/Ⅱ
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天気快晴にして気温も温暖。長くこの国を配下に置いていた冬大将軍がシベリア寒気団を引き連れ、春の季節風に押し戻されるように撤退を始めた三月の上旬の頃だった。まるで何てことのない、それは変わり映えがしないといえばその通りで、変哲のない日常の一ページというならそれも間違いではない。その、変化のない幸福を確かにこの街は肯定していた。
日が暮れて。
誰かが運悪くスイッチを押してしまったみたいに。
世界はあっさりと顔色を変える。
建造物の軋む音が人々の絶叫を飲み込む絶望の渦中。二次災害により発生した火災。炎は瞬く間に街全体を丸呑みにし、煉獄を思わせる世界は黒煙の空の下で幾つもの命を焙った。それは本当に、鮮麗過ぎる崩壊の過程。生きたいという気力を根っこから削ぎ取っていくような、見事なまでの終わりの景色。地獄が顕現したといっても過言ではない。絶え間なく喉を裂いて放たれる救済の声も、月には届かず。僕らの街は、灰塵と瓦礫に還った。
十年前の震災はそのような様相を呈していた。生きている者が間違っていて、死んでいる者が正しい。生は偽りで死こそが真。誰もがそう錯覚してしまうほどの、凄惨な夜。
不意に、黒煙に霞む月を見上げてた。空はあんなにも遠いのに、何故かその晩天を統べる金色は大きくて、手を伸ばせば届くんじゃないかと思ってしまったのだ。無論、届くはずなんてない。最後に残った気力を全て注ぎ込んで突き出した掌は煤に汚れ、傷はないのにぼろぼろに見えた。その小さな手が、ぱたりと落ちる。
瞼は開いているのに視界が薄れていく。目を閉じようとしているんじゃなくて、光が失われようとしている。世界の果てに見えた地平線は薄っすら明るくて、もう少しでこの夜が明けようとしているらしいことが死に損ないの頭でも理解できた。
その綺麗な朝焼けを見て、涙した少年がいる。
生きたいと、もう一度叶わぬ願いを抱いた少年がそこにいて。
“キミも、一人なの?”
地獄の中。
煉獄の底。
終わった街の片隅で、その誰かは訊いてくる。
声は優しくて、泣きそうなのに歓喜しているみたいに聞こえた。
“そっか、それじゃあ私達は同じだね。……ごめんね、私は――”
彼女は最後に何と口にしたのだろう。
それだけが思い出せず、夢はいつも温かい腕に抱かれて終わる。
鮮明に思い出す、その瞬間。生きたいと、助かりたいと自分勝手に抱く願いが叶えられた瞬間。終わりの夜が明けて、暁の空から黒い絶望が退いて行く。代わりにやってきたのは始まりの朝。黄金に染まる朝焼けに滲んだ希望の空。
“――――”
僕に出来ることはただ、落ちていく意識を懸命に繋ぎ止めて、涙を零しながら何事かを呟く彼女の声を必死に拾い上げることだけだった。
…
目を覚ましたのは、さて何が原因だろう。
これほどにすっきりと目が覚める朝は珍しかった。起き抜けにも関わらずここまで頭が冴えていることもそうあることじゃない。とまあ自分の寝起きの良さに驚きつつ、畳み掛けるように次なる吃驚の種は嗅覚に訴えを起こす。空腹を誘発する、芳しい匂いに部屋が満ちていた。
極め付けには。
「おはよう久刻くん。朝ご飯出来てるわよ」
フレッシュに微笑んでそんなことを告げる、全国の男子高校生が脳裏に描く妄想を具現化して投影したかのごときエプロン姿がそこにいるのである。その妄想は名を、天門坂一月と言う。黄色いエプロンを身に纏い、髪をポニーテールに結んだ珠玉のベストショットを目の当たりにして思った。ともすれば、ここは天国なのか?
「………………あの、天門坂さん?」
僕は、まず何よりも優先してここが自分の部屋であることを確認。見慣れた天井。防音効果の足りない汚い壁。硬い安物の折りたたみベッドソファー兼務。どうやらここは自室で間違いないようだ。天国ではない。
ならば――当然帰結する疑問。
何故、天門坂一月がここにいるのでしょう?
「そりゃあ、アンタが昨日送ってくって言って聞かないから『じゃあお願いね』とか適当なこと言っていっしょに帰るフリをしつつ背後に回って――久刻くんが危ないから今夜は近くにある自分の家に泊まって行け。って言ってくれたんじゃない」
「嘘吐けお前! 冷静に言い換えたって手遅れなんだよ!」
そういえば後頭部がひりひりする。こいつ、一日に何度人を暴行すれば気が済むんだ。
会話の中で、僕は少しずつ昨晩のことを思い出していた。あの凄惨な現場も、天門坂に殺されかけたことも、一睡程度で忘却出来るほどあっさりした記憶ではない。下手をすれば生涯トラウマとして付き纏わないでもないほどの、人生第二の厄日が昨日であると称して差し支えないだろう。
「……うるさいなあ。ごめんごめん、反省してるわよわたしだって。だからほら、朝ご飯作ってあげたんでしょ」
「投げやりに物で謝罪しようとするな」
それからこら、何でお前、ペタンと座って行儀のいい姿勢のまま僕と会話しつつ飯喰ってやがる。そんな態度で謝られたって誠意の欠片も感じ取れねえよ。
「アンタを担いでここまで運んできて上げたし、それからベッドも譲って上げたのよ」
「僕の部屋のベッドだ。譲るも何も僕の物であって然るべきだ」
「あーもう、うっさい! あんまり文句ばっかり言ってたら、これ全部一人で食べちゃうわよ!」
「それだってこの部屋にあった食材だ! 本来お前が口にしていい物じゃねえ!」
ちゃっかり自分の分は完食している天門坂。ベッドの上の僕を睨みつけながらも礼儀正しく手を合わせて「お粗末様でした」とか言っている。食事と口論を同時に行えることに、僕は関心さえしてしまいそうだった。……いやいや、賞賛している場合ではない。
天門坂は自分の使用した食器を持って三歩ほどの距離にある流しに向う。手際よく食器類を洗い終えると、何事もなかった顔をして再び床の上に腰を下ろした。依然として冷戦状態が続く。天門坂はだんまりを決め込んで僕の瞳をロックオン。
……無理です。耐えられません。
「分かった……僕が悪かったよ」
「それだけ?」
「美味しそうな朝食を用意してくれてありがとう天門坂さん!」
「どういたしまして、久刻くん」
なんだろうこの屈服感。生きた心地がしない。
というのは嘘で。
屈服感は腹の虫の泣き声により空腹感に変わり、これほどにないほど生きた実感を僕に与えるのだった。だってしょうがないだろう。どう考えたってあり合わせの材料しか使っていないはずなのに、僕の前に並べられた天門坂お手製の料理達は、美食の言葉が形を成して顕現したみたいにどうしようもなくそれはそれは大層に旨そうだったのだから。
人の尊厳が欠け落ちていくみたいな朝食が終了して、天門坂が立ち上がった。僕の使用した食器は自分で処理しろとの無言のお告げである。当然のことといえば当然のことなので咎めるつもりはない。それよりも今は、この満腹感に呪詛を唱えたい気分だ。舌鼓を連打する自分が恨めしくて悔しい。……十点。
玄関を出て、見送りに出た僕を天門坂は振り返ると、
「わたし、今日は学校休むから」
伝言を任せるという意味だろうか。天門坂は突然サボタージュを宣言した。無論、これに際しても僕は糾弾するほど真面目な生徒ではない。休みたいならば好きにすればいいのだ。天門坂の誇る輝かしい経歴に泥が付いたところで、僕はちっとも困らない。優等生の幻想が壊れてショックを受けるのも、実に今更。僕の中の天門坂一月はスケルトン使用の猫を放棄している。
「それから」
だから、だ。
聞かなければよかったと、後々思ってしまう彼女の発言はここから後である。
「もうわたしには関わらないで。それから、あの災害跡にも近付かないこと。これ以上――貴方は事件に首を突っ込まないって約束しなさい」
必要以上に接近しておいて、一方的に突き放す。天門坂一月の瞳は昨日見た冷淡で鋭利な蒼を輝かせ、拒否を許さぬ拒絶の意思を僕に訴えかけているのであった。
その瞳に何と返事をすればよかったのだろう。僕は何事を口にすることもなく、天門坂は沈黙を肯定として解釈したのか軟らかく微笑んで――苦笑とも取れる、幽かで儚い嘆きの笑みに口元が歪む――下ろした長髪を翻して颯爽と僕の前から姿を消した。
……全くもって、勝手な奴である。
「朝から若いねえ、久刻くん」
と、あらぬ方向から場違いなほど軽薄な声。お隣を見れば、本日もまたばっちり黒のファッションで決めた枯さんの登場。着ている服は毎日違うので、色が黒に統一されているのは彼の好みと受け取って問題ないと思う。
「だけど頂けないな、君はまだ未成年だろう? もう少し弁えた方がいいよ」
「何を勘違いしてるのか知りませんけど、別に天門坂と妙なことは起きてません」
厳密には妙なことになりまくっていたのだが、枯さんの思い描く桃色の妄想とは遠くかけ離れた生臭い血色の現実はこの場では伏せるべきだろう。この場でなくても永遠に伏せなければ。これは僕が墓場まで持っていくべき思い出だ。
いつからそこにいたのか、枯さんは共同廊下の柵に持たれていた。僕はともかくとして、天門坂が気付かないとは思えないので二人は入れ違いに現れたと考えるのが妥当だろう。会話に関しては部屋の中にいても……流石にそれは言い過ぎか。玄関くらいにいれば外の音が聞こえないでもないから、偶然外に出ようとして扉の向こうに僕と天門坂がいることに気付き聞き耳を立てていた――事の次第は以上のような感じだろう。
ふと違和感を覚える。枯さんの目が、どこか虚ろな風に見えたのは気のせいか。
「……枯さん?」
呼び掛ける。と、黒装束の隣人はぱちりぱちりと二度ほどのまばたき。表情は変えないままで、目の焦点だけが会話している僕に定まった。それだけの変化で彼は死者から生者に蘇生を果たす。虚空に泳いでいた眼光は普段の温厚な色を取り戻していた。
「いや、これは失敬。久刻くんが俺の予想を越えてとんだ当り籖を引いていたもんだから、驚いちゃってね。へえ、あの子が天門坂さんねえ」
「……僕の話聞いてますか? 言い方が悪かったのなら訂正しますけど、天門坂とはただのクラスメイトでしかないですよ本当に。昨日まで話したこともないんですから」
「いやいや、人と人との関係なんて一晩もあれば劇的に変化するものなんだよ。何にしたって、現象の切欠はほんの些細なことでしかないのだからさ」
この人には何を言っても無駄な気がする。ここまで嬉々として話を弾ませようとしてくる枯さんは滅多に見られたものではないのだ。一方的に聞き流すのが得策だろう。ていうか相手をしてられない。早々に打ち切らないと、折角安全圏で起床したのに遅刻してしまうじゃないか。
「あの、枯さん。悪いんですがそろそろ学校行かないと、時間が危ないんですけど……」
「ん? おっと、そうか。そうだった。悪いね久刻くん、朝から俺の話に付き合わせちゃって。いやいや、さっきの彼女があんまりあれだったから、つい熱が入っちゃったよ」
「ははは。いえいえお気になさらず」
作り笑いで全てを受け流す僕。この技は既に達人級にまで鍛え上げられている。
「おや? 丁度いいところに彼女、もしかして久刻くんのお友達じゃないかな」
はい? と、ここはスルーせずに素直な反応を示してみる。枯さんは背にしていた柵の外に首だけを振り向かせて、正面の通りを見下ろしていた。倣って僕も同じ方向に目をやる。そこにいた人物を認識して、僕の気分は高揚を抑止出来なかった。なにせ、そこから奇怪なものを見る目でこちらを見上げていたのは誰あろう遙風輪廻だったのだから。これは嬉しくて仕方ない。今日はいい日になりそうだ。枯さんも可笑しな勘違いを起こすなら彼女とにして欲しい。
「そうですね。てことで、僕はそろそろ退散させて貰います」
高ぶる感情を抑えて枯さんに別れを告げる。いつもの細い目の微笑が僕を送り出してくれた。この人、中身さえ知られなければファンクラブでも創設されるんじゃないかってぐらい、実は笑顔の爽やかなお兄さんである。
僕は人畜無害のスマイルに背を向けてやや小走りに駆け出した。余計な言葉は発しない。沈黙は無関心。孤独と静謐。孤高と孤立。世界には無関心が溢れ、静謐が満ち、無関心の中に死が埋もれている。
――それが、この世界の在り方。ならば無駄に多くは語るまい。楽観的に主観的な娯楽を貪る人生。僕の理想とする今際の際は、快楽に溺れての窒息死だ。だから、さあ今日もこの日を楽しもう。そう思うと逸る気持ちを制御出来ず駆け出したくなる。後は本能に任せるまま――
「ほどほどにしておきなよ、久刻くん」
スタート寸前に聞いた枯さんの声に、不本意にも振り返ってしまう。そこにあったのは、
「深く追求し過ぎると破滅するのは君だ。出来過ぎた偶然の裏には必ず、悪意が潜んでいるものだからね。精々気を付けなよ、少年」
訳の分からないことをつらつら述べる、数秒前に変わらぬ笑顔の仮面だった。
「おはよう遙風! グッドモーニング!」
「おはようございます久刻くん。今朝は随分元気がいいようですね」
朝には弱いと思っていたのですが、とさりとて気にする感じもなく遙風輪廻。
凛とした立ち姿。きっちりと服装をただし、髪は長いストレートで背中に垂れている。手入れの行き届いていることがはっきりと分かるそれは一歩踏み出すたびに繊細な肌理を主張して揺れる。朝日を受けた光沢は、深く黒い輝き。美麗な黒。傷みなどまるで感じさせない長髪は、遙風のお気に入りと聞いている。
スカート丈はおそらく一切手を加えていないスタンダードの膝上数センチ。ブレザーの前ボタンは全て閉めていて、中のカッターシャツも同様。乱れなき風紀を体現している姿の優等生。それが遙風輪廻だった。
「時に、今日は私、久刻くんに話があります」
遙風との会話において、大抵話の主導権を握るのは遙風だった。こっちから話題を振ってみても、それは変わらない。知らない間に遙風のペースに持っていかれ、気付けば術中に嵌っているとでもいうのか。平静なる支配者、遙風輪廻。
今日もまた話の流れを支配してしまった遙風は――こちらの言葉には耳を貸さない、ともいう――しかし、そこまでは普段どおりでも今の様子はどこかおかしかった。 支配者などといっても、遙風は傍若無人やら唯我独尊なんて四字熟語が当て嵌まる人間ではない。人並みの恥じらいは持っているし、道徳も常識も持ち合わせている。だから彼女が何らかの行動の際に戸惑ったり、羞恥心を垣間見せたりすることは多々あることだ。
だが、しかし。なにやら今日は頬にほんのり朱が差している。高揚しているというか、恥らっているというか。なんというのだろう。これは、あれだ。乙女も恥らうお年頃、とかなんとか。つまりはかの遙風輪廻が久刻十字に対して女の子みたいな態度を取っていた。
「その、ですね。久刻くん」
「な、なんだよ……?」
自然、息が詰まる。独特の緊張感に心臓が妙にアップテンポで振動し、脈を打つ。血液の流れが通常よりも速くなったのか、秋も終わりに近づく頃合だというのに体温が異常に上昇している。視界に映る遙風がなぜかやけに扇情的に見えて、自制心を削っていく。
跳ね上がる鼓動を抑え、その代償として理性をすり減らしながら次の言葉を待った。そして、
「久刻くん、今すぐに懺悔しなさい」
「いや、遙風、僕は――……じゃない。ちょっと待て、遙風、お前今なんて言った?」
雰囲気にそぐわない遙風の発言に、戸惑いながら訊いた。
「久刻くん、今すぐに懺悔しなさい」
変わらぬ口調と表情と言葉で、遙風は間髪入れずに切り返してくる。
「懺悔って……僕がか? 一体誰に、なんの罪でだよ」
「私に。……といえば、罪状は思い至るのではないですか?」
遙風はまだ仄かに赤い頬をして、上目使いに僕を睨みつける。その表情がどうということは今は置いておくとして、僕には自分が糾弾される理由が理解不能だった。遙風に、僕が。謝るのは構わないが、一体何を謝ればいいのか。そもそも、それは何の代償行為なのか。意識の奥を探ってみるが、どうやら答えは見えそうになかった。
「いや、なんのことだかまったく分からないんだけど」
瞬間――僕の襟元が強烈な力によって締め上げられ、下方から押し上がってきたそのベクトルに逆らえず、身体が一瞬の間宙に浮く。浮遊感の中で、確かめる必要もないことを確認してみると、僕の首元を締め上げているのは遙風だった。当たり前のように、呼吸困難。
「あ、あの……遙風、さん……?」
肺に残されたわずかな酸素を使いきって、僕は遙風に呼びかける。
「昨日の、ことです。よーく思い出してください。……いえ、詳細は構いません。細部まで正確に思い出す必要はないので、曖昧な輪郭で思い出してください。くれぐれも、余計なことは思い出さないように」
言ってることが、滅茶苦茶だ。罪の糾弾なら僕にはむしろ正確な記憶の想起を求める筈なのに、曖昧にだなんて。
……いや待てよ。
遙風の妙な態度。言動。矛盾した言動。羞恥。言い淀んで言葉を区切り。紅潮。朱色の頬。視線。合わない目。昨日。昨日のこと。懺悔。遙風への懺悔。曖昧。曖昧な記憶の想起。遙風が僕に謝罪を要求してくる事柄はなんだ。これまでに似たことがなかったわけではない。
そうか昨日は。
「かは――」
僕の心を読むのが遙風輪廻の特技であるらしく、僕が解答に辿り着いたそのとき、再び肺への酸素供給が再開された。あるいは本気で僕がヤバイ表情になっていたか。
げほげほと咳き込む僕に、遙風はなぜか微笑ましく表情を綻ばせていた。
「分かってくれましたか、久刻くん」
「ごほ……。心当たりは見付けたよ、でもさ」
でも、だが、しかし――
「僕が遙風のパンツを見たのは事故であって、つまり不可抗力だ。謝罪の必要は」
ない。と続けようとした僕は口を閉ざす。
正確には、顎を蹴り上げられて閉ざされたというべきだが……。遙風の白く長い足は運動エネルギーのあらん限りを尽くし、唸りを上げて僕の顎を蹴り抜いた。衝撃が脳天を貫き、無我の果てへと意識が飛ばされる。
だがしかし、油断大敵。遙風は自ら墓穴を掘ったのだ。
「舌は噛みませんでしたね?」
氷点下の視線が僕の眼球を抉る。全身の血液が凍りつく感覚を味わいながらも努めて冷静に、
「…………白」
「はい?」
違った。
「いや、分かった謝るよ。すまなかった、遙風。君の縞柄パンツを見てしまったことを、僕は心から反省している」
「――――ッ!」
思い出しただけでも、昨日のは衝撃的だった。
これまでにも何度か拝見する機会はあったが、遙風がその度に今度のような暴力に訴える行動をしていたわけではない。つまり、遙風本人にも昨日のことは衝撃的事件だったということか。
耳まで真っ赤になった遙風はわなわなと肩を震わせて僕を睨みつける。反射的に防御の姿勢を取ったが、遙風が攻勢に移ることはなかった。自分の中でゲージを振り切った感情を鎮めるように目を閉じる。
「はあ……。久刻くん、あなたには呆れるばかりです。どうしてあなたは、目の前で醜態を晒している女の子から目を背けることが出来ないのですか?」
「なんでさ。パンツなんて男に見せるための嗜好品だろ」
「――改めて認識しました。久刻くん、あなたとは永遠に分かり合えません」
もう一度深い溜息を吐いて、遙風は俯いていた顔を上げた。
紅潮が治まらない頬で、上目遣い。瞳が潤んだように見えるのは、まさか泣いてたりしないよな?
「ちなみに何度見たのですか?」
「三回」
「……久刻くん。何度、見たの、ですか?」
「……よ、四回です」
視線で人が殺せるんじゃないか、と思わせる遙風の目は地獄の門番よろしくのそれだった。どんな凶悪犯だって最上級の秘密を暴露してしまいそうな視線に僕が耐え切れるはずがない。分かってはいたことだが、遙風を欺くのは不可能だ。
でもまさか階段を昇る際のことに気付いていたとは思わなかった。それってよく考えたら、自覚しながらも隠そうとしなかったってことだし。威風堂々と階段を昇る遙風の姿を思い出して背筋が冷たくなるのを感じた。
「私の人生で一番の汚点です……」
がっくりと肩を落とす遙風。凛とした雰囲気が萎れて、横顔は暗澹たる面持ちを隠さない。
本来そこまで落ち込むことなのか男の僕には理解が及ばないが、遙風の友人としては確かに、昨日のは遙風のイメージに合わない。意外性というかギャップというか。遙風が落ち込んでしまうのも少しくらい納得できる。
だから僕は言わなければならないのだ。
「遙風」
「……なんですか?」
「可愛かったぞ、しましま。僕は嫌いじゃない」
「…………っ!!」
励ますつもりだった言葉は効果覿面。耳まで真っ赤にした遙風は無言で僕を非難するような視線を送ってきた。少し効果がありすぎたみたいだ。まあ、予想通りだけど。遙風は隙のない優等生のように見えて、実は普通の女の子なのだ。
やはりこっちの方がからかい甲斐があるなと再認して、僕の機嫌は朝から最高潮。今日もいい一日なりそうだと実感しながらいつもの通学路を行く。補足程度に、頭から蒸気が出ている描写が似合う遙風が僕と目を合わそうとしなかったことはいうまでもない。その後教室に着くまで僕と口を利いてくれなかった。
遙風輪廻。
規律正しく、礼儀正しい。教師生徒のどちらからも絶大な支持を受ける完全無欠の優等生。定期考査学力考査はともに毎回学年トップ。中学時代、陸上で全国大会の出場経験もあり。文武両道を体現する完璧超人。
そしてなにより――二重人格の女の子。
そんなこんながあって昼休み。以下は余談として語られる。ちなみに、そんなこんな、というのが今朝の一件であることはいうまでもない。あの会話から遙風は一切僕を意に介さず、無視という無視を決め込んだ挙句にとうとう四限目終了のチャイムが鳴った。視線さえ合わさず、ちらりともこちらを見ないから徹底している。しかしその徹底した無関心が放棄されたのは、昼休み開始の鐘と間を置かずしてだった。
ここ数週間の習慣に従って腰を挙げ、僕が昼食のパンを買いに行こうとしたタイミング。ブレザーのポケットに手を入れて財布の所在を確認しているとき。遙風の涼やかな声が僕を呼び止めた。
「久刻くん……と、どこへ行くのですか?」
「購買。昼飯の買出しだよ」
遙風は僕の机の上に視線を落とし、そこに弁当が置かれていないことを認識したらしい。すぐに顔をこちらに戻すと、怪訝な表情で目玉を覗き込んでくる。
「確か、久刻くんはお弁当だったと記憶しているのですが。間違いだったのでしょうか?」
「あー……それは」
僕が昼食に弁当を持参していたのは少し前までのことで、今は諸事情により購買組みなのです。という言葉を飲み込んで、遙風用にと別の理由を用意していた。
「別に毎日弁当持参ってわけじゃないさ。毎朝そんなもん用意するのも大変だろ」
「驚きました。久刻くんは料理なんて高尚な趣味を持っていたのですか?」
真顔で驚いている。
「……いや、僕じゃなくて姉さんがね。言ってなかったっけ?」
「いえ、えっと……確か標月さんでしたか?」
「そ、久刻標月」
もっとも、名字は僕のものだから正式には異なる。血の繋がっていない義理の姉弟。姉さんは僕の名前を優先してくれた。そういえば本名は聞いたことがないな。尋ねることはなかったし、そもそもその辺りの事情には僕と標月姉さんは互いに触れないようにしていた。
それはそうと、今は遙風と話している最中だ。別の思考に気を割くのはいけない。
「それで、だ。遙風。てっきり今日は一日君に無視され続けるだろうと思っていたのに、一体全体なんの用だ?」
遙風は核心を突かれたという風に表情を驚かせる。知らない間に脱線していた話を僕に正されたのが気に食わないのか、コンマほどの間不機嫌顔に表情をシフトさせ口元に手を持っていく。こほん、と作り物過ぎる咳払い。
「ええ、はい。少し話がありまして。昨日のことなんですが」
「なんだ? パンツのことか?」
「ヒサトキくん?」
失敬。どうやら真面目な話らしい。
「悪い悪い。購買でなにか奢ってやるから、許してくれ」
「久刻くんは私など購買の食べ物で手懐けられる、とでも思っているのですね」
なにやら……さらにご機嫌を斜にしてしまったご様子だった。
「しかしまあ、久刻くんがそういうなら、折角ですのでお言葉に甘えましょう」
どっちなんだろう。遙風の、というよりも女性の言動というのはよくわからない。
なんにしても、僕の提案は功を奏したようで遙風の不機嫌は解消されているようだ。どころか、むしろ上機嫌に傾斜したといってもいい。揃って教室を出ると、遙風の歩くペースは先を急かすように早い。ぼやぼやしていれば置いていかれかねない。楽しげに髪を揺らしながら進む遙風の表情は残念ながら窺えなかった。
そして購買に到着。
我が校の購買の商品は一部を除き日替わりである。おばちゃんが試験的に新商品を生み出したり、廃止したり。毎日通っていても飽きない工夫だというなら、間違いなく大成功だろう。他の高校のことは知らないが、主観的に見てこの購買の客入りは多い。蠢くように犇めき合うように、商品を物色する人の群れが今日もまた軍隊よろしく群集している。
「ストロベリータルト」
「すとろべりー……なんだって?」
凛と背筋を伸ばし、鋭い眼光で僕を射抜きながら遙風は悠然と言い放った。いやいや、そんな単語ぶつ切りで言われても、と思った僕は瞬時に戦慄した。轟然と燃える闘志を宿した瞳が、揺ぎなく僕を見据えている。
唖然としていた僕はだらしなく開きっ放しの口を閉じ、目の前の光景を直視した。
そして。
今日一番の真剣な剣幕が、そこにあった。
「行きましょう……久刻くん。戦いは既に始まっています」
「遙風、ここは購買だ」
「違います。ここは既に――戦場です」
「……」
「賽は投げられたのです。さあ、行きましょう!」
とととん。小気味いいステップ。爪先がリノリウムを打つ音が響く。
遙風は背中に流した長髪を、ポケットから取り出したゴムでポニーテールに変形させた。それが、戦闘準備完了の合図だったのかもしれない。ステップを確かめるように一定のリズムを刻んでいた脚が止まり、視線を落としていた遙風の顔が前方を向く。
横顔だけで分かる。
遙風は間違いないく、これから死地へと赴く騎士の心境だ。
「あの……遙風さん……?」
気合や闘志というには既に強大過ぎる遙風の気迫は、差し詰め戦場に立ち込める殺気。一般小市民である僕など空気も等しく飲み込み渦巻く。呂律が上手く回らないのは、僕が完全に気圧されている証拠だった。
「行きますよ、久刻くん」
数十の叫び声が入り混じる昼の購買。誰もが勝利をその手にと自らを叫し、ここに必勝を謳う。己が勝利の為に仇なす全ての敵を切り捨て進む、狂乱の戦士達。流れる鮮血も、轟く絶叫も、ここでは全てが無為に等しい。
戦場にある希望は唯一つ。栄光という名の一つの勝利。その輝きを掴むために、誰もが命を削り、死力の限りを尽くして前へと進む。一歩、また一歩さらに前へ。向かい風も乗り越えて、屍の丘を踏み越えて。
遙風輪廻は、この瞬間一人の戦士――気高く嘶く栄馬を駆り、目に映る全ての敵兵を切り裂く常勝の騎士だった。……それはいい。遙風が本気を出して群衆に臨むのは構わない。けれど、少しは考えてみて欲しいものだ。
君に手首を掴まれ、限界を超えた速度に引き摺られながら人と人との間で摩擦される僕のことを。
「痛い痛い痛い! 痛いって遙風! ちょ、ストップ!」
「喋らないでください。舌を噛みますよ」
引き千切れそうな腕の激痛に耐え、僕は思う。
遙風輪廻、君はなんて『食欲』に忠実な女なんだ……。
箱崎外流という名前をした後輩にして現陸上部のトップランナーは、校舎周りをランニング中に僕の姿を視界に捉えるなり何の迷いも躊躇いもなくランニングコースを変更してこちらに向かってきた。と言えば、下校しようとした僕が偶然にもばったり部活に勤しむ後輩と遭遇したように聞こえるが、現実はそうではない。完全に箱崎が僕を待ち伏せていた結果だった。
理由の方には残念ながら心当たりがある。だからこそ下靴に履き替え、エントランス前で楕円を描きながら疾駆する箱崎後輩の姿を認めるなり下駄箱の影に身を潜めたのだが、厄介なことにこの後輩の空間把握能力は狩猟前の肉食獣に等しかった。
不吉極まる喜色満面で僕のもとに駆け寄る箱崎の、その溌剌過ぎる笑顔が作り物だと見抜くのに呼吸ほどの手間も掛からない。背筋を伝わる嫌な汗の報せである。箱崎が僕に向かって微笑み掛けるなど、天変地異の前触れでなければただの死亡フラグなのだ。
半ば呆れるようにして言った。
「こんにちは箱崎。今日はまたずいぶんと機嫌がいいみたいだな」
「そう見えますか? さすがは久刻先輩です。ボクの心なんてお見通しなんですねっ」
にこにこ。なにがそんなに楽しいのだろう、本当に。
顔の筋肉が完全に緩みきってべったり貼り付いた笑顔が消えない箱崎に僕は続けた。
「はは、僕ほどの人間になれば君の心の中なんて簡単に覗けるのさ」
嘘だった。
「あっははー」
箱崎は独特の笑い声を上げてから、
「だったら、久刻先輩にはボクの言いたいことなんて口に出すまでもなく分かりますよね?」
「ん? なんだ」
ぱあ、と一層箱崎の表情が明るくなる。ごく自然な動作で一歩前に出ると、僕との距離がそれだけ縮まり見上げてくる首の角度が急になった。そして上目遣いに僕を見、久刻先輩、という甘い声の囁きがして、
「死んでください」
「なんでだよ!」
いや、まあ、こいつが僕に笑顔を向けてきた時点でこのオチは予想していたのだけど。
「あれ? 久刻先輩ならボクの心なんて簡単に読めるはずですよね。ボクの笑顔は不機嫌なほどに輝きを増すんですよ。今の気分はつまり最悪です。先輩、殺戮していいですか?」
箱崎は相当ご立腹であるらしい。見上げてくる笑顔に背筋が凍る感覚は、遙風の逆鱗に触れてしまったときのそれに似ている。……ふ、腕を上げたようだな箱崎。
「……と、ボクだってバカではありません。この国には法律があって、殺人は違法です」
「ほう、どうやら君にも常識ってものが分かってきたようだな」
「ボクにだって先輩には法を犯してまで殺害する価値などないことぐらい分かっています」
「ははは、面白い冗談が言えるようになったな箱崎」
出来るだけ箱崎の暴言に耳を傾けず、胸の辺りにある頭を撫でてやった。
「触らないでください暴漢」
「言うようになったな。これも一つの成長か」
「触らないでください童貞」
「な、なんてことを言いやがるんだお前!」
「だ、誰か来てください! 先輩が! 久刻十字先輩が私に――あ、やあ! や、やめてください先輩! や……っ、ダメ!」
「止めろ! マジで誰か来たらどうする気だよ!」
こいつ! この事態を予測してさっき一歩接近してきていたのか!
後ろに飛び退いて距離を取ろうとする僕の袖を、箱崎はがっちり掴んで離さない。
「いや……っ、ダメです先輩! そんなもの仕舞って下さい! これ以上はもう……やめてください」
「お前が止めろ! ……あ、いや、止めてください。ほんとお願いします箱崎さん!」
物凄い勢いで年下の女子に謝る僕だった。袖を掴まれているために大幅な体勢の変更が出来なかったことが僥倖か、膝をつくことまではしなかったのだが。可能ならそれさえ辞さない勢いであったことは否定できない。惨め過ぎるそんな先輩男子を、箱崎後輩女子は勝ち誇るようなほくそ笑みに軽蔑の眼差しを上乗せして睥睨していた。騒ぐ様子はない。その事実に安堵している自分が嫌だった。
ふう、と吐息してから箱崎は僕の袖を解放する。
嘲笑う表情が崩れて呆れの感情に移り変わり、箱崎は腰に手を当てて首を左右に往復させてから再び僕を見た。その視線がやけに癪に障る。やれやれと言って箱崎は、
「臆面もなく後輩の女子に頭を下げるんですね。ボクは失望しました。久刻先輩はもっとプライドや自尊心というものを大切にすべきです」
「…………」
「はあ……。なんだかもう、ボクは久刻先輩が分からなくなってきました。いえ、初対面から同じ人間ではない気はしていましたが。それでも脊椎動物というくくりの中においてでは、同じ生物だと思っていたのですけどね。それさえも買い被りでしたか……」
今日この瞬間をもって、箱崎にとっての僕が無脊椎動物と化した。
「多感なお年頃で自身の感情を抑えきれないのは分かります。もはや欲求を一人では処理できないというのも分かります。ですけど」
とつとつと呟くように続け、憐憫を湛えた瞳でこちらを見上げる。
「いくらなんでも、学校のエントランスで後輩の女の子を襲うのは人格を疑いますよ」
「僕はお前の人格を疑うけどな!」
「おっと。無脊椎動物相手では人格という表現は正しくないですね」
「答えろ箱崎、僕が何をした!?」
常日頃から非道の極み的暴言で僕を罵倒する箱崎だが、今日は度が過ぎていた。言葉に容赦がない。僕の人間性が乏しめられている気分だ。なんだか僕自身、久刻十字は本当に無脊椎なのではないかと思ってしまうほど。
「ふう。さてまあ、冗談はこの辺りにしておきましょうか」
冗談だった。
僕の人間としての尊厳が取り戻される。
「本題ですが久刻先輩」
「なんだ?」
「死んでくれますか?」
「また繰り返すのか!? 今のやり取りを初めから!」
「触らないでください無脊椎童貞」
「微妙に変化している!?」
「ところでですね、久刻先輩」
これまでと変わらぬ口調で箱崎が言う。三度目の循環を予想して反射的に身構えたが、次に箱崎の口から出た言葉は予想に反してまともなものだった。
「久刻先輩の今日のお昼休みの行動について、詳しくお話していただけないでしょうか」
至って真剣な眼差しで僕を見上げ、僅かにトーンを落とした声。箱崎外流が訊いてくる。
今日の昼休み。というと僕が遙風と共に戦場、もとい購買を馳せていた頃で――と、思考がそこで急停止する。加えて僕はなるほどと事の次第を理解する半面で、やっぱりそうかと呆れるように納得するというおかしな胸中を味わった。
「遙風と購買行って、中庭で弁当を食べた」
誤魔化す気はないので包み隠さず伝える。すると箱崎はため息混じりの吐息をし、
「やはり、あれは久刻先輩だったんですね。実は偶然ながらボクもお昼休みは購買にいたんですよ」
「それは偶然だな」
本当に偶然であるかは分からないが。話を合わせるように僕は相鎚を打つ。
「いやぁしかし、久刻先輩でよかったですよ。遙風先輩と手を繋いでいるものですから、うっかり蹴りを入れてしまったので。でも久刻先輩なら問題ありませんよね?」
「そうか……犯人はお前だったんだな箱崎外流……!」
ずきり、と右脹ら脛が痛むのを僕は確かに感じた。何がうっかりだ。確信犯に違いない。
思い出したことで患部が再び痛み出すのに耐えながら、僕は表面上を冷静に装う。
「それにしても箱崎、お前って本当に遙風信者なんだな」
「それも今更ですね。ボクは遙風先輩に全てを捧げるためにこの高校を受験したのですよ」
筋金入りだ。
箱崎は至って本気の表情。残念ながらそれは見た目だけではなく、おそらく心中もなのだろう。
遙風信者こと箱崎外流。高校の志願理由は本人曰く遙風の追っかけであり、その行動の全てが言葉に即している為に嘘は言っていないと推測できる。詳細は聞いたことがないが、当時別の中学に通っていながらも地方の大会で遙風の走りを見た箱崎は一目に心を奪われたという。
そう、文字通り心を奪われたのだ。
走る速度に魅了されたとか、そういう意味ではなく、人間として完膚なきまでに惹かれてしまった。
端的に言うなら。
箱崎は遙風に恋をしてしまったのだ。
「…………」
何だか自分で自分の独白が嫌になってきた僕は、そこで思考を停止した。
「どうかしましたか、久刻先輩?」
きょとんとした箱崎が小首を傾げた。
「いや、なんでもないよ」
「そうですか」
本当はなんでもなくないのだが。重ねて言っておくと、箱崎は女である。
しかしながら人にはそれぞれに想いの形というものがあるのだろうから、他人である僕がとやかく言うこともまた出来ない。関係のないことでもある。遙風が特に迷惑しているという訳でもないので――あくまで遙風は。おかげで僕は被害を被り続けている――好きにすればいい。
「本当に、つくづく分かりません。どうして遙風先輩はそう、執拗に久刻先輩なんかに構っておられるのでしょうね。日当たりの悪い位置に生えている雑草を、そっと日向に植え直しているようなものですのに」
「……なあ箱崎、これで何度同じことを言うか分からないんだが」
箱崎の嘆き(罵倒含み)を無視して、
「いい加減僕に付きまとうのは止めろ。心配しなくても遙風と僕は友人以上の関係ではないんだよ」
遙風によれば友人未満と認識をされているレベルなのである。
「ふむ。確かにもう何度目か分からない台詞ですね。しかし、それもまあ今なら少しだけ信用してもいい気がします。……いえ、信用と言うより信憑ですか。久刻先輩の言葉に少しだけ説得力があります」
「なんだ、聞き分けがいいな箱崎。長いこと同じことを繰り返して良かったよ。半年もあれば人は分かり合えるものなんだな」
「ご冗談を。ボクと久刻先輩は永遠に分かり合えなどしませんよ。言わば、ボクが実数なら久刻先輩は虚数です」
二乗したらマイナス箱崎になるらしい。
「ボクはですね、自分が直接見たものや聞いたものしか信用しません。――だから昨晩、久刻先輩が他の女性と仲良くしていらした様子を目撃して、先輩の仰ることも案外本当なのではないかと思い始めた次第です」
……なんてことか。僕としたことがとんだ失態をやらかしてしまっていた。昨日放課後に会話した、あるいは周囲から見て仲の良く見えるような状況を共にした女子は二人。遙風輪廻と天門坂一月だ。ということはつまり、箱崎に僕と天門坂がいっしょにいる場面を目撃されていたことになる。
構わないんだけど、問題はどのシーンを見られていたかだ。箱崎の語る口調からして、よもや関節を決められた上に首にナイフを突き立てられている様子を見られていたわけはないにしても――あれ。思いも依らぬところで思考が中断される。待て。箱崎が僕を見たのが仮に災害跡の瓦礫路地だとして、だとしたら箱崎もまたスプラッタな死体を発見していることになるではないか。態度を見る限りではそんなものは見ていないようなので、だとしたら、どこで僕らの姿を見たというのか。天門坂曰く、僕はあの後間もなく意識を失っている。何とか記憶を辿って思い出せるのはあの瓦礫の上で――
「箱崎、お前どうして夜中に旧都なんかにいたんだ?」
当然の結論として行き当たる。災害跡地。今や瓦礫の街たる旧都に夜、脚を運ぶ理由が見当たらない。
「ぎくっ……です」
箱崎はあからさまに怪しい擬音を自分で口にするこれは何かある。間違いない。箱崎外流は黒の星だ。
「い、いえまあ、なんというかですね、夜のランニングに出掛けていたんですよ。トレーニングは欠かせませんからね。あっははー」
本当になんでもないんですよー! と両方の掌をバリアーみたいにして必死に訴えてくる。パントマイムで見えない壁を拭いているように高速でワイパーの運動を繰り出す小さな掌。……たまにこんなことをするから、こいつは可愛くて仕方ないんだよな。ませてるのかそうでないのか。
今日のところは、ではそんな目に優しく心暖まるハートフル箱崎に免じて先刻までの無礼を許した上でさらに言及なしのお咎めなし、寛大な久刻十字先輩からの特別大サービスで忠告を一つくれてやる程度にしておいてやろう。
「分かったよ。そういうことで構わない。でもな箱崎」
今から自分の言おうとすることに今朝を彷彿する。あの地から、天門坂一月が久刻十字を遠ざけようとしたように、僕もまた彼女に倣うようにして、
「これからは旧都には近付くな、あの辺は結構危ないから」
「……はい?」
「それに知ってるだろ、近頃流行りの失踪事件。夜はこの田舎も物騒だからあんまり夜には出歩かないこと。――これは後輩思いの先輩がしてやる、有り難いご忠告だから忘れるなよ」
ぽかん、とまだこちらの言っていることが理解できない風な箱崎後輩。いいさ、今はそれで。必要以上のことなんて知らなくていいのさ今はまだ。少しでも僕の忠告を守る気になってくれれば幸いだ。だって、いくら生意気だとか言っても自分を先輩と呼ぶ人間に殺人の現場なんかに近付いて欲しいとは思わなくて当然だろ。
じゃあな、と簡単に別れの句。それを最後に僕はエントランスを出る。
夕日が綺麗に輝くオレンジ色の空。時刻は夕凪とか呼ばれる頃合い。深呼吸を一つして、不意に見つけた飛行機雲の先をなぞってみる。それに飽きたら歩き出すとしよう。
目的地は勿論――旧都、災害跡地だ。
瓦礫の城、廃墟の街。そんな風にキャッチフレーズでここを親しんだことはないのだが、突発して閃いたにしてはまあまあのセンスを秘めているのではないか。そう考えて今一度頭の中でそれを反復してみると自分が意外と恥ずかしいことを思考していることを思い知らされた。てなわけで没。これからも僕はこの瓦礫に埋もれた旧都を災害跡として認識し、またそのように呼称するだろう。愛称なんて必要ない。……うん、ないな。
埃っぽい廃墟の隙間を練り歩く。昼と夜と夕方で見えてくる景色が丸切り違ってくるから、ただでさえ迷路染みて入り組んでいるというのに訪れる時間帯まで異なってしまえばそれだけで目的地まで正確に脚を運ぶことは困難を極める。昨日と同じ位置を目指すが、はて先日はどんな道程を経て辿り着いたのだろうか。アリアドネの糸を用意しておくべきだったかもしれない。
これはちょっと埒が明かないな、とか思って気晴らし気分に首を上方に傾けるのと、
「……アンタ、何してんのよ」
その不機嫌な声が頭上から落ちてくるのは同時だった。
誰の声かなど思考するまでもなく、僕は視界に捉えた彼女に軽い挨拶を送る。
「よ、天門坂。やっぱりここにいたんだな」
とことん仏頂面の天門坂一月と、あくまで軽薄に装う久刻十字。二人の対照的な態度と視線が交錯する夕方の頃は、この瓦礫の上に登れば遙風もお気に入りのあの絶景が拝める時折。雅な赤い世界を臨める位置にいながらしかし、天門坂は影の下界を見下ろす。
「ここには来るなって、言わなかった?」
ややあって、非難の声が降ってくる。天門坂は長話になると判断したのかその場で膝を折り、長い脚を組んで廃墟の上に座り込んだ。……際どい。もう半歩前に出ればあるいは、この視界は神秘の領域に到達するのではないか。畏れ多すぎるので自重しておくが。
さてあれ、余計な雑念を振り払い毅然と答える。ここで退いては負ける気がした。
「かもしれない。でもさ、僕だって頷いた覚えはないぜ。天門坂、悪いがこの件から手を引けったってそれは無理な相談だ」
「……あっそう。言葉じゃ説得できないってことね。呆れた、もしかしてアンタバカなの久刻くん?」
「……だったらどうするつもりだよ」
聞くまでもなく、彼女の実力行使がどういったものかなどつい昨日経験済みである。再生される優雅で流麗な殺人技。闇を滑走し風を薙ぐ銀の光。目の覚める一閃。一撃で戦闘意欲を削ぎ落とし、二撃で命を奪い去る。それは実に鮮やかな剣の舞い(ブレイドダンス)。死神の鎌が降り下ろされる、見る者を魅了する戦慄の一閃。
知らず身構えていた。幾ら天門坂の運動神経が優れていようとも、来ると分かっていれば攻撃を回避できない程ではない。昨日とは違って視界は良好。背後からの不意討ちも有り得ないので、これは地の利を得ている僕に分がある勝負だ。
「そっか。分かった。言葉でダメなら体に教えるしかないみたいだから――これが最後の忠告よ、久刻十字くん」
「……聞こうじゃないか」
「もし、どうしてもこちらの要求に頷く気がないなら」
何故か、目を細めた蠱惑的な顔をして、
「脚を組み替えます」
「な、なんだって!?」
解ける緊張感。弛緩する空気。僕の中の戦意は消え失せ、臨戦の覚悟は遥か彼方。代わりに沸き立つ邪な感情に流される理性が、消えていく代償として久刻十字を内側から斬り付ける。
「待て! 落ち着け天門坂、気は確かか!」
「これほどにないくらい確かだけど。で、どうするの? まだ逆らう気?」
するり。組まれた脚が僅かに動く。デッドライン。ある意味で可視状態よりも破壊的な扇情的姿を頭上にいる同年代の少女が晒している。それだけではない。彼女はその全身を使い、身に纏う覇気を利用して言葉を介さずに訴え掛けてくるのだ。――この先に行きたいのなら早く頷きなさい、と。但し拒否をしたらその時は、楽園は永遠に手の届かない所へ過ぎ去ってしまう。
焦らすように、また天門坂が脚を揺らした。破裂寸前の理性。今朝の食事など比ではなかった。一秒おきに人として大事な何かが擦りきれていく気分だ。早く、早く答えを口にしないと。このままでは何もかも失って空っぽになる。
まだここに、久刻十字が残留する間に――確固とした意志を繋ぎ止め、言葉を紡ぐ。それは希望を放棄する、楽園への切符を捨て去るキャンセルの一言。胸を張って、己を強く持ち、言い放つ。
「お断りだ天門坂――! そんな誘惑……いや、挑発に僕は決して乗らない!」
右手で宙を切り裂く。
いいんだ、僕には、遙風がいるから。……本人に聞かれたらドロップキックをマッハでお見舞いされそうな、自分への慰めがそれだった。だってやっぱり惜しいじゃん。これが悲しい男の性なのである。
「……なんか、物凄い葛藤を経たような顔ね」
呆れている。天門坂は呆れている。
「……そっかぁ、ダメか。ね、久刻くん? わたしだと……嫌なの?」
かは……!
ちょっと待った! そのしおらしい態度はなんですか天門坂さん!
「久刻くん、わたしの、見たくないの? ……本当はね、もっと色々見て貰いたかったんだ。…………こんなこと、誰にだって言う訳じゃないのに。久刻くんだから……なんだよ?」
致死量。もう止めて。これ以上は本当に駄目です。その紅潮した頬とか、ちょっと涙目になりながら横目でちら見する仕草とか、耐えられません。鋼の精神を溶解させる、あどけなさを残す魔の美貌。無論作り物であることは容易く看破出来る。だが、しかし、人の視界とは目に映るものしか捉えられず、精神はその映像をダイレクトに刺激として受け取ってしまうのだ。
久刻十字の崩壊五秒前。
緊急回避。天門坂から目を逸らす。これ以上はダメだ。僕が僕としてあるために、これ以上は危険過ぎる。シャットアウトする景色。伏せる視界。固く瞼を閉ざす。とん、と軽やかな音が一つ。意識の外に転がった。安定を取り戻していく心拍。理性が正常に再起動。ひゅん、と滑らかな音。――微かに感じた、冷たい殺意の風。
「で、答えは久刻くん?」
大至急目を開けるが、当然既に遅過ぎる。目前には凶刃をゆらりと構える少女の姿。
愚かだったことは、一度死地に踏み込む覚悟を決めていながら天門坂に惚気てしまったこと。眼前の死神を人間と認識してしまったこと。そう――元来魔に属するモノは必ず、人間をペテンに斯けて魂を回収するのだ。
それは昨日の再現だった。
懲りもせずにまた突きつけられる、冷酷な死の切っ先。身の竦む一触即発。
「もう一度言うわよ。それと、付け加えておくけどこれは交渉じゃなくて命令。約束して、もう二度と――いいえ、せめてわたしが犯人を見つけ出して始末するまで、ここには現れないで」
脅迫。……違う。命令だなんて言っているが天門坂は独裁君主になりきれていない。その態度は相手を完全に支配した者の取るそれではなかった。言葉の機微から窺える。これは天門坂の懇願。この地にはやってこないでくれ、と誠心誠意からの願い。
「これ以上、わたしに関わらないで」
何がそこまで彼女に頑なな拒絶をさせるのか、僕には分からない。だが分からないなりに伝わる真摯さもまたある。理由は知れずとも、それは混じり気のない本音。一切合切を否定したいと、遠ざけたいと願う切実な思い。
「……答えてよ、久刻くん」
ナイフが音を立てて、肌に触れた。冷たい。大気の冷えを吸った鉄の刀身が、血液を介して温もりを得ようと静かにその時を待つ。まだ、血は流れていない。けれどこれが本当に最後で最後。言葉通り首の皮一枚。切り裂くにはほんの少し、微風ほどの摩擦で十分。
状況は完全に詰んでいた。全く昨日と同じだ。
確かに天門坂の言う通りこれは命令かもしれない。交渉であったとしてもこちらに選択肢が一つしか用意されていないのならそれは拒否を許さぬ絶対令だ。命と秤に掛けて。彼女の懇願を掃き捨てるか。突き詰めれば生死の選択。
僕は。
久刻十字は言った。
「言ってんだろ……お断りだよ」
何度問われても答えは返られない。頑なになる理由なら、こっちにだってある。
そうだ。自らの命と秤に掛けて尚、尊いモノがあった。だから僕は何度だって答えよう。断じて否。天門坂が何度跳ね除けようと構わない。僕はこの件から手を引けない。それは、今ここにある自分の存在意義を破棄することと同義だから。
「……悪いな、天門坂。僕だって犯人には恨みがあるんだよ、だから引けない。お前の言うことには頷けない」
これが連続殺人だというのなら、
「僕も、姉さんを殺されてるんだよ」
二週間前。久刻十字の命を救ってくれたその人は、忽然と姿を消した。――それがこの猟奇殺人に依るものだとしたら僕は、どうあっても引き下がる訳にはいかない。例えこの身が破滅しようと構わない。ただ二度と帰らない久刻標月の残像を空想し続けるだけならば、よほどそんな存命の方が無駄だ。
「……本気で言ってるの、それ?」
天門坂は、低い声で訊いてくる。だがそれは質問ではなく嘲笑で、苛立ちを含んだ憤怒の声。お前の命は自分が握っているのだと、高圧的に威圧的に警告する言葉。
僕は答えず、黙って天門坂を見据えて。蒼の瞳が静かな侮蔑でもって憎悪を隠そうともせず睨み返してくる。言葉は要らず、交錯する視線だけがこの場における絶対の意思疏通。互いに互いの用件を拒絶し合う沈黙の拮抗。
「……かったわよ」
先に目を逸らした天門坂が憎々しく吐き捨てた。
「バッカじゃないのアンタ……! もういい勝手にしろこのバカ!」
激昂しながらナイフを下ろす。
「信じられない、ほんと。…………まあいいわ。そこまで言うなら協力関係を認めて上げてもいい。だけどね――冗談じゃなく、アンタ本当に死ぬかもしれないのよ。それだけは覚えときなさい」
「……分かったよ。ありがとう天門坂」
不覚にも苦笑してしまう。怒って怒鳴り散らす天門坂の姿がこれまでになく何だか幼く見えてしまい微笑ましかったからだろうか。いや、これはあれか。遠く感じていた天門坂一月が少し自分に近くなった気がして嬉しかったんだ。
「お前さ、僕にお人好しだって言ったけど、そのまま天門坂にも返させて貰うよ」
「……」
「だってさ、僕のこと心配してくれただろ」
天門坂は答えず、静謐な瞳で冷ややかにこちらを見据えていた。どうやら扱いを間違えたらしい。かと思ったら、
「勘違いしないでよね、別にアンタが心配な訳じゃない」
王道中の王道。その手の鉄板にして代名詞のような台詞を口にする。
が、しかし。
後に続けられる言葉は照れ隠しなんて可愛らしいものではなく、静かに揺らめく怨嗟の意志を燃やした紛れもない本心からの、
「言ったでしょ。わたしは貴方を憎んでる。殺したいくらいにね。――だから、わたしに殺されても文句は言わないでって、最後通告をしたまでよ」
一線。境界を隔てるその一言が両者を別つ。揺るぎない瞳での拒絶が、それを告げた。
中々どうして全く。
こいつを理解出来る日は果たしてやってくるのだろうか。一抹の不安がいつか一縷の期待に変わることを願って。今は協力すると言ってくれた彼女を信じよう。




