/Ⅰ
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有り体に言えば、ここは終わっていた。
鮮烈過ぎる真紅の飛沫。
四方を濡らす、美しいほどの赤色。
四肢を引き千切られた――否、喰い千切られた死体。
濃厚な死の臭い。
その、全てが終わった鮮血の囲いの中で、
――――僕は、彼女に出遭った。
*
天門坂一月という名前のクラスメイトがいる。
性別、女。年齢、十六歳。身長、約百六十センチ。体重、不明。血液型、不明。誕生日、不明。成績、詳細は解らないが優秀。文武両道。天才肌。何でもやってのける。
僕の知る天門坂一月という同級生はおおよそそんな感じの女子だった。補足説明。前述のステータスにおいて不明とした部分は僕の理解の及ばぬ所という意味であり、本当に判明していないという意味ではない。
高校二年生に進級した僕は彼女と同じクラスになったのだが、すごい生徒がいる、と噂に聞いていただけの一年次とほとんど既知の情報量が変わらない。『すごい生徒』、という抽象的な表現の詳細も然り。
割れている情報だって信憑性があるわけではなかった。
身長は廊下で見かけた天門坂と自分とを比べて推測した数字だし、正確な情報といえば氏名と年齢(こっちは誕生日によりけり。もしかしたら十七歳かもしれない)、それから頭脳明晰運動能力高しということ。
加えてかなりの美人だということ。一年次はクラスが違っていて、せいぜい廊下で擦れ違う程度にしか顔を合わせていなかったが――なので、向こうは僕のことなど記憶の片隅にも無いだろう――同じクラスになった今は余計に分かる。非の打ち所など無い。断言して、美少女。
教室ではいつも一人でいるようなイメージがあり事実として、いつも一人だ。
勿論それは、天門坂は人気が無い、という意味ではない。彼女ほどの容姿を持った生徒は同性にも異性にも人気が出て然るべきであり、この場合も必然的にその道理は当て嵌まる。だからといって、天門坂はクラスメイトを無視しているわけでも、高圧的に立ち回って人払いしているわけでもなかった。
声を掛けてきた相手には簡素に対応してそれだけなので、会話が続くことはない。僕が知る限り天門坂は発生した会話を大概の場合二三言で終了させているのだ。
故に僕は天文坂が人と仲良くしているシーンなど見たことがない。話しかけてきた相手は爆笑していたり感極まっていたり激怒していたりするのに、相対して天門坂は無関心無感動無感情な態度を貫き通しているのが常である。……これは極端な例だけれど。
と、概ねの情報を脳内に展開して収束。
回想モード終了。夕焼けが眩しい現実世界に意識を回帰させる。
橙色の空を見上げるようにして、僕は隣で欠伸をしている遙風に言った。
「で、その天門坂がどうかしたのか?」
「どうかしたのか、じゃないだろ。それはこっちが訊いたんだ」
「ん? ああ、そうか。話を振ったのは僕の方だっけか」
うっかり長いこと独白してたから忘れるところだった。
話の運びは確か、僕が天門坂一月の情報提示を依頼して、それならお前は彼女についてどれほどのことを知っているんだ? って訊かれたんだっけ。これは不覚だ。
「それじゃ改めて聞くけど、お前、何でいきなりそんなこと聞いてきたんだ?」
「うん、まあねえ。特に理由は無いんだよ、これが。実は遙風と会話がしたかっただけ、だったりしてな」
「……なにを、気持ち悪い」
いつもなら絶対にしないような、酷く悪辣な目で見られた。
……これで照れてるんだったら可愛いんだけどなあ。表情こそ強張っているけれど、世界は僕の味方をしていた。空高く昇った太陽が橙色に変わって降りていく夕方、遙風の顔は図らずとも朱色に染まる。
遙風輪廻。僕の数少ない友人でありクラスメイトの一人。身長百五十八センチ。体重(訊いたら殴られた)。血液型AB。成績、いい時はめちゃくちゃいい。運動神経、常に抜群。容姿端麗で中性的顔立ち。黒の長髪。
今の性格、ガサツ。癖毛なんてほったらかしで、起床から手入れなんてまるでしていないらしい。制服の胸元はえらく大胆に開いているし、そんな制服の着こなしだって毎回変わる。
少し黙っていた僕を、遙風はジトっとした目で見ていた。
「なんだ、その目?」
「親愛なる友人に向ける、路上のヘンタイを見る目」
「せめて路傍の石にしてください!」
ご覧の通り、毒舌である。
くたびれた表情をしているこの遙風は、一日に三桁の欠伸をしているらしい。ちなみに自己申告。
「でもまあ、親愛なる友人なんて言って貰えて嬉しいぜ。他ならぬ遙風さんにさ」
「オレに好かれたところで何も得はしないだろ。それともお前はあれか。同性愛者なのか?」
「断じて違う!」
「だったら、そうか。オレのカラダが目的なんだな」
「断言するな、それだって断じて違う!」
「まさかお前……もしかして大事なのは心だとでも言うのか?」
「もしかしなくても、そのまさかだよ!」
今更、時系列。端的に簡潔に纏めてしまうと、遠くの空が徐々に暗くなり始めた夕暮れ時の放課後。
本日の修業課程を終了。現在は放課後にして、場所は街の外れにある災害跡地。崩壊した建物の瓦礫や辺りに散らばる硝子の破片が夕陽を浴びて橙色に輝く様子は、この街区にパンフレットがあるとした確実に表紙を飾るだろうと思うくらいに綺麗だったりする。
この光景は遙風も結構気に入っているらしいのだが、こいつがここを訪れることはそう多くない。ある条件の下、遙風の気紛れによりこのイベントフラグは立つ。ちなみに僕は多いときは週に四、五回はやってくるが、遙風の訪問は一週間振りである。
「あっそ」
遙風は興味無さ気に吐き捨てる。
「オレだっておまえと友人以上の関係にはなりたくないよ」
「親愛なる友人じゃなかったのか?」
「前言撤回。気の迷いだった」
「撤回するな!」
「ていうか、友人未満に言い直す」
「友人未満!? それって、どんな関係だよ!?」
知人。クラスメイト。……遙風の中ではさらに下位の人間関係が発想されているかもしれない。何せ友人未満なのだから、垣根なしの限界値なしだ。無限に続く負の変域。それが遙風輪廻にとっての僕であるらしい。
少しだけショックだった。
「オレ別個の意思だから気にすることはないよ」
「……そうかい、そいつは安心したよ」
遙風は長髪を鬱陶しそうに払い除ける。切ればいいのに、と思ったけどそれは無理なのだと思い出す。なにせ、その長髪は遙風一番のお気に入りなのだから。簡単に切れるはずもない。
「そんじゃ改めて訊くけど、なんで天文坂一月のことなんて訊いてきたんだ?」
これまでのやり取りとまるで変化のない口調で遙風が話を本題に戻してくる。
目敏いよなあ……こいつも。忘れてればいいのにさ。
「ん? いやほら、お前一年の時は同じクラスだったんだろ? それなら少しは天門坂のことも知ってるんじゃないかな、と思ったんだよ。そもそもこんなこと訊ける相手って、僕にしてみればお前くらいしかいないし」
「だーかーら。だから、なんで天門坂一月のことを訊いてくるのかって言ったてんだよ。オレは別に、何で質問の対象がオレなのかなんて訊いてないんだよ」
さすがに鋭い。こっそり論旨をずらそうとした僕の試みは失敗に終わるのだった。どころか、遙風の表情はさらに険しく変化している。状況は悪くなる一方。僕は自分で自分の首に木綿の首輪を括り付けた気分を味わった。
「いや……まあ、なんとなくだよ」
すっかりはぐらかすことに成功して、核心的な部分にはこのまま触れられずに済むと思っていたのだが。甘かった。
遙風は遙風で、遙風輪廻なのだった。僕はどうしたって遙風が遙風である以上、出し抜くことは出来ないらしい。
「なんとなく……?」
睨むようにこちらを見る。遙風は、ふん、と鼻を鳴らして、
「隠し事って言うんなら何が何でも聞き出したいけど、言いたくないことならその次第でもないよ。いいぜ、教えてやる」
やや憤り気味に全てを不問に伏してくれた。
「て言っても、オレじゃ上手く説明できないから、また今度にしてくれ」
「……そうかい。ありがとよ」
追求されなかったのは救われた心地で、事実救われたのだけど。これだと今までの会話は何の為にあったんだってことになる。お互いに新しい知識は何一つ得ていないし。貴重な、けれど有り余る時間を浪費しただけだ。
とはいえ、お互いに失ったものはそれ以外にない。ならば得るものが無くても仕方がないだろう。プラスマイナスゼロだ。元の均衡が保たれたと言えば聞こえもいい。結局人間、安定して退屈な進展のない日々が大切である。
さてと、と遙風は立ち上がる。さらり、と髪が流れる立ち姿が嫌に扇情的で思わず僕は息を飲む。
威勢よく立ち上がるのはいいけれど、それにしたってまだ座ったままの僕に気を遣って欲しいのだが。もっとも、そんなことを今の遙風に言っても無駄であることは間違いない。犬に論語。馬の耳に東のどこ吹く風だ。
しかしその軽率な行動が後日僕の身に降りかかる災難となることは、少しくらい意識して欲しいな。
夕陽をバックにして相変わらず気だるそうな表情で遙風が僕を振り向く。
「じゃ、オレはそろそろ帰るから。今日の復習とか明日の予習とかあるし」
「お前の口からそんな言葉が出てくるとはな」
「この口ならよく言ってるよ、そんなこと」
それもそうか、と納得。
じゃあな、と別れの言葉を反復し、遙風はくるりと身を翻す。学生同士、それも同学年の軽い挨拶程度にも必要以上の敬意を払っている遙風は、この瞬間も僕の正面に立って先の台詞を告げたのだ。まったく、真面目なのかそうでないのか。礼儀正しさは習慣的に体に染み付いているのかもしれないな。
さて、僕はもう少しだけここで黄昏ているとしよう。夜の帳ももうじき降りる。そうなれば僕の気分も最高潮。今日一日の疲れはどこかへ飛んでいってしまう。知られざる僕の習慣だった。
習慣、という言葉で唐突に思い出す。僕は視界の中に遙風を探した。
発見した遙風は、ひょひょいと散らかる瓦礫の上を伝承される牛若丸のごとく飛び跳ねながら移動していて、その姿は既に小さくなって見える。けれどまだ会話には支障はなさそうだ。
危ないところで僕はもう一つの習慣を忘れてしまうところだった。習慣というよりもこれはこの遙風とのお約束みたいなものだが。別れの定型句としては、どんな挨拶よりこちらの方が相応しい。
「遙風っ!」
大声を出すほどの距離でもないが、それでも僕は大音声で大袈裟に呼び掛ける。思った通り遙風は振り向いてくれない。聞こえていないフリをするつもりらしい。まあ、同じシチュエーションで同じ台詞を何度も繰り返していれば、この後僕が何を言うかなど知れているのだろう。遙風の対応は実に正しいと言える。だとしても。
僕もまた別れの言葉を、この先何度でも繰り返し口にするだろう遙風への皮肉を言い放つ。
「帰り道は気を付けろよ――」
なにせ、遙風輪廻、君は、
「――どうあれ、女の子なんだからさ」
ぴたりと止まる体。振り返る視線は批難がましい。その拗ねたようで怒っているような表情に僕は満足する。
今のところは僕が唯一遙風に対して持ち合わせる有効攻撃。事実なので反論のしようがない。しっかりダメージは与えられて、カウンターのリスクが無い一撃必殺。
遙風輪廻。優等生。黒の長髪。
基本的には、女の子である。
七年前の話をしよう。
それは突然やってきた――なんてよくいう台詞を前置きするのは些かセンスに欠けると思うが、しかし、同時にあれほどそんな定型句が当て嵌まることもないだろうと思う。突然にして唐突、唐突にして突如、突如として忽然と。まるで当たり前のように、何百年も前から決まっていたみたいに。
僕らの町は、崩壊した。
日常も平穏も平静も静寂も。そこにあった全てのものが、いとも簡単に崩れ落ちた瞬間。あまりに圧倒的な崩壊の渦は全てを巻き込んで始まり、全てを破壊し尽くし終わった。その鮮やかなカタストロフにむしろ魅せられるほどに。運命の筋書き通り、バッドエンドがハッピーエンドに思えてしまうほど、それは圧倒的だった。
深遠なる夜の闇空を紅に照らす炎。崩れ落ちる建造物。響き渡る絶叫は天を割る雷の如く。
震災とそれによる二次災害、つまるところ火災。街全体を飲み込んだ爆発は、轟然と巻き上がる火炎となって街を焼き尽くした。一瞬で安全地帯など消え去り、始まりから終わりまでを住民は無力なまま蹂躙されるしか出来なかった。
死亡者数は住人数のほとんど百パーセント。生死が確認されていない者も、爪痕として残された瓦礫の下に死体となって埋もれているだろう。
火の海と鳴り続ける爆発音。崩れ落ちる家屋。
地獄絵図といって差し支えない景色を知る者は、確認されているだけなら数人らしい。
川を挟んで二つに分かれるこの街――二つであって二等分ではない。特に大きな被害があった側には古い屋敷や小さな民家が集まっていて、おおよその面積は街全体の四分の一程度だった――の片方が七年前に消え去ったのだ。
今でもまだ再建されていないそこには、立ち入り禁止を示す黄色いテープと瓦礫しかなく、寄り付こう者は一人としていない。それはまあ、当然といえば当然だ。誰だって、コンクリの瓦礫の下に死体があるかもしれない場所など、近寄りたくないと思うだろうから。
そういうわけで。
七年前に崩壊し瓦礫と化したこの街は、僕のお気に入りの場所だった。
「……て、どういうわけだよ」
星空に向かって呟く。
自分の独白に対する突っ込みだった。
いやあ、これだとなんだか、僕が心無い人間みたいだな。言い訳をしておくと、僕がこの場所をお気に入りとしている理由は偏に人が寄り付かないから、というものである。死体が埋まっているかもしれない死都だから、とか不気味な理由ではない。
夜の帳が降り、夕焼けの茜色は夜の黒とバトンタッチしてかれこれ一時間半くらいになるだろうか。僕は一日の終わりにこうして無意味な時間を過ごすことが多々ある。世間の喧騒から離れたいというかっこいい思想。うん、僕ってシティボーイだよな。
夜の世界を満たす静寂。天空を飾る星の瞬き。月光が心を癒してくれる。
さて、そろそろいい頃かと、寝転がっていたコンクリートから起き上がる。遙風ではないが、僕も帰って明日の予習をしなければならない。授業についていけなくなる。留年とかは避けたいし。
なんてことを考えながら、もうすっかり慣れたステップでテープを飛び越える。キープアウトの黒い文字にほんの少しだけ罪悪感を……覚えるほど僕は善人ではないか。善い人にはなれないなあ。
今も尚残される災害跡地。
ふと月を見上げるとき、いつか見た遠い夢を思い出す。今はもうずっと昔の、思い出。
遠い遠い、懐かしく儚い終わりの夢は、月と同じで手を伸ばしても届くことは無い。
*
帰宅すると、部屋の前で枯さんと出くわした。
いつものことながら黒のパーカーに黒のジーンズを着た不吉な雰囲気の隣人は、部屋の扉に鍵を差し込む僕の姿を視界に認めるなりすぐ人畜無害な微笑を向けてきて、
「こんばんは、久刻くん。今帰りかな?」
「ええ、はい。枯さんこそ、今日は遅いですね。あ、でも私服ってことは仕事帰りじゃないんですよね」
「まあね。未美好と一緒に食事に行ってたんだよ」
ほら、と枯さんが挨拶を促して、小さな少女の姿がジーンズの後ろから現れる。
「こんばんはです、お隣のお兄ちゃん」
「こんばんは、未美好ちゃん」
ぺこり、と小さな頭を下げてくるお辞儀。手は膝の上で、深過ぎず浅過ぎない模範的なお辞儀は、齢十二歳の子供にしては感心するばかりだ。僕なんて未だにそんな礼儀正しい姿勢、学校の式事ですら取らないのに。
ちなみに枯さんと未美好ちゃんは兄妹である。枯さんの年齢は不詳だが、見立ててではおそらく二十代前半といったところだろう。込み入った事情があるのか、二人は僕と同じアパートで暮らしている。両親不在の兄妹二人暮し。
枯さんは名前を意識しているのか基本的に黒基調の服以外は着ていない。これは僕が遭遇するときのみというわけではなく、同居人にして妹である未美好ちゃんの証言である。しかもその発言時に一緒にいた枯さんから公式認定もされている。
対して妹の未美好ちゃんは日々着ている服の色が違う。今夜の未美好ちゃんは、意図的にか偶然にか黒単色の枯さんと対照的に白単色だ。偶然といっても、枯さんは毎日黒色だから未美好ちゃんが白を着れば必然的に対になるのだが。
白い半袖シャツの上に袖がない型のこれまた白いパーカー。膝上丈の黒いスカート。と、よくよく見れば単色ではないのか。膝上までのソックスも黒色だし。スカートとソックスの間がポイントだ。人類の夢や希望が、そこには存在する。
それにしても可愛いなあ、未美好ちゃんは。いや、これは別に僕が子供が好きなアブナイ高校生であるところの布石ではなく、生物的に見て可愛いものを可愛いと思っただけのただの感想でしかないのだけれど。
しかし僕の視線は周囲から見れば小学生を相手によからぬ妄想を膨らませる男のものでしかなかったのか、未美好ちゃんはまた、すっと枯さんの後ろに隠れてしまった。シャイなんだよな、この子。
「久刻くんは」
枯さんの声。すっかり未美好ちゃんの姿にばかり夢中になっていたせいで、彼のことを忘れるところだった。小学生女子を見下ろす低い視線を上昇させ、成人男性でも高身長の部類に入る枯さんを見上げる。
「久刻くんは、いつものリラクセーションかな?」
「はい、そんな感じです」
リラクセーションと来たか。違う気がするが、まあ大差はないから頷いておくけど。
「君も物好きだよねえ、人気のないところでじっとしてるのが好きだなんて。あ、もしかして放置プレイとかが好きなのかな?」
「一般人をそういう目で見るのは止めてください。枯さん、普通の人の行動をいちいちプレイに当て嵌めるのはアブナイ思考ですよ」
「ははは、それも今更だな」
……この人、さらっと自分がアブナイ人間だと認めやがった。
未美好ちゃんの貞操を一瞬心配した僕は、本気で通報した方がいいんじゃないかと迷う。こんなことも実は日課の内というから自分でも驚きだ。放置プレイは別として、その前までは言っていること自体間違っていないのはさらに驚き。
物は言い様か。日常的行動も、この人に掛かれば一瞬で外道風に言い直されてしまうんだろうな。
枯さんにとっては人生の全てが何らかのプレイになっているのではないか、と僕が自分よりも長く生きた人間の時間を考察していると、
「ふむ。なんだかあれだね。久刻くんさ、さっきまで女の子を苛めてた臭いよ」
「あなたの嗅覚は、生物的進化の過程でどのように発達してきたんですか?」
まあ確かに、僕は先刻遙風輪廻という女友達に睨まれるようなことを言ったのだが。
「内容はそうだね……言葉責めといったところじゃないかい?」
「あなたはどこか専門の機関で働いてください!」
なんで割れてるんだよ! 僕からどんな匂いが出てるんだよ!
「嫌だなあ、君達と同じだよ。ただ人よりもちょっとね、ちょっとだけサディスティックスメルを嗅ぎ取ってしまい易いのさ」
謎の進出単語が出現していた。残念なことに予習不足な僕はその単語意味が不明で、どのように返答していいやら困ってしまう。……と、強がるのは止めよう。
「久刻くんからは俺と同じ匂いがするぜ」
「あなたと一緒にしないでください!」
サディスティックスメル。サディスト、とスメルの複合単語。英語について何の検定も受けたことがなく、学校の成績にだってそれほど自信があるわけではない僕だが断言しよう。このような単語を覚えていても何の意味もない。どの英語使用国でも通じないだろう。勿論テストにも出題されない。黒い油性ペンの太い方で、単語の上にラインを引いておくといい。見直しが楽になる。
「それにしてもねえ」
時間は小学生が床に就くにはそろそろいい頃で、外食に出ていたのならまだ入浴だとかなんだとかが終わっていないだろう。未美好ちゃんのことをまるで考えていないのか、枯さんは持ち前の饒舌振りを発揮する。
僕だって早く部屋に入って夕飯やら、明日の予習やら、今日の復習やらをしなければならない。出来れば早く開放して欲しいのだが。といっても、年齢差で僕は圧倒的に立場が低い。上司の長話に付き合わされる新米社員とは、こんな気分なのだろう。
そんなことを考えながら、次に枯さんから提示される話題を聞き流そうと思っていた僕だが、
「感心しないねえ。この街が今どんな状況か。公に騒がれてるわけじゃないけど、君達の間では主流の時事なんじゃないのかい。まさか、知らないわけじゃないだろ?」
如何せん、聞き流すにはシリアスな声音と言葉に僕は考えを改める。
「ええ、まあ。僕も高校生やってますからね、知ってることには知ってますよ」
「だったら尚更だね。俺は年配者として、それから君のお隣さんとして注意すべきかな?」
「…………」
こんな時だけ、枯さんは大人だった。
既に成人を迎えた大人の男性。言動こそ変人だが、それでも彼は僕よりも長く生きている。人生経験だって一端の高校生では及ばない量に達しているはずだ。
僕は黙って枯さんを見る。
「なんてね」
真面目だった表情が破顔する。軽薄とはいわないまでも、決して真剣ともいえない表情。
「久刻くんだって、もう高校二年生だしな。俺がいちいち説教するほどでもないね。それに、君の場合はちょっと特別だし。俺からは偉そうなことなんて言えないよ。ってことで、お咎めなしだ」
ぽんぽん、と肩を叩かれる。
励まされているようなのだが、僕は別に落ち込んでなどいない。枯さんの真剣な顔に合わせて、こちらも真面目な雰囲気に努めていただけだ。それと、少し考え事をしていたというのも理由に当たる。
枯さんは足元の未美好ちゃんに微笑みかけて、止まっていた歩みを再開した。
僕は、枯さんが後ろを通り過ぎていくのを感じながら挿放しの鍵に手を掛ける。くるり、と半回転。がちゃり、と無機質な金属音と共に施錠が解除され扉が開かれる。
ドアノブに触れてその冷たさを感じるのと同時に、
「でもね、久刻くん」
掌の冷たさなど比較にならないほど冷たい――悪寒という名の蛇が全身を這いずり回った。
瞬間にして汗が滲む。眩暈さえも覚えてしまいそうな異常な心境。しかしそれは、耳元で聞こえた枯さんの零した笑い声により正常化された。
「でもね、久刻くん。一応君の事を心配する人がいるって、忘れちゃダメだぜ? 俺だってそうだし、未美好も君の事を気に入ってる。いなくなっちゃったら寂しいよ。だから、気を付けてね」
「……はい、気を付けます」
枯さんの笑顔は、どう見ても優しいお兄さんそのものだった。僕が寒気を感じる理由など微塵も見当たらないほどに温かく――否、これは温かいなんて優しいもんじゃない。得体の知れない、生温さだ。
「よし、だったら約束だ。俺はいいけど、未美好は悲しませないでくれよ? こいつはこいつで、かなり寂しがり屋だからさ。ちゃんと、帰ってきて上げてね」
「分かりました。約束しましょう」
そう答えると、枯さんは満足したように頷き笑顔を倍にする。
見ると、未美好ちゃんは先に部屋の中へ姿を消していた。とうとう兄に呆れたのか、それとも子供らしく眠たかったのか、退屈してしまったのか。なんにせよ、枯さんは彼女を気に掛けているようで気に掛けていないのだった。なにせ、
「そういえば久刻くん、さっき旧都の方を通ってきたんだけどさ」
新しい話題を持ち寄る始末であるから、この人は本当に自由気ままである。未美好ちゃんだけでなく、一応僕も未成年者なのだということを分かってもらいたい。夜更かしは体に良くないのだ。しかし、次に枯さんの口から出てきたワードはそんな僕のホームシックを断ち切るに十分なものだった。
「瓦礫の影にさ、久刻くんとこの制服の女の子を見かけたんだけど、あの子、君の知り合いかな?」
夜の郊外はおよそ三十分程度の時間が経過しただけにも関わらず、僕が去る前から停滞し始めた闇の色をさらに深くしていた。まるで闇に影が生じているよう。底無しに深く濃密な夜の具現が、瓦礫の狭間を埋め尽くしている。
さて……と。進入禁止を訴えつつも効果ゼロの黄色いテープを本日三度目に乗り越える。慣れたもので、軽い助走と踏み切りだけで今なら飛び越えることが可能だった。着地、八点。
暗がりには既に目が慣れている。なので多少足場が不安定であっても歩行に支障も危険性もない。僕は迷わずに闇に溶ける道へ足を進める。枯さんの話だと、人影はこの迷路みたいな災害跡の暗闇を突き進んでいったらしい。なに、僕に限って帰れなくなるなんてことはないはずだ。目当ての相手が見つからなければそれはそれで構わない。早目にこの衝動を片付けてしまおう。
このときもしも。
僕が何かの弾みで引き返していたなら、
――全ては、この夜に包まれたまま明るみになることもなかったというのに。
悔やまれるのは、いつも何かが終わった後。だからこそ、人はその感情を後に悔やむという漢字を当て嵌めて『後悔』と呼ぶのだ。僕だってその例に漏れない。
直前。入り組んだ瓦礫の隙間の通路を突き進む。初めの分かれ道。ほんの気紛れに選んだ、最初で最後の分岐点。迷路で唯一の行き止まり。
一つ、これが迷路と違う事象である点を挙げるならば、壁に行き止まってしまった場合に後に退けないこと。……いや、指先でなぞる俯瞰図の迷路と、この立体迷路とは訳が違う。僕は自分の足で歩き、コマを進めるのだ。
だから――膝が震度七レベルで揺れるこの状態で、引き返すことなどできるはずがなかった。
濃密な闇の中。そこは月の光が唯一差し込む夜の孔。あろうことかその孔、その場を満たすのは闇の黒とはまるで違った色。鮮やかに噴き出す瑞々しい赤色。悪戯に壁に飛び散っては滴り、歪な線を描く。
我を忘れていた僕は強烈な悪臭に自我を取り戻し、瞬間的に全てを理解させられた。そう。この場所は終わっている。ここは、なにもかもが行き着いた果ての終焉。
その象徴であるかのようにそれは、辛うじてヒトの形を留めているその肉塊は、瓦礫に凭れ掛かったまま噴水のオブジェみたいに鮮血を夜に散らしていた。
有り体に言えば、ここは終わっていた。
苛烈なまでの深紅の飛沫。
四方を汚す、目の痛くなる原色。
四肢を引き千切られた、というよりむしろ乱雑に喰い散らかされた元人体。
死体と呼ぶことさえ憚られる無惨な有り様と、濃密な死の臭い。
その、全てが終わった漆黒の中で、
「動かないで」
――――僕は、彼女に出逢った。
*
「動かないで」
声は警告しているというよりもむしろ、何らかの動作を起こせば即座に首を刎ねると脅しているようだった。鋭利な、それでいて透き通るような声。凄んではいるが年齢はおそらく僕とそう変わらないだろうことが予想可能。
僕は眼前に横たわる奇怪なオブジェに目を釘付けにされ、背後に第三者の存在があったことに気付くことが出来なかった。……というか、飛び掛けていた意識を繋ぎ止めたのが彼女の声であって、気が付いたらそこにいたといった方が正しい。この世界に、今この瞬間、彼女は現れたのだ。
「質問に答えて。この場での貴方には、それ以外の一切を禁止します」
凛とした声が闇に響く。一方的な言葉は有無を言わさず、僕から権利を奪う。しかし冗談じゃない。質問したいのはこっちの方だ。ただでさえこんな訳の分からない――猟奇的な現場に居合わせてしまったのだから。いきなり現れた何者かの命令などおいそれと受け入れてなどいられやしない。
突発的、あるいは本能的に僕は言って、
「……ちょっと待った質問って――」
言われても。答えられることなどない。
言いながら上半身を捻り、浮かした右足を軸に旋回しようとした僕は、
「――――!」
思考が停止する寸前だった。
まるで一陣の風が吹き抜けるように、その体は月光を浴びて流れた。追い越していく夜より深い漆黒の長髪。感情のない瞳に灯るのは殺意に似た刃物を思わせる蒼い鋭い輝き。端麗な白い顔が、流麗に靡く髪と相まって、この薄汚れた匣の中でさえ美しく凛と輝いて見えた。
正直に言えばこの時、僕は彼女に見惚れていた。
月の光を一身に浴びるその姿が余りに綺麗だったから、彼女がいるだけで黒と赤のコントラストが演出に思えてしまうほど優麗で。息をすることさえ忘れて見入ってしまった。その、この世のものとは思えない美しさに心を奪われていた。
だから――僕が首元を薙いだ銀光に気付いたのは、既に彼女が腕を振り切った後のことになる。旋風は木枯らしを生むように、闇を切り裂くその目も覚めるような閃き。回避出来たのは偏に、少女の振るった刃に殺意がなかっただけのこと。殺す気のないナイフは虚空を切り裂き、少女の体が着地する。寸間遅れて、髪が重力に従って垂れ落ちた。
ぱさり、というその音を聞いて。自分の中の何か柱のようなものが折れる音を錯覚。全身から力が抜けて、ほんの気紛れ程度の違いで刹那ほど前に自分が死んでいたことを理解する。途端、膝が笑い、姿勢が後方に傾ぐ。天を仰いで倒れる体をしかし、少女は許さない。視認出来たの一瞬だけ。細く白い腕が伸び、僕の襟を捕らえる。後は力任せに引っ張られ、片側から強引に引力を付加された体は半回転して引き上げられる。
その結果、僕は少女に背中を向けて――しかもまだ足には直立に十分な力が入らない――半ば吊るされる形になった。さらには羽交い締め。呼吸器官の圧迫。止めには、首筋にナイフと来ている。どう考えても詰みだ。首筋に切っ先を向ける刀身を直視したわけではないが、気候とは無関係の冷たい空気がそれを否応にも悟らせる。動物の直感だ――今動けば、僕は間違いなく死ぬ。殺される。
かちり、音がして。
――凍えるような冷え切った死の悪寒が、首から全身を駆け巡った。
「もう一度言うわ。これが最後通告。次はないと思いなさい。あ、頷いたらダメよ。そんなことをしたら頸動脈が切れちゃうから」
「…………」
笑うように、涼やかな声が告げる。僕はちっとも笑えない。当たり前だろ。明確な死を今まさに突き付けられている最中に笑えるなど正気の沙汰ではない。その逆もまた然り。
だがそんな常識が通じないことも、同時に僕は理解していた。だって、そうだろ。どう考えたってこの場所は異常なんだから。既に終わった街の瓦礫に囲まれ、外界から隔離されたここは今や一つの異界。境界を外れた匣の中に同じ。僕の常識や良識が通じる道理など皆無なのだ。
ぎゅっ、と、少女の腕が締殺に力を加える。肺に取り込まれる酸素が極端に減少。感覚だけが研ぎ澄まされ、敏感になった肌は間近に迫る断末魔を感じ取る。
僕は、この瞬間、まるで当たり前のようにそれを――自分の死を受け入れていた。その、絶対的な終末の足音を確かに聞いていた。
……かと思えば。僕の覚悟に似た諦観を嘲笑うかのごとくないし、生への執着を擽り刺激するみたいに拘束が緩む。僅かに生じた安堵に付け込み、少女の声。
「そんな状態でも声くらいは出せるでしょ? 大丈夫、簡単な質問だから。答えは二者択一。イエスかノーでいいから答えてね。何度も言うけど、動いちゃダメだから。ちゃんと言葉で答えるのよ」
兼ねてからの目的であったそれを再確認。僕にとっては今更でもある。何を問うつもりかは知らないが、生命の終焉を見せられ、直後に生命の危機に迫られるこんな状態ではまともに回答などできる気がしない。
「アレ――」
顎の下から腕を突き上げられる。彼女が『アレ』呼ばわりする変死体に視界が定められて固定され、
「――貴方がやったの?」
笑い飛ばして否定してやりたい、そんな詰問を堂々大真面目に垣根無しの待った無しに本気の本心から至極当たり前に問う。
「……馬鹿言うなよ、そんな訳、ないだろ」
詰まる呼吸を吐き出して、虫の息ほどのそれに言葉を乗せる。アレを僕がやったのかだって? 笑ってやりたいがそう出来ない。微動だにもすれば首筋から鮮血のアーチだ。致死量は軽く望める出血大サービスをしてやるほど僕は自分の命を持て余していない。
「本当に? アレ、本当にアンタじゃないの?」
少しだけ年相応に近付いた声は、どこか驚きを隠しているようにも聞こえた。お前こそ本気で僕を疑っているのかよ。そっちの方が驚愕だ。まともな神経をしているとは到底思えないね。
「……分かりました。貴方を解放します」
言って、首の束縛が解ける。するり、といやに扇情的な感じで肩を滑り降りる少女の腕。その感触に寒気を覚えながら脱力した僕は刹那の後、唐突に二度目の驚愕と衝撃を味わうことになった。
腹部に激痛。この感じだとおそらく、少女の爪先が思い切り加速を付けて脇腹に食い込んだのだろう。不意討ちにも程がある、しかも背後からだと。身心共に弛緩し切っていた僕がこの力業に対抗できるはずもなく、為す術などまるでないまま蹂躙された。
「ふうん。確かに――この惨状で、その格好は有り得ないわよね。おっけ、了解したわ。アンタの言ったこと、取り敢えず信用出来るって分かった」
人を蹴り飛ばした張本人は暢気にそんなことを言っている。何を考察しているのかは知らないが痛い。直撃を喰らった患部の横腹もそうだけど、倒れた衝撃がダイレクトに腰に集まってきやがった。その苦痛に耐え、なるたけ冷静に努めて今度は僕が訊く。
「……何が、どうなってんだよ」
自発的に質問する権利が回帰したのかは定かでないが、当面で最大の疑問を口にする。月光の輪を離れた少女の姿は丁度胸から下しか確認出来ない。闇に紛れる死神は一歩踏み出して、僕と、僕の背後でようやく流血を停止させた肉塊を順番に指した。
「それ、アンタがやったなら返り血を浴びてないわけないから。客観的に見てまずアンタは犯人じゃない。だから納得したのよ、アンタの言ってることは本当なんだって」
「君さ、いいこと教えてやるよ」
嘆息混じりに僕は言う。
「そういうときって、素直に謝るもんだぜ」
肋が折れてるかもしれないから、謝罪は治療費という形で行って貰えれば助かる。……いや、言葉による謝罪も勿論求めたい。なにせ僕はまったくの冤罪で死の境界線を垣間見せられたのだから。こんな体験滅多と出来るもんじゃない、出来れば一生経験したくなかった体験だ。
「そっか。それはいいこと教えて貰ったわ」
果たして彼女は一切悪びれる様子などなく、散歩するような軽い足取りで月下に姿を現す。改めて光の下で見るその全貌はやはり、夜空の一点を穿ち輝く月のように、ともすればついさっきまでのことを水に流してしまいかねないほど儚く綺麗だった。
「ちょっとだけ見直した。謝るだけで、復讐をしないなんて。――アンタ、いい人でしょ?」
「……さて、どうだろうな」
月を背景に、その少女は手を差し伸べる。月明かり。闇に延びる道標の様。――僕は迷わずその手を掴む。凶器を振り回す物騒な目とは違い、その手には確かな温もりがあった。
「こんばんは、久刻十字くん。さっきは疑ってごめんね。――はい、これで解決。本当、善人よねアンタ」
不敵に悪魔に微笑んで、今宵の満月も霞んで見えるほど眩しくも柔らかな笑顔を作って少女――天門坂一月は人を小馬鹿にするみたいに言うのだった。
ていうかこの女、本気で表面上の上部だけでしか謝らねえよ。
人間は一度に複数の事象を整理して処理できる生物ではない。これは僕の持論なので、世界にはそういうことの可能な人達もいるだろう。しかしそんなのは少数派で、断言してもいいが僕は間違いなく庶民派である。残念ながらそこまでハイスペックな脳を持ち合わせてはいない。
異なる二つの事象が同時に、あるいは連続して発生した場合、では僕のようなミーハーはどんな風に対処しているのか。なんてことはなくて、ただ起きた物事を縦に並べて一つずつ解決しているのだ。その順列とはそのまま優先順位。例えば自分に関係のないところで進行して完結した事象を事後に客観視するのと、自らが当事者となっている現在進行形の事象を主観視するのとではどちらが優先されるべきかなど考えるまでもない。自分が殺されようとしている場面にも関わらず、既に殺された誰かを気に掛けるなんてこの世の誰に出来ようか。下手をすれば嫌でもその誰かと面を突き合わせることになりかねないのだから、急ぐことはない。自分の命の続いている間はそれを大事にしよう。
とどのつまり何が言いたいのかと言うと、僕は今の今まで自分の目撃した『異常』をすっぱり忘却し切っていた。原因は明らかに天門坂の凶行(殺人未遂傷害罪冤罪エトセトラ)。実感は実観よりも遅れて訪れる。自分の見ているこの景色が、自分のいるこの匣の中が殺人現場であるなどと、簡単には認識できなくて当然だろう。
「……いや、そもそも殺人現場とかいうのも間違ってるのか」
四肢を引き千切られた……喰い千切られた血と肉の塊。人間大の残骸みたいな巨大な肉塊。こんな惨状を殺人と呼ぶことが果たして正しいのか。僕にはむしろここと同じ、災害跡と言った方がしっくりくる。こんなのは人間の死に方でも死に様でもない。ヒトとして殺されず、ヒトとして死ぬことの出来なかった憐れな誰かの成れの果てがそこにはあった。
僕がそんな風に事態をまとめていると、
「そうかしら? これってどう見たって殺人じゃないの」
僅かな月明かりを頼りに現場検証を行う少女の背中が言う。他ならぬ天門坂一月。彼女はどうやら僕とは頭の構造が違っているらしく、誰かを殺そうとしながら殺された誰かのことを思考できる優秀な脳をお持ちのようである。僕に着せた濡れ衣を自分で脱がせた天門坂はすると、一方的に久刻十字から興味をなくし、今のように死体(便宜上そう呼ぶなら)の観察に移っていた。ちなみに僕は天門坂から距離を置いて、彼女によって惨劇の光景が遮られ、目に入らないようにと選んだ立ち位置でおそらく元はオフィスビルの一部だったとおぼしき瓦礫に凭れている。
「自殺じゃないのは明らかよね。自分じゃ自分の両手両足を引き千切るなんて不可能だし、それを処理することも出来ない。事故では有り得ない状態だから、これは他殺で、突発的なものとも思えない――てことは、これは故意の殺人。そうなるでしょ?」
疑問系にされたって困る。それに僕が言いたいことはそんなことではない。天門坂は『事態』を見てその惨状を『殺人』という言葉に定義しているが、僕が言いたいのはあくまで変わり果てたカタチで散らばった元人間体についてだ。重ねて言うが人間はそんな風に死なないし、人間ならこんな風に死なせない。さながら暴風が通った後のように、殺人定義もその意義すらなく、基づくのは大義名分などではなくて一瞬の衝動。自然災害みたいに、理由なく運のなかった誰かが壊れてしまっただけ。
殺す目的があったのではない。これではまるで――
「貴方、死体を見慣れてるのね」
天門坂の興味を亡骸から逸らしたのは不本意ながら僕であった。まるでそれまで考えていたことが筒抜けにされているみたいな奇妙な感覚。見透かしたような目で天門坂は僕を見る。腕を組み、赤黒く汚れた壁を背後に、その凄惨なバックを従えて揺るぎなくまばたきすらない眼差しで。
「……まあな、見慣れてるってほどではないけど。他人より少しだけ耐性とか経験とかがあるってのは事実だよ」
それよりも、むしろ言うなれば、僕が慣れているのは死体ではなくて『死』そのものだと言った方が正しいのだが。広義では変わらないし、天門坂もその程度の細かい差異を指摘するほど真剣に言ったわけではないだろうから付加説明はしない。
――思い出すのは、循迷うように漂う死の臭い。
焼けた瓦礫と救済を懇願する断末魔。
静な夜に浮かぶ破滅の月。
地獄の顕現を見下ろす無慈悲な冷たい金色の孔を思い出す。
「お前だって随分落ち着いてるじゃないか天門坂。普通女の子がこんなのみたら悲鳴くらい上げるものなんじゃないのか?」
「さあね。そんなのは分かんないわ。他と自分を比較してどっちがまともかなんて、考えたこともなかったし考えたくもないもの。でも、確かにわたしはちょっと可笑しいのかもね。――うん。慣れてるって言うなら、それは多分わたしの方だから」
訥々と、天門坂は言った。
「普通よりは見慣れてるし、感じ慣れてる。死の手触りも、臭いも、音も色も通常よりは慣れ親しんでるわね。もう、七年になるから」
何を言っているやらさっぱり分からないのは、天門坂が故意に于遠な言い回しをしているからだろうか。僕に理解力ないという理由でだけはあって欲しくない。
「……もう一つ質問、いいか、天門坂?」
「構わないけど。……なに、なんだかやけに絡んでくるのね」
お前ほどではないさ。何せ、話したことがないどころか目があったことすらもないクラスメイトを殺そうとするのだからな。僕としては名前を記憶されていただけでも驚きに値する。彼女のナイフを振りかざす姿はそれ以上に盛大な驚愕をもたらしたことは言うまでもないことだ。
それはそうと、僕は天門坂一月に尋ねる。
「お互い様ってことで、答えたくないなら無理には訊かないけど天門坂、お前はこんな時間にこんなところでしかもこんな時に何をしてたんだ?」
枯さんの目撃証言から考えて、僕が移動に費やした時間(往復なのでその二倍)を最低としておよそ一時間近く日が暮れてから天門坂は災害跡にいたことになる。僕が言えたことではないのだろうが、はっきり言ってわざわざ立ち入り禁止区域にされているこんな瓦礫の山に訪れる意味が分からない。ましてや、天門坂一月ともあろう学園のアイドル的優等生がこのように非行染みた真似をすることは一片の理由すら見当たらなかった。
天門坂は表情を変えず、しかし内心では返答の句を模索しているのだろう少しの沈黙を挿入してから口を開く。無理には訊かない、などという文句が質問される側にとって、答えなければならない、といった強迫観念に比類する効果を持つことは分かった上で前置きしたのだが。正直なところそれでも天門坂が質問に応じてくれるとは思っていなかったので驚いたことは否定出来ない。加えて、
「強いて言うなら好奇心ってやつ。知ってるよね、久刻くん。今この街で何が起きてるか。だからさっき『こんなときに』なんて言ったんでしょう? ……まさかテスト前だとかそんな意味で言ったんじゃないんでしょ?」
咄嗟に言ってしまったことが逆にこちらの腹を読まれる隙になってしまったらしい。この天門坂の返答は同時に、彼女の読み取った僕の推測が正解であることも表していた。
「連続失踪事件。今月に入ってから二週間で四人が消失した今一番のフレッシュなゴシップ、この街に住んでるからには知らない訳ないわよね」
そして。
「端的に言えばね――」
僕を仰天させるに足る言葉はそれらを聞かされた上で、自然な流れの中で到来するのだった。
端的に言うと、天門坂が続きを口にする。
月光の下、幽かに翳る深層の心。あっけらかんと、
「――この失踪事件って、連続殺人なのよ」
にわかに信じ難い、けれど薄々誰もが意識し始めている最終結論を簡単に口に出すのだった。さらに天門坂の告白はこれに留まらない。僕は驚きの上に更なる同一の感情累積させられ、それさえ感情として処理しきれない内に重なる事実の宣言に見舞われる。これが最後になる驚愕は、今夜最大の爆弾となって投下された。
「わたしはその犯人を追ってるの。見つけ出して、必ず殺す。わたしがしたいのはただの復讐よ。……あ、これじゃあ質問の答えになってないか。いいわ、つまりそういうこと。今夜こそ、このいかれた殺人鬼を見付けてやろうと思ったのよ」
鬼気迫る形相の上から塗り固められた平静の仮面。取り繕っても隠しきれない冷酷な蒼の瞳。闇に煌めく銀色の軌跡。感情の一切を圧し殺して刃を振るう少女の姿を脳裏に描かざるを得なかった。
「でも今夜は失敗。やっと見付けたと思ったら空振りだもん。紛らわしいったらないわね。それでも気付いてよかった。勘違いで殺しちゃうのはよくないもんね」
おどけるように無邪気に笑う少女に戦慄を覚えた僕の中枢神経はこの瞬間確かに正常に稼働していたことだろう。気温も冷え込み始めた近頃。夜の冷たい影の中にいながら背中に発汗を感じたとしてもそれは、なにも間違った代謝反応ではないはずだ。
「……連続殺人って、なんでそんなこと分かるんだよ」
寒気に震える胸中の、その動揺を気取られないように努めて重ねて問いかける。
「異なことを訊くのね久刻くん。見れば分かるでしょ、そこにある死体がなによりの証拠よ」
「そこにあるものが失踪に関連してる確証はないんだろ。失踪事件とは別の……ただの変死体かもしれないじゃないか。あれもこれも同一の事象として捉えるのは早計じゃないのか、少なくともこの死体が今月四人目の失踪者になるとは限らない」
「最初の失踪が起きてからもう直一ヶ月よね。都合九人目を数えるこの事件の当事者が生きてるって方が理に叶わないと思うけれど。まあいいわ。論より証拠とか、そういうことが言いたいみたいだし。それじゃあ久刻くん、仮に貴方が前回の失踪事件直前に同じような惨状を目撃しているとしたら――もしも、今貴方の見ているものと同じ光景を四日前に発見して、その翌日にこの街から一人の人間が消えたとしたら――?」
貴方は今夜、どんな推測を思い描くかしら。なんて、悪戯に微笑む天門坂。したり顔が口元を歪める。なぜだか表情は笑っているのに、視線は一層冷ややかに研ぎ澄まされているみたいだった。まるで氷点下寸前の水が背筋を滑走しているように、寒気は骨髄を通して全身に行き渡る。心の動揺に共振する体。天門坂の言いたいことを理解して僕は、どうしても自己の感情を押さえきれなかった。
「分かるでしょう? 貴方はさっきわたしに『驚かないのか』なんて訊いたけど、一度見たことのある手品に二度目も初見と同じ新鮮な感情は生じない。慣れてるって意味は、確かに的外れではなかったみたいね」
爪が掌に食い込む痛み。熱い、たぎる血液の滲み。この感情をなんと呼ぶのだろうと思考して思い至る。嗚呼そうか、僕は初めから恐怖して心を揺らしていたわけではない。揺れていたのではなく、弾んでいた。さながら鼓動は舞踏の囃子。跳ね上がる脈動は高騰する精神で、だからこの意思を言葉にするならばそれは。
「ちょっと聞いてるの? 人が質疑応答してやってるのに、さっきから別のこと考えてるでしょ、アンタ」
「え……ああ、悪い。なんかぼうっとしてた」
「……呆れた。血の臭いで頭沸いちゃったんじゃないの。慣れてるとか言って、実はそうでもないのね」
心底不満気に溜息を吐き出す端整な顔立ち。どうでもいいがこいつ、話してる間にころころと態度を変えてくる。日付単位ならこれの強化版が友人にいるけど……いや、あれが天門坂の強化ではなく、天門坂があれの劣化に当たるのか。何にしろ、変わっているのは人格ではなくて性格の方に依っていて、それさえも大袈裟なので態度に若干の揺らぎがあると形容しておこう。芯にあるものがぶれていないのに、その周辺が落ち着かないから気持ちが悪い。
さておき、僕は天門坂の言わんとするところをまとめた風な発言を謝辞の代わりに述べた。
「……てことはつまり、こんなことがつい四日前にもあって、それで、失踪は神隠しなんかではなく殺人通り魔だと結論付けた……ってことか?」
「そんなところ」
「さっき物騒なこと言ってたよな。犯人、見つけ出して殺すんだとか、なんとか」
「それがなに?」
「……不謹慎かもしれないけど、それってつまりさ――お前の知り合い、それも比較的親しい誰かが――」
皆まで言わずとも、静かに蒼い瞳が語っていた。その通り。殺意を孕んで虚空を穿つ、爛と灯る感情の火。闇に光る、それはまるで夜空に座する天の月。
「久刻くん、今夜はもう遅いから帰った方がいいわよ。よく言うでしょ、犯人は犯行現場に戻るって。いつまでもこんなところに蟠ってたら、ちょっと冗談じゃ済まない事態になりかねないと思うんだけど」
暫定的にではあるが。答えを得た僕はそれで天門坂一月という少女を少しだけ理解した。まるで死神が悪魔に憑かれたよう。復讐者として殺意を受け入れていた、自分と同じクラスの優等生。
この夜。
――僕は少女を同胞と見誤った。二人の目指す先が同じであると、勝手に判断してしまった。
だからかもしれない。
「危ないのはお前も同じだろ。ていうか、天門坂の方が襲われる可能性は高いじゃないかよ。……まあ、刃物持ってるわけだけど。夜が危険なのは何も、いかれた殺人鬼に出くわすかもしれないってだけじゃないんだから。頭の愉快な輩はわんさかいるだろ」
そう言って、付き添って帰宅することを遠回しに提案してみるもやはり、天門坂は天門坂であり、彼女は学園のアイドル。泣く子も黙る美少女なのであって、僕のような一介の男子高校生のエスコートなど、
「もしかして心配してくれるの? へえ、心底お人好しね久刻くん。簡単に気を許したら今度こそ背中からザクリ、なんてこともあるかもしれないのよ?」
冗談にならないことを冗談みたいに苦笑ではない笑顔で口にして、
「それにわたしは――貴方のこと、恨んでるんだから。それこそ、殺してしまいたいくらいにね」
冗談にすらならないような悪辣な台詞と共に笑顔に隠した殺意を仄かに覗かせて――破滅の月はこのとき、まごうことなき心底に広がる波紋を憎悪の形に滲ませた。
「……天門坂?」
くすり。艶やかな唇が笑みを溢す。
かくして、焼けた災害跡地に隠された猟奇死体の果てる赤黒い闇の充満する匣の中。久刻十字は天門坂一月と初めて言葉を交わした。出逢ったというならばこの瞬間がそうであって、けれど始まったというならそれはきっと今ではなく更に過去のある日。終日の赤い夜。絶望の月の見守る世界の上、大地の激震の裏で、人々の叫びの奥で、この酷く滑稽で醜悪な螺旋状の復讐劇はひっそり幕を開けていた。
天門坂は笑う。声に出さず蒼の瞳で幽かに美しく。……本当に、僕は彼女の言う通りお人好しだ。自分を殺したいと宣言し、かつ実際そのように行動した相手の姿を見て、綺麗だと本心から思ってしまったのだから。
それは、僅かに月明かりの差し込む絶望の匣の中。
過ぎて行く夜。頭上の月もいつかは空に溶けて見えなくなる。永遠を思わせる遠い深淵の空もやがては朝に代わるのが世の理。
終わらないものなどない。
この世界は決して、永遠ではないのだから――。




