第二章 第六話
次の休みの日に、ロンドンまで用事で出掛ける同僚の車に便乗させてもらったレオは、聖システィーナ修道院の前に降り立った。
海峡沿いにある古い歴史を持つこの修道院は、簡素な石造りではあったが、長い年月に黒ずんだ石積みがその歴史を物語っていた。
大きく開かれた大門の前で、暫く躊躇って立ち尽くしていたレオだったが、決心したように修道院に足を踏み入れると、中の空気は外よりも清廉で、息苦しい重圧感に、レオは己の罪科の存在をひしひしと感じていた。
自分のような存在を受け入れる場所では無いのだと、そう感じて引き返したい気持ちになったレオだったが、小道の奥にある小さな礼拝堂に気付くと、磨き上げられた真鍮の取っ手を取り、少し音を立てる木の扉をゆっくりと開けた。
簡素な石造りの外観から想像も付かない、天井一面を覆っている壮麗なステンドグラスに、レオは驚いて天井を見上げた。
正面の祭壇には十字架と乳白色に輝くマリア像が、この不似合いな珍客にも静かな光を放って、咎める事無く見下ろしていた。
「ようこそ、聖システィーナ修道院へ」
鈴を転がすような涼やかな美しい声がした方向にレオがハッと顔を向けると、祭壇の横には、きっちりと修道服に身を包み、大きな茶色の瞳を輝かせている一人の尼僧が立っていた。
「あ、あの……」
「私は当院の院長バーグマンと申します。初めてお目に掛かります」
穏やかな笑みを浮かべたバーグマン尼僧の微笑は、本当にマリアのようだとレオは思った。
美しい曲線を描く眉の下の、くっきりとした大きな茶色の瞳には清廉な光が感じられ、艶やかな赤い唇は紅も塗っていないだろうに、引き締まった口角が穏やかな笑みを作っていた。
「自分は、陸軍第二十二SAS連隊A部隊軍曹アレックス・ザイアであります。先日、ポーツマスに配属されました」
気を取り直して敬礼を返したレオは、形式張った堅苦しい挨拶を返したが、それが此処に相応しいのだろうかと挨拶した後で不安になった。
「それは、任務ご苦労様でございます。このような何も無い小さな院ではございますが、何方も分け隔てなくお迎えをしております故、どうぞ何時でもご来訪下さいまし」
この人が、あのアデス中尉の妹君なのか、とレオは呆然と思った。
確か五歳で養父から性的暴行を受け、その後は小児性愛者に売られた筈の、恥辱に塗れた人物とはとても思えなかった。その佇まいからは、聖なる柔らかい光に満ちた慈愛しか感じられず、ローラが言っていた通り、やはり別人なのかもしれないとレオは思った。
困惑したレオが目を見開いてバーグマン尼僧を見ているのを見て、バーグマン尼僧は静かに問い掛けた。
「今日はお祈りにいらしたのでしょうか?」
その言葉に我を取り戻したレオは決心した顔を上げて「今日は、懺悔にまいりました」と真剣な顔で告白した。
「お伺い致します。どうぞ、こちらへ」
静かにレオを誘ったバーグマン尼僧の後に付いて、レオはまた、一歩を踏み出した。
レオの長い懺悔の間、バーグマン尼僧は言葉を挟む事無く、ただ黙って聞いていた。
あの懲罰室と似ているなと、レオは思った。自分で自分の過去を振り返り見つめ直し、自分で自分自身を受け入れる、あの時、何度も何度も自分の人生を書き直させられた時の事を思い出しながら、また己の薄汚れた半生を突き付けられていたレオは、また最後には泣いていた。
「貴方様が結界に受け入れられたという事は、最早貴方様の魂から穢れが払拭されたという事です。貴方様は、ご自分のお力で自らの穢れを祓ったのです」
レオの懺悔を聞いて、バーグマン尼僧は静かに微笑んだ。
「でも、それでいいんでしょうか。俺が殺した人達はそれで許してくれているんでしょうか」
「彼らは、今は神の元に居られます。いえ、もう新しい生を得て、生まれ変わっているかもしれません。皆、次なる新しい道を歩き始めているのです。貴方様も前に進まねばなりません」
「しかし」
「貴方様が以前に、Ms.ジニア・ニールセンに投げ掛けた言葉の通りなのです。この世界に生きていい魂と死んでいい魂は存在せず、その線引きも存在はしません。失われた命は等しく尊く、そして、生き残った命も等しく尊いのです。貴方様は、そのご自分の尊い命を、新しく生まれ変わろうとする世界に捧げなければなりません。スラムで産まれる子など存在しない、そんな世界を、作り上げねばなりません。誰もが等しく尊く生きられる、その世界を作る為に、貴方様は生かされているのです」
コンラッドが言った事と同じだとレオは思った。その根底には、【鍵】と呼ばれる青年が残した次代への願望が、色濃く反映されているのだと思った。
遠い、遥か遠い存在だと思っていた【核】と【鍵】の息吹が直ぐ其処に感じられるような気がして、レオは静かに微笑みを浮かべているバーグマン尼僧に小さく頷いて、懺悔室の椅子から静かに立ち上がった。
「ところで、何故近くの教会ではなく本院へ来られたのでしょう?」
帰り際にバーグマン尼僧が、何気なくレオに問い掛けた。
「教えて貰ったんです。以前同じように悩んでいた軍人がおられて、此処へ来て生まれ変わったと。まだ、世界が崩壊する前の事だったようですが」
「では前任のオルブライト尼僧様のお力ですね。私などまだ未熟で、申し訳ありません」
申し訳なさそうに頭を下げたバーグマン尼僧にレオは慌てて手を振った。
「いえ、とんでもない。お話を聞いて下さってありがとうございました。俺も、コンラッド・アデス中尉殿ほどまではいかなくても、とても気持ちが楽になりました」
照れて頭を掻いたレオだったが、頭を下げたまま体を強張らせたバーグマン尼僧の異変に気付いて、怪訝そうに声を掛けた。
「尼僧?」
バーグマン尼僧は強張ったままの体勢で、震える小さな声でレオに問うた。
「今、何と、誰とおっしゃいました?」
「コンラッド・アデス中尉殿です。貴女は本当に中尉殿の妹君なんですか?」
レオが戸惑った声を掛けると、頭を下げたままバーグマン尼僧は細かく震え出した。
「コンラッド……コンラッド……兄様……」
囁き声が止まると、空を切り裂く絶叫を上げたバーグマン尼僧が崩れ落ちるのと、それをレオが手を差し伸べて支えるのと同時に、何事かと奥から駆け寄ってきた尼僧達の強張った顔を見て、レオは狼狽して叫んだ。
「違う……違う! 俺は何もしてない! 俺は!」
蒼白になったバーグマン尼僧の体を抱えて、襲い来る絶望の中、レオは必死で叫んでいた。




