表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
治癒魔法なんて要りません 〜転生外科医が教会の独占をぶち壊す〜  作者: いなばの青兎
対立勃発編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/21

第18話 見えない思惑

 シルヴィアが帰った後、昼が沈みかけていた。孤児院の土間に夕方の光が差し込み、ミアが記録帳を閉じた。

「先生、どう思いますか」とミアが聞いた。


「治療を受けると思う」とアレクは言った。「ああいう目の人間は、論理で動く。納得できれば動く」


「でも拒否しましたよね」


「今日は」


 ミアが少し考えてから言った。「先生、あの令嬢が来たのは本当に視察だけだったんでしょうか。最初から病気のことを確認しに来たんじゃないかって気がして」


「それはあり得る」とアレクは言った。「ハルトマン家は貴族だ。噂を聞いて、もし俺に治療の可能性があるなら試したいと思っても不思議じゃない」


「じゃあ——視察というのは建前だったということですか」


「どちらでもいい。本音で来るより建前で来る方が、話が整理しやすい場合がある。あの令嬢はそういう思考ができる人間だと思う」


* * *


 夜、アレクは蒼熱病について改めて考えた。


 シルヴィアの症状を確認した限り、発症から二年以上経過している。教会の治療を継続して受けながら、改善どころか緩やかに悪化している。なぜ教会は「治らない」と知りながら治療を続けているのか。


 一つの可能性が頭に浮かんだ。


 ハルトマン侯爵家は王都最大の有力貴族だ。政治的な影響力がある。もしハルトマン家の令嬢が「神に見捨てられた難病で苦しんでいる」という状態が続けば、教会への依存が強まる。令嬢が「治らない」間、ハルトマン家は教会に頼り続ける。治ってしまえば、その依存が失われる。


 患者を人質にしている——そういう構造だ。


 ミアが記録帳に何かを書きながら、顔を上げずに言った。「先生、何か考えてますね」


「どうして分かる」


「考える時は腕を組むから」


 よく見ている。「蒼熱病の件だ」とアレクは言った。「レヴァンがハルトマン家に接触しているのは、令嬢の病気の話と無関係じゃないと思う」


「どういうことですか」


「治らないままでいることが、誰かに都合がいい可能性がある。令嬢が治癒魔法で治らないと証明されている間、ハルトマン家は教会への依存から抜け出せない。レヴァンはその構造を維持したい」


 ミアが記録帳を置いた。「それって——患者を道具として使っているということですよね」


「その通り」


「……ひどい」


「ひどい」とアレクは言った。「だから、治す。それが順番だ」


「先生は」とミアが言った。「怒っていますか」


 アレクは煮沸鍋の方を向いたまま答えた。「怒っている」


 指先が、鍋の縁に触れかけて止まった。熱い。それだけ確かめてから、手を引いた。


「患者を人質にする仕組みに対しては、怒る。ただし怒ったまま動くのは手術と同じで精度が落ちる。感情は認識した後、脇に置く」


 ミアが頷いた。それから記録帳を開いて、再び書き始めた。


 ペンを走らせる音が、しばらく続いた。ミアが手を止めて、顔を上げた。


「先生」とミアは言った。「あの令嬢の方は——治療を受けるって、決めますか」


「決めると思う」とアレクは言った。「ただし、決め方が遅い場合もある。論理で動く人間は、納得するまで動かない代わりに、納得すれば一気に動く」


「そういうものですか」


「俺もそうだから、分かる」


 ミアが小さく笑った。「先生、自分で言いますか、それ」


「事実だ」


 ミアがまたペンを動かした。書きながら、何かを考えているのが分かった。アレクはそれを見守っていた。ミアが言いたいことを言葉にしたい時は、書きながら整える癖がある。書き終わってから言うか、書いている途中で言うか、ミアの表情を見ていれば分かる。


「先生、今日の話、一つ確認していいですか」とミアが手を止めて言った。


「どうぞ」


「貴族の食事を変える、っていう話。先生は、本当にそれをやるつもりですか」


「やるつもりはあるが、今ではない」とアレクは言った。「順番がある。まず令嬢の病気を治す。治った後で、貴族の食生活と病気の関係を体系化する。データが必要だ。一人の症例だけでは、貴族全体の食文化に介入する根拠にはならない」


「データ」


「治療した記録、症状の経過、食事制限の効果。数字を積み上げれば、教会の祈祷より、食事改善の方が効果があるという結論が出る。出れば、貴族は動く。貴族は迷信より、自分の健康を優先する」


 ミアが頷いた。「記録、ちゃんと取ります」


「取ってくれ。それが一番効く武器になる」


 ミアが嬉しそうに頷いて、ペンを動かした。今度は手が速くなっていた。


* * *


 夜更けになって、ミアが台所から白湯を持ってきた。記録帳を閉じて、湯気の立つ器を一つ、アレクの前に置いた。自分の分も持ってきていた。


 通りの方から、馬車の車輪が石畳を踏む音が届いた。それから止まった。夜の往来にしては遅い刻限だった。ミアが一度だけ窓の方を見た。アレクも耳をすませたが、もう何も来なかった。


「先生、一つだけ聞いていいですか」とミアは言った。


「どうぞ」


「あの令嬢の方、治った後で——どうすると思いますか」


「分からない」とアレクは言った。「予測はできるが、断言はできない」


「予測でいいです」


「論理で動く人間は、論理で恩を返そうとする。感情の借りを認めるのが苦手な分、別の形で精算したがる。後援者になる、保護を申し出る、制度を動かす——そのあたりが順当な選択肢だ」


「先生は、それを受けるんですか」


「条件次第だ」とアレクは言った。「俺の医療に口を出さない条件があれば受ける。出す条件なら断る」


 ミアが頷いた。それからしばらく黙って、白湯を一口飲んだ。「先生、私は」と言いかけて、止まった。


「言っていい」


 ミアは器を両手で包んで、湯気を見た。「先生が誰かに庇護される側になるのは——なんだか、変な気持ちです」


「庇護じゃない。連携だ」とアレクは言った。「向こうも俺を必要としている。一方的な関係ではない」


「連携、ですか」


「対等な取引と言ってもいい。貴族でも平民でも、医者と患者の間には一つの線が引ける。治した後はその線が別の意味を持つだけだ」


 ミアが「そういうものですか」と言って、白湯を飲み終えた。器を片付けて、再び記録帳を開いた。書く前に、一度だけ手を止めた。何かを書こうとして、書かずに頁を閉じた。アレクは見ていたが、何も言わなかった。


 ハルトマン家の明かりは変わらず明るかった。


 治してから、全部暴く——アレクはそれだけ決めていた。シルヴィアが何かを決めたとしても、その知らせはまだ届いていなかった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ