第15話 古城へ
グラズヘイム大樹海の深奥。
木々の隙間から差し込む朝の光の向こうに、重厚な石造りの古城がそびえ立っている。
冷たい空気が肌を撫でる。
俺は堅牢な紋扉の前で足を止め、隣に立つ白銀のエルフの王女へ視線を落とした。
「……着いたな。もう一度言うが、怪しいメイドがいるが気にしないでくれ。ちなみに俺も初対面に近い」
シルヴィアは、王宮から纏ってきた深海のサファイア・ローブの裾を指先で握っていた。
白い指が、わずかに布地へ食い込んでいる。
そのまま顔を上げ、古城を見つめた。
「……え、ええ。分かってます」
小さく息を吐く。
緊張しているらしい。
朝風が吹き抜け、腰まで届く白銀の髪が静かに揺れた。
その隙間から覗く蒼眼が、もう一度俺を見上げる。
「じゃあ、開けるぞ」
俺が紋扉へ手を伸ばす。
重い扉が、ゆっくりと開いた。
冷たい朝の光が、静かなエントランスへ流れ込む。
薄暗い城内へ光の筋が伸び、その先で眼鏡がきらりと輝いた。
翠玉の瞳が、光の向こうから俺たちを見つめている。
「お帰りなさいませ、アルノ様。――そして、ヴァルキア王国第二王女シルヴィア殿下。心より歓迎いたしますわ」
メイドが軽やかに頭を上げた。
クロエラ・プロヴィデンシア。
栗毛色の髪を後ろへまとめ、白磁のうなじを覗かせている。
黒のタイトなロングスカート。
純白のエプロン。
その立ち姿には、一分の隙もない。
いつも通りの美しい微笑み。
そして、眼鏡の奥で静かに光る翠玉の瞳。
そこには、相変わらず底の見えない何かがあった。
「初めまして、シル……ん?」
シルヴィアが言葉を止める。
蒼眼が細くなった。
「私の名前を知ってるんですか?」
わずかな間。
まだ一度も名乗っていない。
それなのに、目の前のメイドは自分の素性を知っている。
「うーん? まぁ、細かいことは気にせずに。私はアルノ様に雇われているクロエラ・プロヴィデンシアと申します。よろしくお願いいたしますね」
クロエラは人差し指を眼鏡のブリッジへ添えた。
そのまま、何事もなかったように押し上げる。
答える気はないらしい。
「ただいま、クロエラ。昨日は連絡もなく、一日空けてすまなかった」
俺は二人の間へ一歩進んだ。
「何も問題ございません」
クロエラの微笑みは崩れない。
「お昼の用意が整っております。荷物を置き次第、食卓へお越しください」
白い手が、城の奥へ向けられる。
「シルヴィア様のお部屋も、アルノ様のお隣に用意しております」
「ああ、ありがとう、クロエラ」
相変わらず、完璧すぎる手際だ。
「シル、部屋で旅行鞄を出すから。俺の部屋の隣ってことだから、案内するよ」
「は……はい。分かりました。ありがとうございます」
シルヴィアが小さく頭を下げる。
まだ少し緊張している。
そんな彼女を横目に、俺たちは城内へ入った。
クロエラの背後には、大理石の大階段があった。
中央から左右へ分かれている。
翼を広げたような、壮麗な階段だ。
朝の光が大理石の表面を滑り、薄い影を階段の奥へ落としている。
その先が、俺たちの居住階だ。
俺の居住区画には四つの部屋がある。
中央の階段を挟んだ向かい側には五つ。
そのうちの一室が、クロエラの部屋になっている。
「そんなに緊張しなくていい」
俺はシルヴィアへ声をかけた。
「今日からここが君の家なんだ。俺もほぼ初日に等しいんだ。一緒に慣れていこう」
「……ふふ。分かりました」
シルヴィアの口元が柔らかく緩む。
「これからよろしくお願いしますね」
「ああ、こちらこそ。よろしく。何か不自由なことがあれば言ってくれ」
俺たちは大階段を上った。
一段。
また一段。
その途中から、シルヴィアの肩から少しずつ力が抜けていく。
白銀の髪も、先ほどまでより柔らかく揺れていた。
蒼眼に浮かんでいた緊張が薄れ、代わりに穏やかな光が宿っていく。
俺は、その変化を横目に見ていた。
大階段を登りきる。
俺たちは左側の廊下へ入った。
中央の階段に近い二つの部屋は、隅々まで磨かれている。
俺の部屋。
そして、その隣の部屋。
床には埃一つない。
扉も綺麗に磨かれている。
どちらもクロエラによって整えられていた。
だが、その先は違った。
固く閉ざされた扉。
分厚い蜘蛛の巣。
薄暗い廊下の奥で、灰塵に覆われた部屋が並んでいる。
朝の光もそこまでは届かず、扉の周囲には濃い影が落ちていた。
その落差に、シルヴィアが足を止める。
「あれ……? アル。あのお隣の部屋は……?」
「ああ、あそこはまだ使えない空き部屋のようだ」
俺も一度、閉ざされた扉を見る。
「後でクロエラに言っておこうか」
「……は、はい。何か理由があるんでしょうね」
シルヴィアは長い耳を小さく揺らした。
けれど、それ以上は追及しなかった。
俺たちは埃を被った部屋を後にする。
「さて、この旅行鞄だけ置いていってくれるか?」
俺は出発前に影の底へ沈めていた荷物を取り出す。
足元に真紅の魔法陣が浮かび、影の中から旅行鞄が姿を現した。
魔法陣が消える。
俺は鞄をシルヴィアへ渡した。
「ええ。なんだか、さっき走ったおかげでお腹が空いてきました」
シルヴィアが鞄を受け取る。
その指先が持ち手を握った。
サファイア・ローブの裾が軽く揺れる。
彼女が自分の部屋へ歩き出す。
その背中を見送る。
朝の冷気の中に、月下香の甘い香りだけが静かに残っていた。
俺たちは、それぞれの部屋へ荷物を置いた。
そして、クロエラの待つ食堂へ向かった。
「……おいおい、これはまた凄いな」
食堂の扉を開ける。
俺は思わず足を止めた。
大きなテーブルいっぱいに料理が並んでいる。
温かな湯気が幾筋も立ち上り、冷えていた空気まで少しずつ暖めていた。
「えっ……これ、本当にクロエラさんお一人で、作られたのですか……!?」
シルヴィアも目を丸くする。
さっきまで大樹海を走っていた。
腹は減っている。
それでも、この量と豪華さには驚いたらしい。
「ふふ。主様とシルヴィア様のために、ご用意させていただきましたわ」
クロエラが微笑む。
「おやっ……」
その瞬間だった。
クロエラの足が止まった。
視線が足元へ落ちる。
何もない。
なのに。
次の瞬間、身体が傾いた。
栗毛が大きく揺れる。
眼鏡がずれる。
そのまま、見事に転倒した。
「……おや、いつもの運命が私に悪さを働いてしまったようですね、主様」
クロエラは何事もなかったかのように立ち上がった。
斜めになった眼鏡を指先で直す。
その微笑みには、動揺の欠片も浮かんでいない。
隣では、シルヴィアが完全に硬直していた。
俺は二人を見て、少しだけ笑った。
席につく。
クロエラが用意してくれたスープを口に運ぶ。
温かな湯気が鼻先を撫でる。
冷えていた身体に、ゆっくりと熱が広がっていった。
食卓に穏やかな空気が広がる。
しばらくして。
クロエラが何気ない調子で口を開いた。
「主様、オズワルド様との件は、滞りなくお済みになりましたの?」
「……ああ」
俺はスープを置いた。
「クロエラのおかげで助かったよ。君がオズワルド殿に話をつけていなければ、危ないことになっていただろう」
「いえ。お役に立てたのであれば、光栄です」
クロエラの声に変化はない。
俺は正面のメイドを見る。
「……もう俺はクロエラのことに口出しはしない」
一度、言葉を切る。
「理由も聞かない。君の好きなようにやってほしい」
それから、もう一度クロエラを見る。
「ただ、いつかは教えてほしい」
「……ふふ」
クロエラが微笑む。
眼鏡の奥で、翠玉の瞳が細くなった。
「あえて言うならば、運命の導きが私に降りてきたということだけですわ」
人差し指が眼鏡のブリッジへ触れる。
「その時が来たら、アルノ様にもきっと分かることでしょう」
やはり、煙に巻くつもりらしい。
俺は小さく息を吐いた。
相変わらず、訳の分からないメイドだ。
だが、今はそれ以上聞いても答えは出ない。
「そうか」
俺は話を切り替えた。
「……そういえば、俺ら三人の部屋以外の残り六つの空き部屋は、まだ手付かずのようだが」
クロエラを見る。
「それ以外は完璧なのに、あのまま置いておくのか?」
翠玉の瞳が、俺の紅の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「……ええ」
クロエラは静かに答えた。
「あそこの部屋には、まだ動かしてはならない大切なものが据え置かれております」
わずかな間。
「しかるべき時が巡り、しかるべき誰かが訪れれば、自然と開きますわ」
「……分かった」
俺はそれ以上聞かなかった。
「信頼している」
「あの……アル」
隣からシルヴィアの声がした。
「お二人はいつの間に、そんなオズワルド様を動かすようなお話を……?」
蒼眼を丸くしている。
どうやら、かなり気になっていたらしい。
「いや、何でもないさ」
俺はスプーンを置いた。
「俺にも分からないことだ」
世の中には、触れない方がいいこともある。
今ここで考えても、答えには至らない。
「クロエラ、珈琲を頼めるか?」
「はい。かしこまりました」
クロエラが立ち上がる。
「シルヴィア様はいかがされますか?」
「では、私もお願いします」
「アルノ様は砂糖なしで、シルヴィア様は砂糖二つでよろしいでしょうか?」
「ええ……っ!?」
シルヴィアが息を呑んだ。
蒼眼が大きく見開かれる。
「な、なぜ私のそんな個人的な好みを、クロエラさんが知っているのですか……っ!?」
耳まで赤くなっていた。
その場に、短い沈黙が落ちる。
今日、この城に到着したばかりだ。
そんな私生活の話など、まだ一度もしていない。
俺も違和感を覚えた。
俺がブラックを好むこと。
シルヴィアが甘党であること。
どちらも、クロエラに話した記憶はない。
なのに。
なぜ一度も会ったことがないはずのヴァルキア王女と、俺の嗜好まで知っている?
「今、神からの啓示を受けたのです」
クロエラは平然と答えた。
「では、準備してまいりますね。少々お待ちくださいませ」
そう言って、一礼する。
そのまま食堂を出ていった。
俺は、その背中を見送った。
そこで、ふと思いつく。
ちょっとした仕返しだ。
「そういえば、シル」
「はい?」
「明日から俺の盾の訓練に付き合ってくれるか?」
シルヴィアが瞬きをする。
「まだ実践的に使用していないんだ。それに、シルの力についても助言できるかもしれない」
「ええ。任せてください」
シルヴィアの表情が明るくなる。
「私の侵食消滅を試すのですね」
「ああ、その通りだ」
「私が、アルの力になれるのなら頑張ります」
「よろしく頼む」
「はい! こちらこそよろしくお願いします!」
蒼眼に、負けん気の強さが戻っていた。
その奥には、嬉しそうな光も宿っている。
先ほどまでの戸惑いは、いつの間にか消えていた。
肩から力が抜ける。
すぐそばから、月下香の香りが静かに漂った。
冷たい朝の空気の中でも、その香りだけは柔らかく、シルヴィアがここにいることを静かに伝えている。
俺はその香りを感じながら、シルヴィアを見る。
その時だった。
「お待たせいたしました」
トレイを携えたクロエラが戻ってくる。
「あら、何の話をされていたのでしょうか?」
クロエラは白磁のカップを並べた。
音はほとんどしない。
指先がカップから離れる。
そして、お茶目に首を傾げた。
「……秘密だ」
「……ふふ。まぁ、それは楽しみですね」
俺は珈琲を口に運ぶ。
温かな苦味が舌に広がり、そのまま喉を通っていく。
仕返しができたことに、ほんの少しだけ満足する。
相変わらず素性の知れない女だ。
だが、その味と手際だけは間違いなく本物だった。
「ああ、今日も珈琲が美味い」
勇者に対抗するための力を鍛える。
新しい日常の幕が、香ばしい湯気の向こうから静かに上がり始めていた。




