第7話 二時間の手術
声が届いたのは午後の早い時間だった。
「助けてくれ!」
コウルが外から飛び込んできた。息が上がっていた。「建設現場で梁が落ちた。人が死にそうだって!」
アレクはすでに動いていた。道具袋を掴む。消毒液の小瓶、刃物二丁、縫合糸と針、煮沸済みの布が三枚——一週間かけて用意したものが初めて本番を迎えた。
「ミア、来られるか」
「行きます」とミアは即答した。
* * *
現場に着いた時、男はすでに地面に転がされていた。
三十代後半の作業員だった。腹部の右下側、木の梁の端が刺さっている。直径四センチ前後、刺入の深さは十センチを超えているかもしれない。地面に広がる血は暗い赤——動脈性ではないが、静脈性の出血が続いている。意識はある。呼吸が速い。顔面蒼白。
横に立っていた教会の治癒師が首を振った。「致命傷だ。神の加護を祈ることしかできない」
「神の加護より手術が先だ」とアレクは言った。「ミア、この男の体の中を見てくれ。梁が何に触れているか」
ミアが男の横にしゃがみ、目を細めた。数秒間、じっと見た。「右側の下の方……光の歪みが大きいです。腸のあたりかな。あと梁の周り、血の流れが——滞ってます。でも大きい血管は触れていないと思います、明るさは変わってない」
大血管への損傷なし。腸管の可能性あり。それでも生存率は跳ね上がる。
「臨時の手術台が必要だ」とアレクは言った。「扉か板を外せ。水と火も要る——道具を煮沸する」
* * *
手術は二時間かかった。
最初の難所は梁の抜去だった。引き抜く方向と角度を間違えれば、出血が一気に広がる。ミアに梁の周囲の血流を逐一報告させながら、アレクは慎重に引いた。男の腹が、引きと同期して微かに動く。皮膚と木の摩擦が、湿った音を立てた。
「ミア、梁の根元、何が見える」
「……周りに、暗い影。たぶん、組織がちぎれてます。下の方の血管は、まだ明るいです、切れてない」
アレクは息を整えた。一気に引き抜けば組織が裂ける。ゆっくり、回しながら引く——三十秒に一センチ。布を押し当て、また引く。もう一度。
抜けた瞬間、傷口から血が噴いた。
暗い赤が、男の脇腹を伝って手術台に流れた。布で即座に押さえる。湿った布が、血を吸ってずっしり重くなった。指先に、男の体温が直接伝わってくる。
「そこ、明るくなってますか」
「……変わらないです、落ち着いてきてます」
静脈からの出血だ。処置できる。アレクは布を二枚目に替え、圧迫を続けた。男が呻いた。胸が小刻みに上下している。汗が額から滴り、目尻を伝った。
メスの感触を確かめる。煮沸したばかりの刃が、まだ冷えきっていない。指先に伝わる温度で、体温との差を測る。これでいい。
腹を開く。
刃が皮膚に当たった瞬間、独特の抵抗があった。皮膚は思っているよりも強い。一定の圧で、一直線に引く——ためらうと、線が乱れて閉じる時に皮膚が寄れる。前世の研修医時代、何百回と練習した動きだ。指は覚えていた。
切開部位から、暗い色の血と組織液が滲み出した。匂いがした。鉄の匂いと、内臓特有の生温い空気。ミアが一瞬だけ顔を歪めたのが視界の端に見えた。けれどミアは目を逸らさなかった。
「ミア、小腸を見てくれ。裂け目がどこにある」
「……右の方……一センチくらいの裂け目です。ふちが、ぎざぎざ」
梁の先端で削られたのだ。アレクは小腸を慎重に手繰り寄せ、裂傷を露出させた。腸液が漏れている。これが腹腔内に広がれば腹膜炎になる。時間の問題だ。
消毒液を傷口に流した。男が背中を反らせた。
「動くな!」
「い……っ」
「分かってる。痛い。それでも動けば縫い目がずれる」
ミアが男の肩を両手で押さえた。声が震えていた。「先生が、一番上手い人ですから。もう少し、あと一息だけ我慢してください」
どこでそれが分かる——そう思いながら、アレクは縫合糸に針を通した。
針の先が腸管の壁に入る。この組織は柔らかい。強く引けば破れる。一目ごとに、糸の張りを確認した。血の中に手が浸かったまま、視界はぬるぬると揺れる。指の感覚だけが頼りだった。
一目、二目、三目——
「ミア、出血源は」
「梁の周り、まだ滲んでます。でも、勢いはないです」
「腹膜の方は」
「光の歪みが、ゆっくり整ってきてます」
よし。もう一度、針を通す。男の呼吸が浅くなっている。脱水と失血で意識が遠のきかけている。アレクは縫合の手は止めなかったが、声だけは離さなかった。
「目を閉じるな。聞こえているか。瞼を半分でも開けていろ」
男が呻きで応えた。「あ、あ……」
「それでいい。声を出していろ。意識が戻るまで」
* * *
二十目、三十目——
時間の感覚が消えていた。手の中の世界だけが続いていた。
外で誰かが「もう一刻になるぞ」と囁いた。それから「二刻だ」と誰かが言った。アレクには遠い音だった。腸管を縫い終え、消毒液で腹腔内を洗い、漏れた腸液を拭き取った。指の腹で、腸の張りを確認する。問題ない。
次は腹膜。次は筋膜。次は皮膚。層ごとに、糸を変える。亜麻糸は太い——皮膚はこれで縫う。腹膜にはさらに細い糸を使った。一層ずつ、丁寧に閉じていく。閉じ忘れた層があれば、傷の癒合は不完全になる。何年も後で痛む。
ミアの声が、耳元で聞こえ続けていた。
「明るくなってきました」「先生、あと一息」「血の流れが、戻ってきてます」
肩越しから覗き込むようにして、ミアはずっとそこにいた。アレクの手元と男の体内を交互に見て、報告を続けていた。額に汗が滲んでいた。それでも目は逸らさなかった。
最後の一目を縫い終えた時、アレクは初めて自分の呼吸に気づいた。
二時間後、傷が閉じた。腹腔内の消毒を確認し、外側を縫った。最後に清潔な布で傷を巻いた。
男の呼吸が整ってきた。顔に血色が戻り始めた。
教会の治癒師がまだ近くに立っていた。「……これは何をした」と言った。
「手術だ」とアレクは言った。「腹を開けて縫った」
「そんな——魔法なしで、腹の中を」
「腹は開けられる。縫い合わせれば閉じる。それだけだ」
ミアが「先生」と呼んだ。「男の人の、中の光が戻ってきてます。さっきより明るい」
生存の確率が上がった。感染さえ起きなければ、この男は回復する。
アレクは血に染まった手袋を外した。指先が微かに震えていた。二時間、集中し続けた後の反動だ。前世でも同じだった——手術が終わった後、初めて自分が怖かったと気づく。
立ち上がった。周囲に人垣ができていた。誰も声を出していない。
ミアが横にいた。彼女も、アレクと同じくらい血で汚れていた。手のひら、袖口、エプロンの裾。彼女自身は気づいていないようだった。男の顔だけを見て、そして男の妻が泣きながら駆け寄ってきたのを見て、初めて安堵の息をついた。
「次の患者は」とアレクは言った。
誰かが「いない」と言った。
「なら帰る」とアレクは道具を片付け始めた。
ミアが「先生、手」と言った。アレクは自分の手を見た。指の関節が血で固まり始めていた。
「洗ってから帰る」と答えた。
誰も動かなかった。沈黙が長かった。男の妻だけが、夫の顔を撫でながら、声を殺して泣いていた。それは喜びと安堵と、まだ恐怖の残った泣き方だった。
お読みいただきありがとうございます。
続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。




