアが居る喜びに震える胸は、大草原に一本の大木が凛と聳え立つ、見た事も無い筈なのに何故か懐かしく感じる暖かい風景を映して穏やかに凪いでいた。
――俺はこれからも、マリアを守って生きていく。
初めて出会ったあの日に約束した誓いの言葉を、何度も心の内で繰り返しながら、眩しい陽光の差す明るい道を真っ直ぐに、未来に向かってレオは走って行った。




