番外編 小猿と黒豹 2
最上階の時計室では、大きな文字盤の裏で時を刻み続ける大きな仕掛けが、休む事無く動き続けていた。
「此処がこう動いて、こっちを動かして、んで、こっちがこう動くのか」
ロドニーは、繁々とその機械が黙々と動いているのを眺めていて、右から見たり、左から覗き込んだりと忙しそうに動き回っていた。
「おい」
扉が開けられた事に気付いていなかったロドニーは、突然掛けられた声に一瞬ビクッとしたが、その相手がレオだと分かると、フンと鼻で笑った。
「何だよ、レオかよ」
物怖じもせずに呼び捨てで呼ぶロドニーに、レオも困惑した眉を寄せて小さく笑った。
「何だとは何だ。この小猿め」
階段の途中の小窓から降ろされた簡易縄梯子は、隣の校舎の屋上にある太陽光パネルの点検用だったが、その窓枠の埃の上についた小さな手形を見つけていたレオは呆れて呟いた。
「お前な、校舎の屋上まで、どうやってよじ登ったんだ。落ちたら死ぬぞ」
「あんなもん、軽いもんだよ。島ではもっと高い木にも登ったんだ」
身軽が自慢のロドニーは、アチコチを煤だらけにして、真っ黒になった手で得意そうに鼻を掻いたので、鼻の頭を真っ黒にしたままフフンと笑って、余計にレオはその姿に笑みを浮かべた。
英領ヴァージン諸島で大人達に置き去りにされたロドニーら十人の子供達は、食べる物も無い過酷な環境で何年も生き抜いてきた。
街の商店などに残されていた食料は、あっという間に底を尽いてしまい、山の果樹園に自生していたフルーツや、森の木々の恵み、小さな鳥や鳥の卵などを取って食べていた子供達にとっては、高い木の上にあるご馳走を手に入れるためには、死も恐れず上を目指すしか無かったのだ。
特にこのロドニーは、天性の恵まれた運動神経で、仲間のために食料を調達するのが役目だった。
妹を仲間を守る為に、どんな危険も平気で冒すその図太い神経は、此処穏やかな英国へ来ても中々変わらず、それが尼僧達を手こずらせる原因だった。
「授業で、時間の事をやっていたようだからな。お前の事だから、実物が見たいと此処へ向かったんだろうと思った」
「何で分かるんだよ」
ムッとして返したロドニーをレオはクスッと笑った。
「お前は単純だからな。分かりやすい」
「馬鹿にするなよな」
フンとそっぽを向いたロドニーにレオは首を竦めて言った。
「皆が探してるぞ、教室に帰れ」
「お前になんか命令されないぞ。俺が言う事を聞くのは、ローラと院長先生だけだ」
少し頬を赤らめて、そっぽを向いたまま剥れているロドニーに、レオは呆れて小さく息をついた。
ローラ・アデス准尉は、コンラッドと同じ『ブリストル』に勤務する通信士で、今はコンラッドの妻だった。
BVIで子供達を保護して英国に輸送する間、付きっ切りで面倒を見たローラは子供達にとって母親のような存在だった。
そしてロドニーが時折、憧れの篭った眼差しでマリアを見ている事にレオは気付いていた。
きっとこれが、ロドニーの初恋なんだろうなと察していたレオであったが、そのマリアを手中にしているのは自分であり、だから、自分には反発するのだろうと、目の前で剥れている小さな少年に、レオは穏やかな目を向けた。
「お前がしょっちゅう居なくなるお陰で、マリアは何時も困ってる。お前、マリアを困らせたいのか?」
「院長先生をマリアって呼ぶな! 馴れ馴れしい」
噛み付きそうな顔をしたロドニーをレオはフッと笑った。
「そりゃ無理だ。俺はマリアを愛してるからな」
「俺は認めないぞ! お前みたいな奴!」
「でもマリアも俺を愛してる。それは、俺がマリアをずっと守っていくと決めたからだ。俺は彼女を生涯守って彼女を困らせるような事はしない。お前に出来るか? ロドニー」
静かに諭したレオに言い返せず、ロドニーは言葉を詰まらせた。
院長先生の気を引きたくて、ついつい調子に乗ってしまう自分が居る事を見透かされて、不機嫌そうにロドニーはそっぽを向いた。
「外を見ろ、ロドニー」
大きな文字盤の横にある小さな窓から見える外の景色を、レオはクイッと顎で示した。
「外はこんなにも広い。だが、これでも世界の中のほんの一握りの、小さな一部に過ぎないんだ。世界は目も眩むほど広い。だがお前はその世界を一望出来るような、そんな人間にならなきゃいけない」
「……どうして?」
言われた通りに窓から外を眺めて、暖かさを増した風に吹かれながら金髪を揺らすロドニーは、怪訝そうに隣のレオを見上げた。
「それが、マリアの望みだからだ」
「院長先生の望み……」
「そうだ。マリアはお前達に、これから産まれてくる沢山の子供達の、兄や姉になって欲しいと思ってる。そしてお前達が先導して、新しい世界を作って欲しいと思ってる」
「大佐もそう言ってた」
思い出したようにロドニーが呟いた。
ロドニー達が保護された時に、『ブリストル』の艦長サヴァイアー大佐は、同じ思いを子供達に伝えていた。
「ああ。クリスも、教育相のテリーも、俺も。皆がそう思ってる。俺達が壊しかけたこの世界を、お前達が新しくちゃんとした世界に作りかえるんだ。お前はマリアの望みを叶えられるか?」
レオはもう一度、今は考え込んで顔を俯けているロドニーを問い質して、その金髪をグリグリと撫でた。
「お前がそれを成し遂げて、一人前の男になったら俺に勝負を挑め」
「勝ったら院長先生を俺にくれるのか?」
「いや。俺は負けないからな」
ニヤリと不敵に笑ったレオに、ロドニーはぶん剥れた顔で、頬を真っ赤にしてレオの足を思いっきり踏みつけて駆け出すと、入口の扉で振り返ってベーと舌を出してレオを睨んだ。
「何時かお前をぶん殴ってやるからな!」
「おう、何時でもいいぞ。体を鍛えておけよ」
からかうように笑って返したレオにロドニーはフンと顔を背けると、階段を一気に駆け下りて行った。
「おい! あの縄梯子は使うなよ! 一階の扉が開いてるからな。其処から出ろよ!」
「うるさい!」
その後を追って階段下に向かってレオが叫ぶと、もう遥か下の階から不機嫌そうな返事が返ってきて、呆れたレオは付け加えた。
「お前があそこを使ったと分かると、マリアは泣くだろうな」
そう叫び返すと、不機嫌そうながらも、足音がずっと階下に降りていくのを、レオは笑いながら聞いていた。
「何故あそこだと分かったのです?」
その日の夕暮れ、バーグマン尼僧は修道尼棟へ戻りながら、付き添って横を歩くレオを怪訝そうに見上げて訊ねた。
「自分もきっとあそこに行くだろうと思ったからさ。動かない図を見るより現物を見たほうが早い」
クスクス笑っているレオにバーグマン尼僧は困った眉を寄せた。
「本当にあの子はやんちゃで、元気なのはいいのですが、危険な事ばかりで……」
「ああ。もう大丈夫だ、マリア」
「え?」
「あの子はお前を泣かすような事はしない」
笑って答えたレオに、バーグマン尼僧は少し戸惑って首を傾げて、大きな茶色の瞳の困惑した顔でレオを見上げていた。
艶やかな赤い唇が、小さく物言いたげに開かれているのを見て、その唇を奪いたい衝動に駆られたレオだったが、その思いをようやく胸の奥に飲み込んで、立ち止まり顔を引き締めると敬礼を返して言った。
「陸軍第二十二SAS連隊A部隊、軍曹アレックス・ザイア、本日の警護を終了致します」
そして敬礼を解き、振り返って見ているバーグマン尼僧に穏やかな笑みを見せて、最後に言った。
「おやすみ、マリア」
その言葉に、安堵した頬に紅を浮かべたバーグマン尼僧が、嬉しそうに「おやすみなさい」と返すのを、レオは胸に灯る明るい光を感じながら、静かに見守っていた。




