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治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

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第20話 嵐の夜

 三日目の夜に、嵐が来た。


 アレクは毎日ハルトマン家に通っていた。シルヴィアの状態は一進一退だった。体温は下がってはまた上がる。炎症の所見は緩和と増悪を繰り返す。しかし、悪化の幅が縮まっていた——それが治療が機能している証拠だ。


 三日目の夜、エレナが孤児院に飛び込んできた。「急いでください。今夜が——」


 ミアも連れて向かった。


* * *


 部屋に入ると、シルヴィアは呻いていた。


 体が震えている。高熱だ——昨日より確実に高い。皮膚に赤い斑点が出ている。手足が激しく痙攣している。意識はあるが、焦点が定まらない。全身が反応している。


 額に汗が浮いていた。額から首筋を通り、襟の中へと伝っていく。寝間着の襟元はすでに濡れていた。シルヴィアの唇が動いて、譫言が漏れた。「父上……違うのです……私は」と、繋がらない言葉が断片で出ていた。記憶のどこかが浮き上がっているようだった。


 アレクは脈を取った。脈拍は速く、不規則だ。指先で測った数値を頭の中で変換する。体温は上がり続けている。脈の乱れは、血圧の変動と連動しているはずだった。


 アレクはすぐに理解した。


 ヤーリッシュ・ヘルクスハイマー反応だ。


 免疫系が一時的に過剰反応を起こしている。治療が原因で炎症が激しくなっている——これは悪化ではなく、回復の途中だ。しかし見た目は最悪だった。


 解熱を急ぐべきか。アレクは内心で確認した。否——ここで解熱に走れば、過剰反応そのものを潰すことになる。免疫が暴れ切るのを許容しなければ、根本の改善には届かない。冷却は補助であって、主軸ではない。判断は揺らがない。揺らがせるわけにはいかない。


「ミア、中を見てくれ。生命反応を確認する」


 ミアがシルヴィアの傍にしゃがんだ。両手をシルヴィアの胸の上にかざし、目を細めた。光の歪みが普段より大きく見えるはずだった——ミアの肩が一瞬だけ強ばったのが、アレクには分かった。


「……光が乱れてます。でも——動いてます。揺れてる感じですけど、消えてはいない」


「止めない。処置は続ける」


 エレナが「これは悪化しているのでは」と言った。声が震えていた。「このまま続けるのは——」


「これは回復の途中だ」とアレクは言った。「ヤーリッシュ・ヘルクスハイマー反応——免疫が治療に反応して一時的に暴れる。体が正しく戦っている証拠だ。止めれば意味がない」


 シルヴィアが苦しそうに呻いた。体が弓形に反った。ミアがシルヴィアの肩を押さえた。


「痛い——」とシルヴィアが言った。「これは……いつまで続くの」


「分からない」とアレクは言った。「正直に言う。何時間か、もしかすれば明け方まで。絶対に諦めるな。今お前の体がやっていることは正しい」


 シルヴィアが歯を食いしばった。ミアが「一緒に息をして」と小さく言い続けた。


 アレクは処置を続けた。炎症を抑える液体、冷却、水分補給。体が熱で消耗していく分を補う。シルヴィアの体が自力で戦えるよう、環境を整えることだけが今できることだった。


 時間が経つほど、シルヴィアの呼吸は浅く、速くなった。胸が小さく上下するだけになり、肩が動かなくなった。アレクは指先で頸動脈の脈を確認した。数値が揺れていた——速くなっては緩み、緩んではまた速くなる。免疫の波が、心拍に直接乗っていた。


 ミアの「光、揺れてます」という声が、何度か続いた。普段の二倍は声を出している、とアレクは思った。怖がっている。それでも目は離していない。


 午前三時を過ぎた頃、シルヴィアが一度、鋭く息を吸い込んだ。それから動かなくなった。


 ミアが「先生」と言った。声が裏返っていた。


 アレクは脈を確認した。ある。弱いが、ある。「呼吸が一瞬止まっただけだ」と言った。「体が次の段階に入る前の切れ目だ」


 切れ目の後で、シルヴィアの呼吸が戻った。今度は前より深かった。痙攣の幅が、わずかに縮んでいた。


* * *


 夜明けの一時間前、熱が引き始めた。


 体の痙攣が収まった。呼吸が規則的になった。額の汗が引いて、肌の赤みが薄まっていく。脈拍が一定の間隔に戻った。部屋の中の空気が、わずかに静まった——アレクの耳には、嵐の後の静けさに似て聞こえた。


 ミアが「光が落ち着いてきました。揺れが小さくなってます」と言った。


 シルヴィアがゆっくりと目を開けた。天井を見た。それからアレクを見た。


「……まだ、生きてる」とシルヴィアは言った。


「生きてる」とアレクは言った。


「続けますか」


「続ける。今が折り返しだ」


 シルヴィアが目を閉じた。それから再び開けた。「……分かりました」


 ミアが疲れ果てて、気づくとアレクの肩に寄りかかって眠っていた。エレナが毛布を持ってきた。


 アレクはミアが眠るのを確認し、処置の続きに戻った。


 軽い——ミアの体重のことを、一瞬だけ思った。それだけだった。


* * *


 夜明けの光が窓から差し込んだ頃、シルヴィアの呼吸が完全に整った。寝息が規則的になり、額の温度が指先で確認できるほどに下がっていた。


 エレナがベッドの脇で泣いていた。声を出さずに、ただ涙だけを落としていた。アレクが「ここまでくれば心配ない」と言うと、エレナが頷いた。返事はしなかった。代わりに、シルヴィアの手をそっと取って、両手で包んだ。


 雨は夜半に上がっていた。屋根を打つ音が消えてから、しばらく経っていた。窓の外に、雨上がりの薄い光が広がっていた。


 アレクはシルヴィアの脈をもう一度測った。一定。乱れはない。免疫の波が引いた後の、静かな状態だった。


「今日一日、絶対安静で」とアレクはエレナに言った。「水分は塩水を時間ごとに少量ずつ。固形物は今日は止める。明日の朝になって食欲が出れば、薬草入りの粥を出していい」


「分かりました」とエレナは言った。


 ミアがアレクの肩で目を覚ました。一度ぼんやりとして、それから慌てて姿勢を直した。「すみません、寝てました」


「お前が起きていたら、お前の判断が鈍る。寝るのは正解だ」とアレクは言った。


 ミアが頷いて、ベッドの方を見た。シルヴィアの顔色が、夜の入りとは別人のように落ち着いていた。ミアの目が一度、潤んだ。それを拭いて、立ち上がった。「先生、片付け、します」と言った。


 二人で道具を片付けた。布を畳み、薬草の残りを袋に戻し、鍋を持ち上げた。手の動きが、二人とも同じ速度に揃っていた。一晩で揃った速度だった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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