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ANTINOMY INFINITY ―アンティノミー・インフィニティ―   作者: Kraizen
第2章

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第15話 古城へ


 グラズヘイム大樹海の深奥。


 木々の隙間から差し込む朝の光の向こうに、重厚な石造りの古城がそびえ立っている。


 冷たい空気が肌を撫でる。

 俺は堅牢な紋扉の前で足を止め、隣に立つ白銀のエルフの王女へ視線を落とした。


「……着いたな。もう一度言うが、怪しいメイドがいるが気にしないでくれ。ちなみに俺も初対面に近い」


 シルヴィアは、王宮から纏ってきた深海のサファイア・ローブの裾を指先で握っていた。

 白い指が、わずかに布地へ食い込んでいる。

 そのまま顔を上げ、古城を見つめた。


「……え、ええ。分かってます」


 小さく息を吐く。

 緊張しているらしい。

 朝風が吹き抜け、腰まで届く白銀の髪が静かに揺れた。

 その隙間から覗く蒼眼が、もう一度俺を見上げる。


「じゃあ、開けるぞ」


 俺が紋扉へ手を伸ばす。

 重い扉が、ゆっくりと開いた。


 冷たい朝の光が、静かなエントランスへ流れ込む。

 薄暗い城内へ光の筋が伸び、その先で眼鏡がきらりと輝いた。

 翠玉の瞳が、光の向こうから俺たちを見つめている。


「お帰りなさいませ、アルノ様。――そして、ヴァルキア王国第二王女シルヴィア殿下。心より歓迎いたしますわ」


 メイドが軽やかに頭を上げた。


 クロエラ・プロヴィデンシア。

 栗毛色の髪を後ろへまとめ、白磁のうなじを覗かせている。

 黒のタイトなロングスカート。

 純白のエプロン。


 その立ち姿には、一分の隙もない。

 いつも通りの美しい微笑み。

 そして、眼鏡の奥で静かに光る翠玉の瞳。


 そこには、相変わらず底の見えない何かがあった。


「初めまして、シル……ん?」


 シルヴィアが言葉を止める。

 蒼眼が細くなった。


「私の名前を知ってるんですか?」


 わずかな間。

 まだ一度も名乗っていない。

 それなのに、目の前のメイドは自分の素性を知っている。


「うーん? まぁ、細かいことは気にせずに。私はアルノ様に雇われているクロエラ・プロヴィデンシアと申します。よろしくお願いいたしますね」


 クロエラは人差し指を眼鏡のブリッジへ添えた。

 そのまま、何事もなかったように押し上げる。

 答える気はないらしい。


「ただいま、クロエラ。昨日は連絡もなく、一日空けてすまなかった」


 俺は二人の間へ一歩進んだ。


「何も問題ございません」


 クロエラの微笑みは崩れない。


「お昼の用意が整っております。荷物を置き次第、食卓へお越しください」


 白い手が、城の奥へ向けられる。


「シルヴィア様のお部屋も、アルノ様のお隣に用意しております」


「ああ、ありがとう、クロエラ」


 相変わらず、完璧すぎる手際だ。


「シル、部屋で旅行鞄を出すから。俺の部屋の隣ってことだから、案内するよ」


「は……はい。分かりました。ありがとうございます」


 シルヴィアが小さく頭を下げる。

 まだ少し緊張している。

 そんな彼女を横目に、俺たちは城内へ入った。


 クロエラの背後には、大理石の大階段があった。

 中央から左右へ分かれている。

 翼を広げたような、壮麗な階段だ。


 朝の光が大理石の表面を滑り、薄い影を階段の奥へ落としている。

 その先が、俺たちの居住階だ。


 俺の居住区画には四つの部屋がある。

 中央の階段を挟んだ向かい側には五つ。

 そのうちの一室が、クロエラの部屋になっている。


「そんなに緊張しなくていい」


 俺はシルヴィアへ声をかけた。


「今日からここが君の家なんだ。俺もほぼ初日に等しいんだ。一緒に慣れていこう」


「……ふふ。分かりました」


 シルヴィアの口元が柔らかく緩む。


「これからよろしくお願いしますね」


「ああ、こちらこそ。よろしく。何か不自由なことがあれば言ってくれ」


 俺たちは大階段を上った。


 一段。

 また一段。

 その途中から、シルヴィアの肩から少しずつ力が抜けていく。

 白銀の髪も、先ほどまでより柔らかく揺れていた。

 蒼眼に浮かんでいた緊張が薄れ、代わりに穏やかな光が宿っていく。


 俺は、その変化を横目に見ていた。

 大階段を登りきる。

 俺たちは左側の廊下へ入った。

 中央の階段に近い二つの部屋は、隅々まで磨かれている。


 俺の部屋。

 そして、その隣の部屋。

 床には埃一つない。

 扉も綺麗に磨かれている。

 どちらもクロエラによって整えられていた。


 だが、その先は違った。

 固く閉ざされた扉。

 分厚い蜘蛛の巣。

 薄暗い廊下の奥で、灰塵に覆われた部屋が並んでいる。

 朝の光もそこまでは届かず、扉の周囲には濃い影が落ちていた。


 その落差に、シルヴィアが足を止める。


「あれ……? アル。あのお隣の部屋は……?」


「ああ、あそこはまだ使えない空き部屋のようだ」


 俺も一度、閉ざされた扉を見る。


「後でクロエラに言っておこうか」


「……は、はい。何か理由があるんでしょうね」


 シルヴィアは長い耳を小さく揺らした。

 けれど、それ以上は追及しなかった。

 俺たちは埃を被った部屋を後にする。


「さて、この旅行鞄だけ置いていってくれるか?」


 俺は出発前に影の底へ沈めていた荷物を取り出す。

 足元に真紅の魔法陣が浮かび、影の中から旅行鞄が姿を現した。


 魔法陣が消える。

 俺は鞄をシルヴィアへ渡した。


「ええ。なんだか、さっき走ったおかげでお腹が空いてきました」


 シルヴィアが鞄を受け取る。

 その指先が持ち手を握った。

 サファイア・ローブの裾が軽く揺れる。

 彼女が自分の部屋へ歩き出す。

 その背中を見送る。

 朝の冷気の中に、月下香の甘い香りだけが静かに残っていた。


 俺たちは、それぞれの部屋へ荷物を置いた。

 そして、クロエラの待つ食堂へ向かった。


「……おいおい、これはまた凄いな」


 食堂の扉を開ける。

 俺は思わず足を止めた。

 大きなテーブルいっぱいに料理が並んでいる。

 温かな湯気が幾筋も立ち上り、冷えていた空気まで少しずつ暖めていた。


「えっ……これ、本当にクロエラさんお一人で、作られたのですか……!?」


 シルヴィアも目を丸くする。

 さっきまで大樹海を走っていた。


 腹は減っている。

 それでも、この量と豪華さには驚いたらしい。


「ふふ。主様とシルヴィア様のために、ご用意させていただきましたわ」


 クロエラが微笑む。


「おやっ……」


 その瞬間だった。

 クロエラの足が止まった。

 視線が足元へ落ちる。

 何もない。

 なのに。

 次の瞬間、身体が傾いた。


 栗毛が大きく揺れる。

 眼鏡がずれる。

 そのまま、見事に転倒した。


「……おや、いつもの運命が私に悪さを働いてしまったようですね、主様」


 クロエラは何事もなかったかのように立ち上がった。


 斜めになった眼鏡を指先で直す。

 その微笑みには、動揺の欠片も浮かんでいない。

 隣では、シルヴィアが完全に硬直していた。

 俺は二人を見て、少しだけ笑った。


 席につく。

 クロエラが用意してくれたスープを口に運ぶ。

 温かな湯気が鼻先を撫でる。

 冷えていた身体に、ゆっくりと熱が広がっていった。

 食卓に穏やかな空気が広がる。


 しばらくして。

 クロエラが何気ない調子で口を開いた。


「主様、オズワルド様との件は、滞りなくお済みになりましたの?」


「……ああ」


 俺はスープを置いた。


「クロエラのおかげで助かったよ。君がオズワルド殿に話をつけていなければ、危ないことになっていただろう」


「いえ。お役に立てたのであれば、光栄です」


 クロエラの声に変化はない。

 俺は正面のメイドを見る。


「……もう俺はクロエラのことに口出しはしない」


 一度、言葉を切る。


「理由も聞かない。君の好きなようにやってほしい」


 それから、もう一度クロエラを見る。


「ただ、いつかは教えてほしい」


「……ふふ」


 クロエラが微笑む。

 眼鏡の奥で、翠玉の瞳が細くなった。


「あえて言うならば、運命の導きが私に降りてきたということだけですわ」


 人差し指が眼鏡のブリッジへ触れる。


「その時が来たら、アルノ様にもきっと分かることでしょう」


 やはり、煙に巻くつもりらしい。

 俺は小さく息を吐いた。

 相変わらず、訳の分からないメイドだ。

 だが、今はそれ以上聞いても答えは出ない。


「そうか」


 俺は話を切り替えた。


「……そういえば、俺ら三人の部屋以外の残り六つの空き部屋は、まだ手付かずのようだが」


 クロエラを見る。


「それ以外は完璧なのに、あのまま置いておくのか?」


 翠玉の瞳が、俺の紅の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。


「……ええ」


 クロエラは静かに答えた。


「あそこの部屋には、まだ動かしてはならない大切なものが据え置かれております」


 わずかな間。


「しかるべき時が巡り、しかるべき誰かが訪れれば、自然と開きますわ」


「……分かった」


 俺はそれ以上聞かなかった。


「信頼している」


「あの……アル」


 隣からシルヴィアの声がした。


「お二人はいつの間に、そんなオズワルド様を動かすようなお話を……?」


 蒼眼を丸くしている。

 どうやら、かなり気になっていたらしい。


「いや、何でもないさ」


 俺はスプーンを置いた。


「俺にも分からないことだ」


 世の中には、触れない方がいいこともある。

 今ここで考えても、答えには至らない。


「クロエラ、珈琲を頼めるか?」


「はい。かしこまりました」


 クロエラが立ち上がる。


「シルヴィア様はいかがされますか?」


「では、私もお願いします」


「アルノ様は砂糖なしで、シルヴィア様は砂糖二つでよろしいでしょうか?」


「ええ……っ!?」


 シルヴィアが息を呑んだ。

 蒼眼が大きく見開かれる。


「な、なぜ私のそんな個人的な好みを、クロエラさんが知っているのですか……っ!?」


 耳まで赤くなっていた。

 その場に、短い沈黙が落ちる。

 今日、この城に到着したばかりだ。


 そんな私生活の話など、まだ一度もしていない。

 俺も違和感を覚えた。

 俺がブラックを好むこと。

 シルヴィアが甘党であること。

 どちらも、クロエラに話した記憶はない。


 なのに。


 なぜ一度も会ったことがないはずのヴァルキア王女と、俺の嗜好まで知っている?


「今、神からの啓示を受けたのです」


 クロエラは平然と答えた。


「では、準備してまいりますね。少々お待ちくださいませ」


 そう言って、一礼する。

 そのまま食堂を出ていった。

 俺は、その背中を見送った。


 そこで、ふと思いつく。

 ちょっとした仕返しだ。


「そういえば、シル」


「はい?」


「明日から俺の盾の訓練に付き合ってくれるか?」


 シルヴィアが瞬きをする。


「まだ実践的に使用していないんだ。それに、シルの力についても助言できるかもしれない」


「ええ。任せてください」


 シルヴィアの表情が明るくなる。


「私の侵食消滅《ヴォイド・イロージョン》を試すのですね」


「ああ、その通りだ」


「私が、アルの力になれるのなら頑張ります」


「よろしく頼む」


「はい! こちらこそよろしくお願いします!」


 蒼眼に、負けん気の強さが戻っていた。

 その奥には、嬉しそうな光も宿っている。

 先ほどまでの戸惑いは、いつの間にか消えていた。

 肩から力が抜ける。

 すぐそばから、月下香の香りが静かに漂った。


 冷たい朝の空気の中でも、その香りだけは柔らかく、シルヴィアがここにいることを静かに伝えている。


 俺はその香りを感じながら、シルヴィアを見る。

 その時だった。


「お待たせいたしました」


 トレイを携えたクロエラが戻ってくる。


「あら、何の話をされていたのでしょうか?」


 クロエラは白磁のカップを並べた。

 音はほとんどしない。

 指先がカップから離れる。

 そして、お茶目に首を傾げた。


「……秘密だ」


「……ふふ。まぁ、それは楽しみですね」


 俺は珈琲を口に運ぶ。

 温かな苦味が舌に広がり、そのまま喉を通っていく。


 仕返しができたことに、ほんの少しだけ満足する。

 相変わらず素性の知れない女だ。

 だが、その味と手際だけは間違いなく本物だった。


「ああ、今日も珈琲が美味い」


 勇者に対抗するための力を鍛える。


 新しい日常の幕が、香ばしい湯気の向こうから静かに上がり始めていた。

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